第160話 不安と心配と寝言

 腕の中ですーすーと寝息が聞こえる。


 お腹を撫でていても反応はない。ベッドサイドの弱い明かりの中で小さく上下している身体からは力が抜けている。よく寝ているようで、その様子にほっとする。

 一時期は本当に死んでしまうのではないかというぐらい吐いていたから、落ち着いて寝ている姿を見ると安心する。


 なんとなく肩を撫でると、もともと細かったのにさらに細くなってしまったような気がして、ヒヤリとしたものが胃に巣食う。

 ちゃんと食べているのは見ているが……もう少し食べた方がいいのではないだろうか……食べ過ぎも良くないか……しかし……


 堂々巡りの思考に陥るのはもう何度目か。


 安定期に入って、大手を振って動けますねという顔で嬉しげにあちこちと動くのは、本当は見ていて気が気じゃない。情勢的な事もあり止めたいが、そうするとリーンは息苦しくなってしまうのだろう。辺境伯領で軟禁されている時でさえ何かしらやっていたのだ。

 それにリーンの働きは王都の民にとっても私にとってもありがたいのは事実。常に民の方を向いているその姿勢を、王都の民は良く見ている。

 表面的な支援ではなく生活が定着するように、生きていけるように、必要なものを与えるだけではなく仕事を作り民自らの足で立てるように支え、時には引っ張るようにして活気を取り戻させているそのやり方を我らが聖女と呼び慕っているのだ。


 ある者はそれを女の浅知恵――人気取りだと言うが、その程度の気持ちで出来るようなものではない。

 うまく行かない時はその矢面に立ってずっと話し合いを続け、折り合いをつけられるよう根気強く調整を図っていた。政の中で下に見られがちな女の身で、それがどれだけ大変な事か。家政を取り仕切る事とはわけが違う。ただ指示を下すだけでやった事がない者にはわからないだろう。

 その精神力と行動力で下の者達に尊敬されている事を自覚して……は、いないだろうな。おそらく聖女だからとか、私の妃だから気を遣ってもらっているとか、そんな勘違いをしていそうだ。


「だが……もう少し身体を休めても……せめてもう少し体重を戻してから……」


 思考はそこに戻ってしまう。戻ってしまうが、仕方がないのではないかと思う。

 これからどんどんお腹は大きくなるだろう。当たり前だがそうしたら出産しなければならないのだ。それは命懸けだとネセリス夫人が言っていた。

 リーンも、ちーちゃんも無事でいて欲しい。加護が役に立つならいくらでも手伝いたいが、お産の部屋には入れないと今から言われている。男子禁制なのだと。

 その事自体は知っていたし今までは何とも思わなかったが、今は何故そんなルールがあるのだともどかしい。


 こちらの不安を知ってか知らずか、リーンは何とかなりますよとあっけらかんに笑う。妊娠出産についての知識は確かに豊富なようだが、何が起きるかわからないと言うのに……

 周りには心配し過ぎだとか干渉し過ぎだと嗜められるが、逆にあれを見て平気でいる方がおかしいと思う。ディートハルトもそんなものだと言って聞く耳持たないし……あいつは夫人が心配じゃなかったのか……?


「……ん」


 身じろぎしたので回した手を緩めると、腕の中でもぞもぞと動いてこちらを向き、居心地が良いところを探すように胸元に擦り寄ってきて満足したようにむふっと笑った。


 ………かわいい…


 起きている時にはあまり見せない気の抜けた顔で笑っている。


 初めて見た時はこの顔に驚いたものだが、今はもう見慣れた顔だ。

 三日月のような綺麗な眉に涼やかな印象の目元。真っ直ぐに通った鼻筋から小ぶりな鼻に繋がるラインと、形のいい小さな唇が奇跡のようなバランスで配置されたその顔は人ならざる者にすら見える。

 特にリーンが取り繕っている時の顔は完璧で、私の周りでもノクター以外は固まってぼうっと見ていた。

 見惚れていないで仕事をしろと言いたかったが、初見で盛大に動揺した自分が言うのもなと黙認した……


 また少しすると社交の季節がやってくる。

 そうなればリーンも出席しなければならないだろうが、出したくない。

 妊娠していようがなかろうが、多くの者を魅了するだろう。自覚なしに。想像するだけでため息が出る。

 手を出してくるような馬鹿はさすがにいないだろうが……問題は女の方だ。

 守りは固めているが、何を言い出すのか男よりも予想がつかないところがある。


 どうにか封殺する事は出来ないものか……

 リーンが多少の事を言われても動じないだろう事は想像出来るが、それ以上を言ってくる輩がいないとは言い切れない。


 少なくとも不仲だとかわけのわからない噂は払拭出来たと思うが……


 私室ではない公の場でこれ見よがしに触れているのは半分はそれが理由だ。半分は……単純にそうしたいだけだ。お腹に触れるのは周りの目がそこに集まりそうで嫌だったから止めたが。

 辺境伯領から広がったらしい新しいドレスの形で、下にコルセットを付けない柔らかな素材のそれを身にまとっていると、胸下を緩く絞っているだけなので一見お腹が膨らんでいるようには見えない。だがそこに触れると確実に胸からお腹への自然な形がわかってしまうのだ。それはさすがに出来ない。


 ラウレンスやらラーマルナやら、あちらのくだらない噂も潰してやりたいが……どうしたものか……


「………へへ」


 何やら楽しそうに笑うリーン。

 どんな夢を見ているのかわからないが、幸せそうでこちらまで笑ってしまう。


「ひとたま追加で……」


 ひとたま?


「ふたたまは多いです」


 ふた……多い?


「みそが至高なんです……異論は認めますけど……」


 みそ……?


「しおはあたりはずれあるし……」


 やけにはっきり喋るので起きているのかと思ったが…………寝ている。


 じっと観察するが、口元がふにゃっと笑ったままでそれから寝言が出る事は無かった。


「……………」


 みそとは、なんだ?

 リーンが至高とまでいうのだから……余程のものか?

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