「ねー、なんでかなー。なんで、置いていったのかなー」

 長いまつ毛。ほっぺを指先でつついても、眠り姫はすっかり寝落ちしている。

「さあ。ジャマだったんだろうよ。どこへ逃げたか知らねえが」

「ジャマ、ねえ」

 大勢が、長野県へ移動した。少しでも標高の高いところへ。地下へもぐった人たちもいるらしいけど、千代田区とか永田町とか、あのあたりの住人だ。なんだか笑ってしまう。災害ディスアスター映画でのいつものワンシーンだ。地下シェルターへの道へ、あふれかえる人々。押し重なって潰れて、その鼻先で分厚い扉が閉じられる。入らなかった大多数の人々は、山を目指す。噴火の心配が少ない、海抜の高い、大洪水にも耐えられる高地。

 指先を、あたたかくてやわらかい舌がなめる。口もとのかわいらしさについ、

「腹減ってるみたいだな」

 それを見て、シュンが笑った。とてもいい笑顔。優しそうでよりかかると安心な、そんな笑顔が大好きだ。

「どうする」

「うーん」

 いくら見ていても飽きない。

「かわいい」

 警察へ届けるつもりだった。

 でも、いまさら届けてどうなるのだろう。さっきみたいに、警察もほぼ死んでいる。誰もいない警察署に、置き去りにされるだけだろう。だから、赤ちゃんを横抱きにして、うちへ帰った。シュンはポットでお湯を沸かしながら、しばらく何かを考えていたけれど、

「ミルク買ってくる」

 ミルクって、赤ちゃん用のだろうかと思う間もなく、腕の中へが降りてきた。

 目。眸。水の中から見上げているよう透明な膜越しのまなざし。見ているのか見ていないのか。白目って、本当に青いんだなあと、どうでもいいことに納得する。

 ひとは、水なしでは生きられない。ひとは海からきたというのは本当だろう。柔らかな、みずみずしい肌の柔らかさ。

 ああ、かわいいなあ。

 何が変わっても、かわいいって思う気持ちは自然だし、本当に可愛いし、たぶん、一緒に、このままこの子といられるのかな。この子の目を見ていられるなら、それもいいのかな、と思う。

 今夜は、お腹いっぱいにミルクを飲んで、一緒に並んで朝まで眠る。

 寝られるかな。ずっとこのほっぺにキスしていたい。

 かわいい、かわいい、かわいい。

 もちろん、シュンが戻ってきたのは知らなかった。この子と一緒に、夢の中にいて、やっぱり抱っこして、小さな声をたてて笑うこの子を見つめて、抱きしめて、うっとりと目を閉じて、時が惜しい──そう思った。




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