7章 新たな決意

第34話 協力者の男

 しばらく国道沿いに進んで行くと、商店街に出た。道の細い、活気のない商店街である。夕方にはまだ早いというのに薄暗く、人の行き交いも少ない。歳のいった老体や、買い物へやってくる子連れの四五十代の主婦たち、その合間を縫うように危なっかしい運転で道を通り抜けて行く自転車などが目に留まる。手前の魚屋から生魚の嫌な臭いが漂ってくる。店の奥ではエプロンを腰に巻いている白髪の店主と客であろう老婆が、仲良さげに談笑をしていた。

 急がねばならないと頭では分かっていた。ただ、急ぐ必要性を改めて問うてみると、明確な理由は見あたらなかった。追われている実感までも希薄だった。

「雛子ちゃん」

 俊一が話しかける。雛子が顔を上げた。

「なにか食べたいものある?」

 雛子は首を横に振った。朝から、ずっと口数が少ないままだ。俊一は悪いと思いながらも雛子の手を引き、商店街の中をゆっくりと歩いて回った。

「雛子ちゃんはそばとか好き? 麺よりご飯の方がいいのかな」

 返事を待っても反応はない。しばらく歩いてきたためか、雛子は頬を上気させて、疲労感を漂わせていた。

 俊一は雛子を喜ばせようとしていた。ぬいぐるみを売っている店の前を通りかかると、一匹の犬のぬいぐるみが、俊一の目に留まった。

「雛子ちゃん犬好きだったよね。ほら、これ。買ってあげようか」

 手のひらサイズのぬいぐるみを手にとり聞いてみる。雛子は困ったような顔をしていた。

 雛子の瞳がじっと俊一の目を捉えて放そうとしなかった。俊一は堪えきれずに、自分の方から思わず目を逸らしてしまう。見透かされているような気がした。

「次はどこ行くの?」

 雛子は言葉にこそ出さないが、暗にそう訴えかけてきていた。俊一は負担を感じていた。雛子を連れ去る前からずっと感じていた負担のように思えた。単身都会へ出てきて四年間ずっとまとわりついてきた、目を背けたくなるような現実についてだった。どこへ向かっているのか。なにが目的なのか。その問いに未だ答えられずにいる自分がいた。いっそ、誰かが迎えに来てくれることを、願っている気さえした。今、二人の前に迎えが来ていたら、大人しく従うだろう。俊一はなにもかもを放り出したくなった。

 ポケットに入っている携帯電話が鳴り出した。俊一は真夜から借りていた携帯を思い出し、メールを確かめる。メールには場所が記されていた。メッセージ文は一文字もない。ただ、ここへ来るように指定されていることだけは分かった。

「行こう。雛子ちゃん」

 指定場所は近くだった。十五分ほど歩いた場所に、寺があって、その正面にスナック里助とかかれている看板が出ており、地下へと階段が続いていた。電気はついておらず、視界が悪かった。階段を下りた先にある重たい扉を引いて開けると、天井から吊されているランプが淡い赤紫色の光を届けてくれた。耳に届いたのは、ピアノの音だった。聞いたことのある曲だと思い、少し考えて、エリーゼのためにであることを思い出す。悲しいような寂しいような、だけれどどこか落ち着くメロディーだった。奥へと進むことを戸惑っている雛子の手を、少しだけ強く握り、二人はピアノの音がする方へ、静かにゆっくりと歩いて行った。

 カウンターを回り込み、舞台の近くまで寄っていく。

 男は一心にピアノを弾いていた。

「あの。すいません」

 俊一が呼びかけると、男は手を止めた。

「ここじゃなんだから、場所を変えようか」

 男はそう言うと立ち上がり、歩き出した。男の背格好は俊一とあまり変わらない。俊一よりもいくらか年下に見える。Tシャツの上から灰色のパーカーを羽織り、臑の半ばくらいまでの長さの短パン、足にはサンダルを履いている。足を引きずるらしく、サンダルと地面が擦り合う音が歩く度に聞こえてくる。刈り上げられている黒髪を見つめながら、俊一は男の言葉に耳を傾けた。

「この近くに俺の家があるんだ。家って言っても、仮宿だけどな。あの女の頭領に頼まれたから一応はオーケーしたけどさ、実を言うと逃げてこられるとは思ってなかったから、あまり長居はして欲しくなくてさ。さっきラジオで聴いたけど、あの暴走族たちみんな捕まったよ」

 俊一は相づちを打つ。去っていくとき、真夜は捕まっても仕方のないことだと話していたことを、俊一は思い出した。

「どうでもいいけど、少しは俺に感謝してくれよ。あんた逃がすのに、俺も協力したんだからな。あいつらに入れ知恵したのは俺だよ。どうでもいいけどさ」

 男がそのようなことを話したので、俊一は「ありがとう」と答えておいた。

 まもなくして、人気のない民家に到着した。正面玄関は木の板で塞がれているため、裏口へと回り込んで、ひび割れているバラックの隙間をくぐり抜け、中へと侵入する。石垣と草木に覆われている、人目のつかない場所だった。

「ここに住んでるんだ」

 男が階段を上りながら言った。

「存外、便利だよ。ネットの回線は他人の勝手に使ってるし、電気も隣家のばあさん家から引っ張ってきてる。風呂はあまり入らないけど、近くに銭湯があるからな。前の通りにコンビニもあるし、十分暮らせるよ」

 二階へと上ると、男の部屋があった。電気をつけると明るくなる。窓は木の板で完全に塞がれており、天井から吊されている灯りは、六畳くらいの部屋にしては、幾分か小さいものであった。シングルベッドとノートパソコンの置かれている机だけの簡素な部屋であった。

「すごいね」

 俊一は感心した。

「その辺のホテルより居心地いいよ。まだここへ来て二ヶ月だけど」

「ここで、一人暮らししてるってこと?」

「そうだよ。そこ座りなよ」

 俊一と雛子はベッドに腰を下ろした。

「実家は遠いの?」

 俊一の言葉に、男が首を振って答えた。

「もう何年も帰ってないね。家出してきたから」

「そう」

 俊一は色々と聞きたいことがあったけど、あえて口にしなかった。どのように接すればいいのか、様子を伺っていた。

「ところでさ」

 男がパソコンの電源を立ち上げて言った。

「君はそこの幼女連れ去って、結局なにがしたいんだ」

「なんだろ」

 俊一がつぶやく。

 男が狐のブラウザを立ち上げて、YAHOOのポータルサイトを開いて続けた。

「君はネットじゃ人気者になってる。実名まで報道されて、顔写真まで公開されてるよ。コメント欄を見て見ろよ。みんなご立腹だ」

「なんて書いてあるの?」

「気持ち悪い奴。フリーターの負け犬。弱者の敵。オタクの敵。ゴミ。カス。死刑。親と引き離された女の子が可哀想。無事に帰ってきて欲しい。母親も心配してるだろうな」

「なにも知らないくせに」

 俊一が短く言った。すると男が、それを否定した。

「なにも知らないのは君の方だと思うよ。俺にも分からない」

「なんで? だって、雛子ちゃんは」

「知ってるよ。女の頭領から事情はだいたい聞いてる」

 俊一の言葉を遮るように、男が続けた。

「俺が分からないのは、君がその子を誘拐しても、なんにもならないって意味だ。君がその子を助けたとかいう理由が仮に本当であっても、ここであと数日過ごして、それでその後、どうするのさ。結局、なにも開けない。道は行き止まりだよね。つまりはさ、実りのない自己満足なんだ。この際だから言わせてもらうとね、人生ってのは、傍観しているのが一番なんだ。みんな知ってるよ。どうせ最後は死ぬんだから、なにもしない方が正解だ」

 男はなにもかもを知り尽くしたような目をしていた。

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