2章 警察が動き出した

第9話 ある平和な日の出来事だった

 駅のホームで煙草に火をつけた瞬間だった。喫煙ルームでけたたましい携帯の音が鳴り響く。

「もしもし。村越ですが」

 険しい顔をつくり、携帯口から聞こえてくる声に耳を傾ける。

「承知しました。すぐ向かいます」

 電話を切ると、まだ一度も吸っていないマルボロを灰皿に落とし、喫煙ルームを後にする。

「早いですね。もう終わりですか」

 駅ホームのベンチで待っていた市原が、なにも知らない顔して声をかけてくる。村越はその隣に立ち、引き締まった表情で応じた。

「山辺係長から連絡が入った。引き返すぞ」

「事件ですか?」

「渋沢駅近くの住宅地だ。所在不明の事案が発生したらしい。至急向かえだとよ」

 白のパンツにスニーカー、少しくたびれ気味のジャケットを着ている五十代半ばの男――村越国男むらこしくにおから、ここでようやく部下の市原に事件の概要が伝えられた。

「ちょうど隣の駅ですね」

 半そで膝丈ズボン姿の市原が、ベンチから重い腰を上げる。腕時計の針を確かめてから、続けて言った。

「僕らに行けと?」

「事件番だからな。それに近かったってのもある」

「嫌なタイミングですね。今から遊びに行くとこだったのに」

「遊びじゃねえぞ。ただ特段、重要な任務でもなかった」

 神奈川県警察刑事部捜査一課に所属している二人は、前回の事件から次の事件が起きるまでの間、妙に手持ちぶさたの状態が続いていた。本日も、他県で発生した強盗傷害事件の容疑者とおぼしき指名手配中の人物が、渋沢市近辺のパチンコ店に出没しているという垂れ込みを受けて、様子見にパチンコを打ちに行こうとしていた最中であった。いかにも遊びに行きますといった装いをしている二人。せっかくの楽しい役回りを台無しにされ、市原は不満を漏らしていた。

「今日は僕当たるような気がしてたんですよね。それがいきなり行方不明者の捜索ですか? 家出じゃないんですか」

 優男の市原は、顔に似合わずなかなか無神経な発言をする。思ったことは頭の中で咀嚼するよりもまず先に口に出してしまうタイプだった。これでも二十七歳という若さで捜査一課に配属された、一応は優秀な刑事なのだ。

「文句を垂れるな。俺だってまだ火をつけたとこだったんだ。一本無駄にしたんだぞ」

 村越が煙草を吸う素振りを見せて苛立つ。市原が首を振って応じた。

「煙草はもう辞めるって言ってたじゃないですか。ちょうど良かったですよ」

「バカ言うなよ。まだ二本残ってるんだ。とりあえずこの箱空けてから、次どうするか考える」

「それは無理なパターンですね。僕は吸わないからどうでもいいですけど」

 市原がポケットからスマホを取り出し、いじり始める。

「それで村越さん。行方不明って言ってもそれ、家出の可能性もあるんでしょ?」

「家出した男を捜してやるほど一課は暇じゃねえだろ。話はちゃんと聞いてある」

 反対側ホームの向こうから電車が音を立ててやってくる。駅ホームには土曜日出勤のサラリーマン一人と、大学生くらいの男女と、背中の丸い老婆の姿が見える。それらをひとしきり見回してから、村越が声のトーンを一つ落として続けた。

「事件性は十分にある。ただちょっと妙な感じなんだ」

「妙? どういうことですか」

 市原の知りたそうな目を確かめ、村越が説明を加える。

「行方不明となっている男は、駅近くの書店でアルバイトをしていた一人暮らしの若者だ。通報者はその母親。昨日の朝方、息子から電話がかかってきたきり、連絡が取れなくなっているらしい」

「どういった内容の電話だったんですか」

 村越は自らも思索しつつ、無意識に無精ひげを右手で撫でつけながら、市原の問いかけに答えた。

「それがな、どうも意味が分かりにくくてよ。電話をかけてきた息子が、唐突に泣き出したんだと。それで『借金が返せない。監視されている。海に沈められるかも知れない』ってせっぱ詰まった様子で、訴えかけてきたってんだ」

「なんですかそれ。組織的な犯行ですかね」

「さあな。ただの金貸しじゃねえのは確かだ。かといって今どき筋者が噛んでたとしても連れ去りなんざ、するとも思えんがな」

「海に沈められるなんて言いますかね最近」

「ともかく、現場へ向かってみなくちゃ分からん。話はそれからだ」

 二人の眼前で電車のドアが開く。二人は電車に乗り込んだきり無言になった。

 駅の改札を出たところにあるロータリーでタクシーを拾い、そのまま現場へと直行する。指示のあったアパートにはものの五分で着いた。

 車から降りた二人の目に、別の警察官の姿が映った。アパートの二階に一人、手前の小さな公園に一人、村越や市原たちとは違い、いずれも制服を着ている。

 砂場とベンチくらいしかない小さな公園を横切り、村越たちがアパートのほうへと歩き出す。手前にいた警官に短く敬礼をし、懐から警察手帳を覗かせると、警官はすぐにかけ寄ってきた。

「渋沢署交通課勤務の上田です」

「ご苦労。本庁一課の村越だ。所轄の者たちは」

「まだ到着しておりません。私どもも先ほど駆けつけた次第です」

「不明者宅は二〇四号室でよかったな」

 階段を上りつつ、所轄署の警官に尋ねる。

 警官は困ったような顔つきになって、首を傾げた。

「二〇三号室も、のようです」

「もだと? 行方不明者は成人男性一人と聞いているが」

「隣の部屋に住む女児もです」

「それは誰に聞いた」

「女児の母親という方からです。あちらがそうです」

 警官がそう言って左手を前に差しだした。階段を上りきったところに、一人の女性が立っていた。見た目は三十前後、茶色がかった長い髪をゴムひもで一つにまとめ、右肩に寄せている、痩せ型の女性である。女性は不安そうな表情で壁に背をあずけ、両手を肘に回してうつむいていた。

 村越たちが近づいていくと、女性はこちらに気が付き、小さく礼をしてきた。村越も礼を返してから、話しかけた。

「刑事の村越です。いろいろと気持ちの整理がついていないかとは思いますが、少し宜しいですか。娘さんがいなくなったと」

 女性が静かにうなずく。

「そうです」

「いつから姿が見えないのですか。通報はされましたか」

「今朝起きて、初めて気付いたんです。家の周りを探していると、警察の人が見えたんで、そこで話しました」

「指令本部へは」

 村越の問いに、背後の警官が応答する。

「はい。すぐに連絡を入れました」

 再び前を向き、質問を続ける。

「娘さんの年齢は?」

「小学校に上がったばかりで、六歳です」

「最後に娘さんと会ったのはいつ頃でしたか」

「昨日、学校へ行くときです。私仕事で昨日は深夜まで帰ってこなかったので」

「あなたが帰宅したとき、すでに娘さんはいなくなっていたと」

「部屋に入って灯りもつけずにすぐ寝たので、娘がいたかどうかは、分からないんです。夜遅かったし、布団に入って眠っているものかとばかり思ってて。でもランドセルはその、部屋に置いてあったので、学校から帰った後に、いなくなったと思います」

 聞いたことはすべて後ろにいる市原が捜査録に書き留めていく。村越は女性の言動に気を配った。女性の顔を覗いてみると、視線は床の一点を見つめ、こちらの顔を見ようともしていない。

 村越は少し違和感を覚えた。娘がいなくなった母親の反応としては、どこか妙であった。

「分かりました。ありがとうございます。また後ほどお伺いするかと思います」

 村越は二階の手すりにふと視線を送る。経年劣化と雨風の影響でえらく錆付いている。ひどい箇所は黄緑色に変色していた。建物全体が古びている印象を受けた。

「旦那さんは今は、仕事中ですか?」

「いえ、いなくて。シングルマザーなので」

 母親が首を振る。

「そうですか。それは、大変ですね。もうじき署の者たちも駆けつけてくるでしょう。奥さんも心中穏やかではないでしょうが、娘さんの捜索に尽力しますので、しばらくのあいだ辛抱願います」

 語気を強めてそう言い残すと、村越は再び歩き出した。

 内心、村越は混乱していた。隣り合わせの部屋の男女、しかも一人は女児が行方不明ときたものだ。この意味するところはまだはっきりとは分からない。二人まとめて事件に巻き込まれたか、たまたま別々の事件が重なったか。いずれの可能性も否定は出来ない。しかし成人男性と女児がいなくなったと聞いて、村越の中では、ある重大な事件である可能性が濃くなってきていた。

 公園側に面した細い廊下を突き進み、玄関先にまでやってくる。二〇四号室。鉄の扉は握り拳が入るくらいの隙間を作って開かれており、下につっかえ棒が挟み込まれている。

「この部屋に住む男性のご両親が、奥の階段のところにおられます」

 警官が奥を指差しそう言った。

「分かった。君はあのママさんのところに居てやってくれ」

「了解しました」

 村越と市原は廊下をさらに進んで行く。突き当たりの角を右に折れ、二階から階段を見下ろしてみると、一階と二階の踊り場のところで、人が三人集まっているのを見つけた。柄物のチュニックにジーンズ姿の女性と、ベージュのカーゴパンツに白のポロシャツを着ている男性が、若手の男警官と向き合っている。村越と部下の市原が階段を下りていくと、三人は視線をこちらに注いだ。

「はじめまして。刑事の村越です。ちょっとお二人にお伺いしても宜しいですか。行方不明となっている男性の、ご両親ですかね」

「母の郁恵と申します」

 肩ほどで髪を切りそろえている女性が一礼する。

「父の正一です」

 あご髭をはやした男性がそのまま続けた。

「息子の俊一と連絡がつかないんです。私ら昨日の夜の便で東京に着きましてね、今朝ようやくこのアパート見つけたところですよ。したら息子が部屋にいなかったもんですから。鍵は管理会社の人を呼んで合い鍵で開けてもらったんです」

「ちょっとあんた、最初から話さないと分かんないだろうに」

 母親が父親の肩を叩く。

 村越はかまわず催促した。

「どちらでも構いませんが、最後に連絡をとったのはたしか昨日でしたか。誰が電話に出たんですか」

「私です。携帯にかかってきたんです」

 母親がショルダーバッグの中を漁って、折りたたみ式の携帯電話を取り出した。ストラップが取り付けられている桃色の携帯電話が姿をみせる。

「知らない番号だったもんで、はじめは不審に思ったんですけどね。取ってみたら息子の声がして、突然、謝ったかと思ったら泣き出したんですよ。あの子昔からそうで、悪いことしたときは必ず泣くんです」

「知らない番号、というと息子さんの番号は以前からご存じなかったんですか」

「いえ、知っていましたよ。それとは違う番号でかかってきたもんですから、携帯を変えたもんだと思っておりまして」

「他人の携帯という可能性もありますよね」

「それは、はい。そうです。ただ息子は部屋から電話をかけているみたいでした。借り物の携帯かどうかまでは、ちょっとよく分かりません」

「なるほど。それで、繰り返し聞くようで悪いですが、もう一度その息子さんとのやりとりを話して頂いてもよろしいですか」

 女性は「はい」と応じて、息子とのやりとりを語り出した。村越は額に手を当て、母親の細かい仕草にも気を配りながら、その話に耳を傾けた。

 話が終わりに近づいたところで、村越は桃色の携帯に話を戻した。

「その携帯は奥さんのものですね」

「そうです」

 母親が頷く。

「ちょっとかかってきた番号を控えさせてもらってもよろしいですか」

「ええ、構いません」

 携帯電話を受け取り、番号をたしかめる。着信のあった時刻は五月十八日、午前十時二十二分である。発信履歴に何度も同じ番号へ電話をかけた跡がみられた。

 番号を書き留めつつ、村越は尋ねた。

「かけてみたんですか」

「はい。でも出ないんです。電源は切ってるみたいで」

「よく思い出して欲しいのですが、その電話は本当に息子さんからのものでしたか」

「ええ、そうです」

「ちょっと声が違っていたり、周囲に他の人といるような感じは」

「なかったです。あの子つき合いとかも、その、ない子ですし、声優になりたいだなんて話、人前じゃ絶対しないと思うんです。私にだってなにも相談なく一人で決めちゃう子だから、本当にせっぱ詰まって私のところに掛けてきたんだって思うんです。あれは間違いなく息子からの電話でした」

 母親が張りつめた表情で訴え掛けてくる。

 そのとき村越の頭の中では、ある別の犯罪が想起されていた。都会に住む息子からの電話というと思い浮かべてしまう。過去に似たような通報はいくらでもあった。村越が関わったものだと、もっと年のいった老女からの通報で、結局その老女の息子さんは交通事故に遭ってなどおらず東京でぴんぴんしていた。老女は息子さんの怪我を治すため、百万ほど口座に金を振り込んでしまったという結末だ。

 よくある詐欺の話だ。詐欺もたしかに事件に違いはないが、少なくとも捜査一課の担当ではない。知能犯の担当は捜査二課だ。

「録音などは、していませんよね」

 村越が念のため確認をとる。

「しておりません。すみません。機転が利かなくて」

「次にかかってきた場合に備えないと行けませんね。息子さんの居場所を特定する情報を少しでも引き出せるかも知れない。いったんお返ししますが、もしその間にかかってきたら、焦らずまず息子さん本人かどうか確認を取ってください。その後に居場所を探って下さい。無理に相手を逆なでするようなことは控えて下さい」

「ええ、わかりました。録音とかすればよいですかね」

 母親が尋ねてくる。

「可能ならお願いします」

「わかりました。あなたこれ、どうやって録音するんだっけ。受話器を取ってから操作すればいいのかしら」

「いいから、ちょっと貸してみろ」

 夫婦が携帯をあれこれいじり始める。隣の警官も混じって、試しに録音してみようなどと会話を交わす。

「失礼ですが、息子さんの部屋を見せていただいても」

「ええ。その、構いませんが」

 母親の顔に少しだけ影が差した。母親がゆっくりと階段を上がっていく。村越はその後について、元きた道を引き返していく。

 後ろの市原は先ほどから後ろでメモを取ったり、電話をかけて状況報告に追われていた。所轄の人間より早くついてしまった手前、上の者に報告することが増えてしまったのだ。あまり嬉しい役回りではないことは、村越もよく知っている。

「悪いですが、任意同行という形で、お邪魔しても」

「ええ、はい。なにか手がかりになるなら」

 母親はうなずき、息子の部屋へ村越たちが入ることを許可してくれた。村越は白い手袋をつけて、扉の隙間に手を這い込ませ、そのままゆっくり扉を開いていく。ずしりとした重さが右手に伝わってきた。

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