第十二章 阿吽の会議室

   第十二章 阿吽あうんの会議室


 ラージャ王がいないスターネーシヴァラ国の王宮ではハルシャ王子が机に向かって勉強をしていた。横には家庭教師のラーケーシュがついていて、手取てと足取あしとり教えていた。


 「さあ、ハルシャ王子、次の文章を声に出して読んで下さい。」

 ラーケーシュが言った。

 「き、こ、ぼー…?」

 机の上に開かれた教科書に目を落としながら、ハルシャ王子は両手で頭を抱えて声を絞り出すように言った。文字がむずかしすぎて読めないのだった。


 「それは『キーコボル?』と読むのです。」

 なかなか読めないハルシャ王子にしびれを切らせてラーケーシュが答えを言ってしまった。

 「疑問文なので最後は上がり調子ちょうしで言って下さいね。さあ、一緒にり返して。」

 「キーコボル?」


 元気なラーケーシュの声と疲れ切ったハルシャ王子の声は不協和音ふきょうわおんかなでた。

 「はい、良くできました。この言語げんごは今ラージャ王とアジタ祭司長さいしちょうが向かっているカルナスヴァルナ国の言葉なんです。ハルシャ王子もいつか行くことになるかもしれませんから、ちゃんと勉強しておきましょうね。」

 ラーケーシュの明るい声が部屋中に響いた。ラーケーシュは王宮のハルシャ王子の部屋で勉強を教えた。今日のように天気の良い日は外で木陰こかげにでも座って教えたいところだが、外で教えているとハルシャ王子はすぐに逃げ出した。一度逃がしてしまうとその日は一日中追いかけっこでつぶれてしまうので、部屋で教えることにしたのだった。


 「ハルシャ王子、この言葉の意味は何か分かりますか?」

 「お元気ですか。」

 ハルシャ王子は元気のない声で言った。

 「そうです。その通り。」

 ラーケーシュはハルシャ王子が正解を答えられたので嬉しくて大げさに喜んだ。それをハルシャ王子はうんざりした顔で見た。ラーケーシュは次の文章に取りかかろうとした。その時、ハルシャ王子はこれ以上堪こらえらないと思って言った。


 「ラーケーシュ、僕はもう限界だ。朝からずっとこの調子で詰め込まれて、今にも頭が破裂はれつしそうだ。」

 ハルシャ王子は深刻しんこくそうな顔をして言った。本当にもう限界だった。朝から訳の分からない異国いこくの本を読まされ、横にいるラーケーシュには耳元で大声を出され、ほんの少しの休憩きゅうけいも許されず、せまい部屋に閉じ込められっぱなし。頭も目も疲れ果て、昼時でお腹も空いていた。何より辛いのはじっと椅子に座っていることだった。遊びさかりのハルシャ王子にはえられなかった。椅子から立ち上がりたくてウズウズしていた。ラーケーシュは必死に苦痛くつうを訴えるハルシャ王子が可哀相かわいそうに思えた。だから少しだけ譲歩してすることにした。


 「では気分転換でもしましょう。」

 ラーケーシュは言った。ハルシャ王子の目に希望の光が見えた。期待のこもった熱い眼差まなざししでラーケーシュの顔を見つめた。その口から『休憩きゅうけい』と言う言葉が出てくるのを待っていたのだった。けれど真面目まじめなラーケーシュはあっさりとハルシャ王子の期待を裏切った。

 「経済のお勉強はどうですか?」

 ハルシャ王子はその言葉を聞いてガックリと肩を落とした。ラーケーシュにとっての気分転換は科目を変えることだったのだ。ハルシャ王子の中で我慢がまんの糸がプツンと音を立てて切れた。


 「もういい!逃げてやる。」

 ハルシャ王子はそう言うや否や部屋から飛び出して行った。

 「お待ち下さい!」

 ラーケーシュも慌てて飛び出して行った。ハルシャ王子の逃げ足は速く、あっという間に廊下を駆け抜けて、階段を下りていた。その後を追ってラーケーシュも階段を下り始めた。階段を駆け下りながらラーケーシュが言った。

 「ハルシャ王子!もうすぐお昼ですからあと少しだけ頑張りましょう。」

 「いやだ!」

 ハルシャ王子も階段を駆け下りながら言った。

 「お勉強は楽しいじゃないですか。」

 「勉強なんて大きらいだ!」

 ハルシャ王子が朝からずっと思っていたことだった。

 「そんなこと言わずに、お願いですから戻ってきて下さい。」

 ラーケーシュは懇願こんがんするように言った。

 「いやだ!」

 ハルシャ王子はいつもの癇癪かんしゃくを起こしていた。ただでさえわがままなハルシャ王子が癇癪かんしゃくを起こして逃げ回っているともなればまだまだ未熟みじゅくなラーケーシュには手が終えなかった。ハルシャ王子は階段を下りきると、廊下を走り抜けてどこかへ行ってしまった。ラーケーシュが階段を下り切った時にはもう姿はどこにもなかった。辺りを見渡したが、足音も聞こえてこなければ、人の気配もしなかった。


 「おかしいな。」

 ラーケーシュは息を弾ませながら独り言を言った。

 「何がおかしいのですか?」

 突然、背後から声がした。振り返るとそこには侍女のナリニーがいた。ハルシャ王子を追うのに気を取られて、ナリニーを追い越したことには気がつかなかったようだ。

 「ナリニー、ハルシャ王子を見なかった?」

 「いいえ、見ませんでしたわ。どうかしまして?」

 「逃げられてしまったんだ。」

 「あら、大変。私もおさがしますわ。」

 「ありがとう。助かるよ。見つかったら部屋に連れて行ってあげて。」

 「分かりましたわ。」


 ナリニーはそう言うと迷わず右の廊下へ走り出して行った。ナリニーにはハルシャ王子が行った先の見当がついていた。それは『阿吽あうんの会議室』。この会議室ではすべての音が壁に吸収され、絶対に声や物音が外にれないようになっていた。隠れるには最適の場所だった。


 ナリニーが思ったとおり、その頃ハルシャ王子は阿吽あうんの会議室の扉の前にいた。けれど中に入ろうと扉を押すのでもなく、引くのでもなく、扉にピッタリと耳をつけて聞き耳を立てていた。もしかしたら中で大臣たちが会議をしているかもしれないと思って確かめていたのだった。


 「ハルシャ王子!」

 廊下に雷のような大きな声が響いた。ハルシャ王子はびっくりして声がした方を振り返った。そこには立派な黒い髯を生やした威厳に満ちた男が立っていた。ハルシャ王子を呼び止めたのはナリニーではなく、サクセーナ大臣だった。


 「ハルシャ王子、こんなところで何をなさっておられるのです?」

 威圧感のある太い声がハルシャ王子を問い詰めた。

 「阿吽あうんの会議室に入ろうとしていたんだ。」

 ハルシャ王子はおびえているような小さな声で言った。さっきまで癇癪かんしゃくを起こしていたはずなのに、サクセーナ大臣の声ですっかり治まってしまったようだった。


 「阿吽の会議室には鍵をかけてあります。」

 サクセーナ大臣は再び威圧感いあつかんのある声で言った。扉が開かないとあれば、ハルシャ王子は中に入ることをあきらめるほかなかった。ハルシャ王子はまた肩をガックリと落とした。そこへパタパタと走ってやってくる誰かの足音が近づいてきた。


 「ハルシャ王子!」

 優しい声が響いた。やって来たのはナリニーだった。ナリニーはサクセーナ大臣に気がつくとそこで立ち止まり、優雅ゆうが挨拶あいさつをした。

 「まあ、サクセーナ大臣、ご機嫌きげんうるわしゅうございます。大臣も一緒にさがして下さっていたのですね。ありがとうございます。」

 ナリニーはサクセーナ大臣もラーケーシュを手伝ってハルシャ王子をさがしていたのだと思って、何の悪気もなくそう言った。サクセーナ大臣は横目でジロリとハルシャ王子を見た。ハルシャ王子は心の中で『余計よけいなことを』とつぶやいた。そこへ、また足音が近づいてきた。それはラーケーシュの足音だった。

 「ハルシャ王子!」

 ラーケーシュの元気な声が廊下に響いた。ほっとしたようだった。


 「もう、捜しましたよ。心配したんですから。」

 ラーケーシュはそう言いながら連れ戻ろうとハルシャ王子に近づこうとした。すると手前にいたサクセーナ大臣がラーケーシュを呼び止めた。

 「ラーケーシュ殿。」

 ラーケーシュは足を止めてサクセーナ大臣の方へ向き直った。ラーケーシュはハルシャ王子に気を取られてサクセーナ大臣が目に入っていなかった。

 「サクセーナ大臣!」

 ラーケーシュは強面こわもてのサクセーナ大臣が目の前に立っているのに気づいて、頓狂とんきょうな声を上げて驚いた。

 「ラーケーシュ殿ちゃんとハルシャ王子を見ていていただかなくては困ります。もしものことがあってからでは遅いのです。今後このようなことがないように。」

 サクセーナ大臣が抑揚よくようのない冷たい口調で注意した。

 「はい、申し訳ありません。」

 ラーケーシュは謝った。サクセーナ大臣は何か含みのある鋭い視線をハルシャ王子に投げると、何もいわずに立ち去って行った。


 「さあ、お部屋へ戻りましょう。」

 ナリニーが気を取り直すように優しい声で言った。

 「そうですね。行きしましょう、ハルシャ王子。」

 ラーケーシュは横にいるハルシャ王子に言った。

 「ねえ、ラーケーシュ。阿吽あうんの会議室から声が聞こえたんだけど誰かいるのかな?」

 ハルシャ王子は扉を見つめながらラーケーシュに尋ねた。

 「えっ?」

 けれどその声は小さくてラーケーシュの耳には届いていなかった。

 「ううん、何でもない。」

 ハルシャ王子はつまらないことだと思ってり返さなかった。まさかあの会議室に大きな陰謀いんぼうひそんでいるとは思いもしなかったのだ。

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