スターネーシヴァラ国物語~シャシャーンカ王の罠~

相模 兎吟

第一章 ラージャとナリニー

   序

 スターネーシヴァラ国は地図の北にある小さな国。気温は温暖で土地は肥沃。ヤムナー川の水に恵まれた緑豊かな土地だ。この国を治めるのはラージャ・ヴァルダナ王。父王の死後、若干じゃっかん十六歳で王位を継承けいしょうしたが、今では隣国にもその名が知られるほどの賢王けんおうに成長した。ラージャ王のもとには不思議な能力を持った祭司さいしたちが集っていた。ある者は風をあやつり、ある者は水を操った。その不思議な能力で王国の平和を守り、ラージャ王からも人々からも絶大な信頼と尊敬を得ていた。


   第一章 ラージャとナリニー

 王宮の中庭に面した廊下を一人の若者が歩いていた。美しい豊かな黒髪の持ち主で、きれいにとかして頭の上で束ねていた。顔は整っていて、歳の割には大人びて見えた。それは黒い目が思慮深しりょぶかさや聡明そうめいさを物語っているせいだった。その黒い瞳には青い宝石をはめ込んだ金の耳飾りが良く似合っていた。


 若者の前方からシーツの山を抱えた一人の若い侍女がやって来た。侍女は薄桃色うすももいろのサリーを着ていた。サリーというのは体に巻きつけて着る長い一枚布のことで、王宮の侍女はたいていこれを着ていた。侍女はなかなかの美人だったが、どこか鈍臭どんくさそうだった。よく言えばおっとりした顔立ちとも言えた。

 侍女はシーツの山で前が見えなかった。一方の若者の方も考え事をしていて前からやって来る侍女に気づいていなかった。あんじょう二人はすれ違い様にぶつかった。侍女はよろめき、危うく洗ったばかりのシーツを床の上に落すところだった。だがなんとか足を踏ん張って持ちこたえた。一方、若者の方はシーツの山に吹っ飛ばされてしりもちをついた。


 「あら、ごめんなさい。」

 侍女が気の毒そうに言った。

 「こちらこそ、すまない。」

 しりもちをついた若者は立ち上がりながら言った。その声を聞いた侍女はハッとした。

 「もしかしてそのお声は!」

 若者の方も声を聞いて相手が誰だか気づいた。

 「その声はナリニー?」

 若者がぶつかった相手は王宮付侍女おうきゅうつきじじょのナリニーだった。

 「申し訳ございません。私の不注意ふちゅういですわ。お怪我けがはございませんでしょうか、ラージャ王?」

 ナリニーは相手の正体が分かると、あわてて丁寧ていねいに謝った。ナリニーがぶつかった若者こそ、スターネーシヴァラ国王ラージャ・ヴァルダナ王だった。

 「大丈夫、しりもちをついただけですから。私がぼうっとして歩いていたのがいけませんでした。ナリニーの方こそ怪我けがはありませんか?」

 ラージャ王はナリニーにやさしく声をかけた。

 「はい、私は何ともございませんわ。」

 ナリニーは申し訳なさそうに言った。

 「それなら良かった。ところでナリニー、そのシーツの山はどうしたのですか?」

 ラージャ王は自分を吹っ飛ばした山積やまづみになっているシーツに目をめた。

 「これはカルナスヴァルナ国へ持って行くラージャ王のシーツですわ。隣国とは言え長旅になりますでしょう?これくらい持って行かなければ。全部はすこうめて、まじないをかけておきました。」

 ラージャ王はそう言われてようやくシーツからただよはすの香りに気がついた。こうとは思えないほどみずみずしく、中庭なかにわいけに咲いているはすの香りと錯覚さっかくしてしまうほどだった。

 「いい香りですね。」

 ラージャ王がそう言うと、ナリニーは嬉しそうに微笑ほほえんだ。


 ラージャ王は和平条約わへいじょうやくむすぶため隣国りんごくカルナスヴァルナ国へ行くことになっていた。その地をおさめるのは勇猛果敢ゆうもうかかん戦上手いくさじょうずと言われるシャシャーンカ王だった。和平条約わへいじょうやくえさにしたわなかもしれない。そんなうわさもあった。ナリニーは少しでもラージャ王の不安をやわらげたいと思っていた。


 「ところでラージャ王、おともれずにどうしてこんな所に?誰か呼んで参りましょうか?」

 ナリニーは王宮の中とはいえ、一人でフラフラと出歩くラージャ王を心配して言った。

 「大丈夫、大丈夫。王宮からは出ません…。」

 ラージャ王はそう言ってナリニーの申し出を断った。その時だった。ラージャ王は突然、背筋せすじがゾクゾクしてこおりつくような感覚におそわれた。顔から血のが引き、目の前にいるナリニーの姿がゆがんで見えた。意識いしき暗闇くらやみの中に引きずり込まれるような気がした。遠のく意識の中で何かがぼんやりと見えてきた。視界いっぱいに広がる青い色。それが真っ青な空だと気づいた時、意識はまた暗闇くらやみを通ってどこかへ飛ぼうとしていた。今度はもっと遠くへ。


 「どうかなさいまして?」

 うつろな目をしているラージャ王の様子を不審ふしんに思ってナリニーが尋ねた。ナリニーの声が耳にひびくと、ラージャ王は現実に引き戻された。うねるように体の中を駆け巡って意識いしきが頭の中に戻ってくると、何かにはじかれたようによろめいた。ナリニーはシーツの山でラージャ王を支えた。ラージャ王はまるで白昼夢はくちゅうむでも見ていたような気がした。てしなく続く青空。気持ち良いほどきれいなはずなのに、なぜが自分の体は底冷えしている。その不調和ふちょうわがラージャ王に底知そこしれぬ恐怖を感じさせた。


 「ラージャ王?」

 声がした方を見ると、ナリニーの二つの黒いひとみが心配そうに見つめていた。ラージャ王は知らぬ間に寄り掛かっていたシーツの山から一歩遠ざかると、自分の二本の足だけで立った。

 「最近、突然変なものが見えるんです。いつも同じ光景で、空が見えるんです。きっとこのスターネーシヴァラのどこかの景色なのでしょう。それなのに…」

 ラージャ王は心の動揺どうようかくすように言った。その目は落着かない様子でチラチラとナリニーをうかがうものの、決してナリニーと目を合わせようとしなかった。

 「ラージャ王。それはきっと何かの暗示あんじです。何か良くないことが起こるやもしれません。やはりカルナスヴァルナ国行こくいきを今からでも取りやめては…。」

 「それはできません。この身に何が起ころうと行かねば。では、私はこれで。」

 ラージャ王はそう言って青白あおじろい顔をうつむけて逃げるように立ち去った。ナリニーはその後姿を見えなくなるまで見つめていた。


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