僭越者 金方慶
運兵計謀,為不可測,投之無所往,
死且不北,死焉不得,士人盡力。
兵士を運用して計略をめぐらす、
兵士たちが予測不可能な局面にする、
兵たちが逃げ場がないようにする、
すると兵たちは死んでも敗走することはない、
でなければ必死の覚悟での死闘が得られん。
さすれば彼らは死に物狂いで戦い続けるだろう。
――『孫子』九地篇の一説
夕暮れになり、クドゥンと
それは煌びやかな装飾が施された<帝国>の戦艦だ。
「
「いえ、大丈夫です。会議の準備がありますので失礼します」
そう言って一人艦内の客室へと向かう。
決して気づかれない様に細心の注意を払いながらもこの任務を果たした。
だが、そこで違和感を感じていた。
そしてその違和感は戦艦内でより強くなる。
「んん? だれかと思えばクドゥンの腰巾着か」
赤い衣装を身に纏った男が声をかける。
「
「違う! 私の名は
アラテムルは元々は<帝国>周辺国の王族だった男だ。
恭順した証として父の代から<帝国>の宮廷に仕えている。
その際に子の名を<帝国>風に変えることはよくあることだった。
アラテムルにとって目の前の若者と姓から同列と思われたくないのだ。
だからより<帝国>貴族に近いアラテムルと名乗っている。
「ふん、それよりもお前も大変だな、あの腰抜けのハゲ将軍の下ではこれ以上の出世もあるまい。無能な男よりこちら側についた方がいい思いができるぞ」
ニヤニヤしながらそう諭す。
アラテムルは宮廷内で巻き起こる政治闘争の中で育った。
その影響から内部に敵と味方を作り優位に立ち回ろうとする悪癖がある。
「ふざけるな! 将軍を悪く言うのはやめてもらおう!」と怒気を強める
「な、なにをそんなに熱くなってるのだ。実際あの逃げ腰の<島国>の連中から逃げ出したのは事実だろう」と少し後ずさりするアラテムル。
――あの洗礼された戦術が逃げ腰だと?
その時、
「アラテムル将軍。私は少々用事を思い出したので失礼します」
「なっ……おい!」
「失礼します」
「誰だ?」
「
「ああ、お前か……あれだけ威勢を張ったのに……情けないだろう」
矢を受けた直後は威勢がよかったが、今は憔悴しきっている。
「その件ですが西側の防衛中も敵騎兵の突撃があったはずです。なぜ――」
そこで手で制される。
「お前は上から見ていたのだよな……我は目の前で見ていた。だから分からなかった……それだけだ。あれは恐ろしい……だがその恐ろしさは……ちょうどお前のように上から見て初めて分かる部類のものだ」
それを聞いて
「わかりました――どうか安静にして休んでいてください」
「クソッ、部下をほとんど失った…………」
そう呟く将軍を後にする。
突撃将と謳われるほどだが、もう前線に復帰できないだろうと思った。
そこで目を閉じ、心の中で「あの戦い」を思い描く。
――フォン。
鏑矢が鳴る。
そして目の前に重装弓騎兵が突撃してくる。
それが突如として矢を射ながら急反転して去っていく。
それはまるで逃げてるようにしか見えない。
まさかここまで計算して作り上げたのか?
重騎兵が突撃すれば、たちまち相手は瓦解して戦いは終わる。
しかし一撃離脱を逃げ出したと錯覚したら?
損害が深刻になるその日まで戦い続けて敵対者の兵力を一方的に削ることができる。
言うなれば『討取対被討取比率』とでもいうのか?
仮に兵の損失比率が百:一なら敵の騎兵を百倒すのにこちらは一万の兵を失うことになる。
こんな戦いですらない戦いがあり得るのか?
――戦艦の会議室。
そこには今回の<帝国>東征軍の隊長各である武官が集結していた。
もっとも<帝国>貴族は大将軍クドゥンだけだった。
それ以外は官僚つまり武官になる。
これは<帝国>の支配地域が拡大するにつれて武官の数が足りなくなった影響だ。
「残念ながら劉復亨さんは怪我が酷いので欠席となります」
麁原から打って出て五郎と切り結び、そして少弐の騎射で撃退された劉復亨。
一見すると弱く見えるが彼はカアン《皇帝》直下の武闘派武将の一人だった。
それが一度の会戦で再起不能になったので周囲が騒然となる。
「それはそれは、向こう十年は参戦できませんな」と武官の一人が言う。
<帝国>の武将たちは有事には千人隊長であるが、平時には千戸長となる。
これは<帝国>の発祥の地が草原に由来する。
草原とは資源が乏しく、土地の価値が非常に少ない。
そのため<帝国>では土地よりも人の価値に重きを置く。
百戸長とは百の戸籍を支配する村長あるいは巨大都市の一区画長である。
千戸長とは千の戸籍を支配する街の町長、あるいは都市の区長である。
突撃将劉復亨は怪我そのものよりも、優秀な部下が亡くなった影響が大きい。
重装騎兵という精鋭中の精鋭部隊がいなくなった。
ここから再起するには支配する民たちの負担が増し、長い時間を労するのだった。
それは他の官僚にとっては空いた席を奪う機会でしかない。
「ふん、それで明日以降の戦い方について決めるのだろう。奴らは都合よく帰ったのだから明日からは市街戦だろうな」と
「それですがここは今のうちに撤退しましょう」
「なぜだ!?」「我々は負けていない!」「王にどのように報告しろと!!」「ハゲ…… 」
主に別動隊だった三翼軍の武官から批判が出る。
しかし主力のクドゥン軍からは反対の声は少ない。
そこに気付いて非難の声も止む。
「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあるように、本国よりも遠く離れた敵地に入った軍は、むしろ士気が上がり戦力が上がることになる。これは秦の『焚船』や漢の『背水の陣』の故事とも通じるものがある。再度戦わせていただきたい」
最初に声を出した
正確には「孫子の兵法」を似たように解釈した
「ふほほほほ、孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあります。少数の兵が力量を顧みずに戦ったところで、多数の兵力の前には捕虜にしかならないのです。日増しに増える敵軍と対峙するのは良い策とは言えません。撤退するべきです」
「むむむ……」
「それに
「はっはっは! 奴らの矢など我が鎧で受け止めてくれたわ! それに大喝を浴びせただけで尻尾を巻いて逃げる始末、我らだけでも奴らを打ち倒せる!!」
よくぞ聞いてくれた言わんばかりに自らの武功を高らかと述べる
それは尻尾を巻いたのではなく、そういう未知の戦術を駆使してきた。
この認識のズレを擦り合わせしておかなければと思う。
「いえ
「ほっほっほっほ、いやはや<帝国>軍人は戦いに慣れていると言えども、三翼軍の働きに比べて何をもって加えることができるでしょうか、素晴らしい! ――あ、今の所を書記は記載するように」
そう言って称賛するクドゥン大将軍――と慌てて記載する書記官。
あ、また始まったと武官たちは思った。
「え? は!? そ、そうであろう。そうであろう」
「ええ、ええ、素晴らしい、素晴らしい」
そう言って
「――ですが、我らは東西の山で分離して兵はそろっていません、その中で戦い続けて矢も尽きます。今すぐに撤退しなければ貴方の王に敗報を伝えねばなりません。ですからここは……して…………ということでどうでしょう」
「う、ううむ……まあそうだな。そこで手を打とうではないか。皆撤退の準備だ!」
皆の前で称賛し、それを記録として残した。
それはつまり<帝国>貴族からの讃辞が公式の記録として残るということだ。
さらに小声だったが、戦利品の譲渡も述べた。
ここまでされては流石に<帝国>貴族の顔を立てないといけない。
「んっふふ、わかっていただけて嬉しいです」
こうして夕方から始まった会議は終わる。
そして<帝国>は深夜の潮流の変わり目に無事に博多湾を出航することができた。
夜間の出向ということは月の明かりのみを頼りにするということだ。
「水夫たち絶対に火を見るなよ」
夜目に慣らした水夫が水先案内をする。
だが、同時に暗がりの中で三百の戦艦が距離を保たなくてはならない。
そこで白い布を使い行燈のように光を抑えることで戦艦同士の距離を淡く光る白い布の大きさから把握できるように工夫していた。
「将軍! 街に火の手が上がっています!!」
「おや、失火でしょうか?」
赤々と燃える筥崎宮の町。
「将軍の策ではないのですか?」
「ん~、考えはしましたが労力のわりに成功率は低いですからね」
「たしかに難しいですね」
<帝国>の兵の練度は低い。
そして武官は貴重だ。
そうなると少数による玉砕覚悟の放火というのは基本的に考えられない。
彼らは偶然の幸運にも助けられて、ほのかに照らされる博多湾を無事出航した。
後に<帝国>軍内では二つの派閥による主張が繰り広げられる。
<島国>は心が弱く大軍で打って出ればその肝を冷やして逃げ惑うという主戦派。
もう一つは<島国>は戦いよりも貿易を第一とする穏健派。
ただ麁原の山頂から全てを見ていた武官たちは口をそろえて言う。
『<島国>は勇猛果敢で強かった』と。
――博多湾を一望できる某所。
そこに一人の僧侶がいた。
彼は寺院が異教徒に荒らされていないか確認に来たのだった。
彼は見た。
赤々と燃える筥崎宮。
その光が博多湾に不可思議な火の手として浮かび上がる。
そして、そこから白い布の一団が海上を移動している。
僧侶はその出来事を一心不乱に紙に書き留める。
それは二十一日の深夜の出来事だった。
――――――――――
やっと<帝国>サイドが終わりました。
李左車という謎の人物は李牧という昔の軍師の孫と言われている人物です。
馬鹿な! あの李牧に嫁だと!?
ちなみに最初の孫子の兵法は前に二説分の前提があります。
謹養而勿労、併気積力、
兵士たちを休養させて疲労させない、
士気を高めて力を蓄える。
引用元の李左車も勝利の勢いに乗って遠方まで攻めてくる敵と戦うべきではないと忠告する場面で使っています。
つまり兵法の引用ミスの逸話が後世にまで残っている、ということだと思われます。これは恥ずかしい!
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