第42話

 狭いベンチでは奈々川さんが強い意志でみんなに言った。

「みなさん。藤元さん。これからは大変な試合になります。命の危険もあるかも知れません。でも、ここで負けると、日本の国民は悲惨なことになるかと思います。ここからが本当の正念場です。でも、十分に気をつけて下さい。お願いします」

 奈々川さんがメガホンをベンチに置き、みんなの顔をまっすぐに見ながら静かに、深々と頭を下げた。

「大丈夫さ。まだ、俺がいる」

 田場さんがまた優しく言った。

「奈々川さん。きっと、日本中の人たちが応援していると思うし、ここで負けたら日本の人たちに申し訳ないさ。俺も頑張るよ」

 津田沼。関係ないかも知れないが、今日の朝食は日の丸弁当だ。

「みんな。覚悟しているさ。この試合はみんなのためと、みんなのことだ。俺はA区の商店街で働いているが、みんなの気持ちの大切さを少しばかりは知っているんだ。きっと、なんとかしないといけない時って、こういう時だと思う」


 体育会系の山下は顎を摩り微笑んだ。

「俺も命懸けで戦うよ。俺、大学で勉強している。けれど、それは就職をするためなんだ。ノウハウなんかが出てきたら就職できなくなるんですよね? それに日本のためになるし。勝ったら、うんと派手に表彰して下さいね。奈々川お嬢様」

 そういうと、広瀬は頭をかいてはにかんだ。

「私も、実はA区でしがない焼き鳥屋をしているんだけど、来てくれるお客さんはサラリーマンのようにいつもくたびれているよ。そんな人たちのために頑張りたいよ……」

 淀川は少し照れ臭そうに頭をかいた。

「私、頑張ります。私のラーメン食べてくれる人、あまりいませんけど……頑張ります」

 遠山は首を垂れる。

「俺も。コンビニでまだ働きたいからな。それにお客さんのために。・・・奈々川さんのためにもなるんだし……」

 流谷はぎこちなく頬を上気させている。

「奈々川さん。君と出会ってからは俺は変わった。前はB区とA区の人たちの間で命を懸けて働いてきた。本当に命懸けだったよ……」

「でも、その時はどうしようもない憎しみや怒りや不満でいっぱいだった。でも、今はA区の人とB区の人のために、日本国民のためにスッキリした気持ちで何とかしようとしているんだ。本当に俺、変わったよね……。君に出会って本当に良かった。そして、君と結婚ができて本当に良かった。俺は日本の国のために、そして日本国民のためになるなら、俺はこの試合で死んでも……構わない」

 私は少し間を開ける。


 奈々川さんが私を見つめる。

「この試合はそんな俺の人生にとっての契機さ。そして、一つの挑戦の試合なんだね」

 奈々川さんが私に静かに真剣な表情を向けた。

「違います。私と夜鶴さんのための……二人の契機よ。日本の国のために二人で、そしてみなさんと一緒に頑張りましょう。私も夜鶴さんと結婚ができて嬉しかったです……。スケッシーと遊べて、島田さんと弥生さんたちに会えて本当に嬉しかった。私も命懸けで戦います」

 奈々川さんの目には、いつの間にか一滴の透明な宝石が流れていた。それは人間にしか持ちえないはずの宝石だ。

「よーっし、やるぞ!!」

 田場さんはグランドに目掛けて全速力で駆けていく。

「試合再開―!!」

 審判員は叫んだ。

「藤元さん。あなたの役目は島田さんのポジションです」

「ああ、いいとも。僕の本気を見せます」

 藤元は頷いた。

 藤元は大急ぎでロッカールームでユニホームに着替えて、島田のポジションの一塁へと走って行った。

 これで広瀬が三塁。津田沼が二塁。藤元が一塁。満塁だ。

 次は強打者用の訓練を受けている田場さんだ。満塁ホームランを期待したいが、ヒットでも三遊間ゴロでもいい。とにかく当ててほしい。

 

「しょうがない。またデットボールにしないといけないかな」

 矢多部は端末に指を滑らす。

 白衣の研究者たちはシンと静まり返っていた。

「矢多部くん。私は野球を知らないが。デットボールを続けると試合はどうなるんだ?」

 奈々川首相が不思議に思う。

「いや、ははははは。僕もあまり知らないんです。けれど、野球は9人いないと成立しません。この方法で勝ってもいいんじゃないですか?一点を取られてもまた取り返しますし」

 矢多部はそのシミ一つない顔で笑う。

「そういんもんかねー」

 奈々川首相と矢多部の後ろから、合田と奈賀がやってきた。


「ほらー! さっそと投げてこい! 機械野郎!」

 田場さんの怒声が球場に響いた。

 ノウハウが投げた。

 それは、内角高め過ぎて田場さんの肩へと行った。

「フン!」

 田場さんは避けた。

「もう見切ったぜ! 機械野郎!」


「おーっと! 田場選手! デットボールを避けた!!」

 元谷が笑顔で驚いている。

「ええ。これは凄い。デットボールまでも慣れてしまった。Aチームはまるで対ノウハウチームですね」

 永田はそこまで言うと満足して頷く。

「対ノウハウチームですか。これは面白い。……試合続行! ワンボール。ツーアウト。満塁」


「ああー。これも駄目か」

 矢多部は軽く舌打ちをし、

「何か作戦はないかな?」

「えーっと」

 研究者は首を捻る。野球の知識がない人物はこれで三人目。

「あの……。こうなったら、真面目に試合をしてみては?デットボールをしていっても、相手に一点を与え続けますし……。この勝負を……勝つなら、いっそ……」

 もう一人の研究者が進言してきた。若い人だ。

「うーん。それもいいのかな? でも、負けると困るんだ」

 矢多部は首を傾げる。

「うーむ……」

 奈々川首相は頭を捻った。

「それじゃあ……こうしてみようか……。もうできているはずだし」


「いいぞー! 田場さん頑張れー!」

 私だ。 

「これで打てば、必ず点がもらえるんだ!!」

私は珍しく大声を発していた。

 甘いマスクのノウハウが投げた。

「え!?」

 私は自分の目が信じられずにいた。

 ボールはキャッチャーのノウハウへと向かうが……。

 何と、変化球だ。

「まさか……」

 奈々川さんが真っ青になった。

 遠山の投げる変化球よりもキレのあるチェンジアップだった……。


「160キロのチェンジアップ!」

 元谷が驚いて机の紅茶の入った紙コップを床に落とす。

「素晴らしい変化球です!」

 永田は自分の紙コップを持って、球場を見つめた。

「もはや、ノウハウは何でもありですね」

 元谷の言葉に、

「ええ。これは、素晴らしい。とても、人間が造ったものとは思えません」


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