後悔と躊躇い 96日目(season2)
「…………何?」
「いえ、今日もお綺麗だなと」
「そうですか」
一人で店を回してる合間に、最近出来た常連客の視線に応えると流れるように口説かれる。
もう毎度のことなので、いちいち驚いたりせず適当にあしらって注文を受けに行く。
急激に冷え込むことの多くなった秋の夜中に、温もりにもならない戯言をかけられても響いたりすることは相変わらずなかった。
「マスターさん、私も注文いいですか?」
それでもめげない彼女は、忙しさの中でも構わずオーダーを取りに来てもらおうと声をかけてくる。
久々に繁盛して時間が惜しい時に呼ばれるのは煩わしさを感じてしまうが、それでもお客さんなので形だけでも応じるためにカウンターの上にただの水を置いた。
「…………? あの、水じゃなくてお酒が欲しいんだけど」
「それなら、まずはそれ飲んで真っ赤な顔を冷ましなさい。何があったかは知らないけど、ここはヤケ酒するための場所じゃないのよ」
きょとんとしていた彼女は、私の一言に一瞬目を見開いて目の前のコップを見つめる。
反射する自分の顔が見えたのだろうか、しばらく睨みあってから渋々手を伸ばして飲み始めていた。
この仕事をしているとよくある事なのだが、連日来てくれるお客さんが現れると飲むペースや一緒に食べるもの等から、その人のお酒の楽しみ方が大体把握出来るようになってくる。
これは彼女も例外ではなく、今日は普段の時と比べると明らかに飲む量が増えていた。
そして、いつもと違う配分でいる人の多くは、その日良くないことが起きている。
生きていれば、悪いことが起きる日があるのは当然なのだが、それをアルコールに頼って忘れようとする行為はあまり関心できるものではない。
市販のものより高い度数を提供している店としては、尚更それを止める必要があったのだ。
「心配してくれるなんて嬉しいな。でも、こう見えて私はお酒に強いんだよ」
水を飲み干した小松さんは、誇らしげに胸を張ってそんなことを言っている。
酔っている人の言葉ほど信憑性に欠けるものはなく、私はそれを黙って耳を傾けながら溜まった注文を捌き続けていた。
* * *
「……どこがお酒に強いのよ」
一人忙しさに揉まれ、ようやく一息ついたところでカウンター席が妙に静かなことに違和感を覚える。
いつもなら彼女が何かしら話しかけてくるのだが、それがないのでもしやと思い寄ってみれば案の定机に伏せて寝息をたてていた。
「やっぱり酔ってる人間の言うことは当てにならないわ」
大きくため息を吐きながら、しばらくその様子を眺める。
自分で目覚めてくれるのを期待したのだが、そのような素振りはなく未だに夢の世界を彷徨っているようだ。
──それにしても、泥酔するだなんて一体何があったのかしら。
彼女はこの店の雰囲気と私と話すことを大事にしているので、ここでは多く飲んでいる姿を見たことがない。
手が空いて話に付き合っている時も、無茶をするようなタイプではないことは感じ取っていたので、こうまでして何かを忘れようとしていることが私には寂しそうに映ってしまっていた。
「急にどうしたのやら」
一体どうしたのか聞いてみたい欲はあるけれど、それ以上はこちらから訊ねるわけにはいかず、向こうが口を割るまでこの距離は守らなければならなかった。
本日二度目のため息にもやもやしながらも、そろそろ閉店時間が近づき出て行ってもらわないといけないので、小松さんの肩を揺らそうとカウンター越しに手を伸ばす。
それに反応するかのように、彼女は頭を腕の中で揺らしながら身じろぎしていた。
「………………ゆず」
小さな口から、突然人の名前がぽつりと溢れる。
聞き覚えのない名前だが、悲しそうに呼ぶ声は胸の奥にまで響き、まるでその人に縋り付いているようだった。
こんなことを聴いてしまうと、人間の性なのだろうかその人とどんな関係なのかを探ろうとする気持ちが沸き上がってくる。
同時に、触れてはいけないことのようにも思えて、踏み込まないようにする自制心も働いて無言の時間が続いていく。
少なくとも、家族やただの友人という訳ではなさそうだった。
乱れ始める心を深呼吸で抑えつけて、しばらく触れずに放っておくことにする。
私と彼女は決して深い仲ではなく、胸の内を曝け出せれるほど開放的な性格もしていないので、今はそっとしておくぐらいしか出来そうになかった。
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