変化と日常 80日目(season2)

 営業を始めた夜の店内に、クラシック調の静かな音楽が流れる。

 人々が眠りに着こうとする時間帯なのもあって穏やかな空間が自然と演出され、今日も思い思いの時間を過ごしたい人たちが足を運んでくれていた。

 そのお客さんたちと談笑をしながら、カクテルを用意したりグラスを拭いたりして、一人で複数の業務をそつなくこなしていく。

 最初の頃はこの生活全てに慣れず元マスターの父に何度も怒られていたけれど、全ての権限が私に移ってからはもう手慣れたものになっていた。


「お待たせしました。ジントニックです」


 カウンター席にいるお客様にコースターを置いてから、その上にカクテルをそっと乗せる。

 お礼の言葉が返ってくるのでその言葉に軽い愛想笑いで応えてから、隣の席の片付けようと空いたグラスに手を伸ばしていた。

 


 ──そのグラスの向こう側で、ここにはいない三咲が唐突に現れ、何故か私をじっと見つめてくる。

 何か発するわけではなければ大きな動きがあるわけでもないので、どうしたのかと少し凝視していると、今度はゆっくりと口角を上げて微笑みかけてくる。



 それはここ最近でよく見る顔であり、私にとってはあまり馴染みのない表情でもあった。



 「…………マスターさん大丈夫? グラスを見つめてぼーっとしてますけど、どうかしました?」

 

 見えてしまった幻覚に気を捉われているのを察してか、咄嗟にお客さんが声をかけてくる。

 その一言にはっとして振り向けば、まだ二十代になったばかりぐらいの女性が私の様子を窺っていて、その周囲には他の人は誰も見当たらなかった。


「ごめんなさい。ちょっと考え事をしていただけよ」


 そう答えてから、いそいそとグラスをカウンターの中に引き提げて仕舞い始めていた。

 


 ……仕事中に何考えているんだろう、私。


 

 以前は週一で来ていた友人の姿に惑わされ、目の前のお客さんにも心配をかけてしまうほどの不甲斐なさを披露してしまい、穴に隠れたいほどの情けなさが全身を覆う熱として広がっていく。

 それを隠すようにさっとグラスを片付けてしまい、何も見なかったかのように平静を装う。

 けれど、それだけではお客さんの視線を逸らすことはできず、まだ顔色を覗き込もうとしていた。


「マスターさん、もしかして悩み事でもあります?」

「そんなことないわよ。さっきのは気にしないで」

「そうは仰いますけど、これ」


 そう言って彼女が指差したのは、さっき置いた店のコースターだった。

 ──よく見ると、柄がついているものしか使っていないはずなのにそれが全く見えず、代わりに無地のものになっている。


 つまりは……表と裏を間違えていて。


 指摘されたことの意図を察して急いでコースターを回収し、新しいものを表向きで再度置き直す。

 

「…………すみません」


 返す言葉がなく、ただ謝ることしかできない私に、彼女は顔の前で手を振って気にしないでと答えてくれる。

 しかし、それが逆に私の心を突いて余計に居た堪れなくなってしまい、徐々に店の雰囲気とは違う静けさが広がりだしていた。

 

「……よければ、伺いますよ?」


 失態が続き人目を憚らずに落ち込む私に、彼女はそっと慰めるように囁く。

 その声に顔を上げると、しばらくみたことのない優しい笑顔を私に向けてくれていた。



「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね。……初めまして、小松です」



 透き通るような声が店内に響き、はっきりとした口調で彼女──もとい小松さんは名乗ってくれていた。

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