あなたと私 77日目
身体の全てが浮遊感に包まれ、痛みもなければ騒音もなく快適な空間の中をずっと漂っている。
何時からここにいるのか、どうしてこうなっているのか、その前後の記憶はなく思い出そうにも身体の自由は効かない。
しかし、それに不快感はなく、身体のあらゆる感覚を奪われながらも深い眠りへと誘われていた。
「──き。──さき!」
そこに、聞き馴染みのある声と大きな揺さぶりで夢の世界から目覚めさせられる。
遠くからする愛おしい人に応えるように、朦朧としていた私の意識は覚醒へと繋がり、ゆっくりと現実に引き戻されていた。
* * *
ようやく目が覚めて、眠っていた全ての感覚が少しずつ戻り現実の部屋が映ってくる。
そのまま身体を起こすと、先に起きていた鈴音の顔がすぐ近くにあり、それを見てから輪郭も浮かび上がり視界がはっきりとしてきていた。
「やっと起きた! 三咲、時計!」
どういうわけか慌てている彼女は髪も整えないままで、困った顔をしている。
そして、何故か身体をタオルケットで隠していて、その後ろにあるはずの服を何故か着ていない。
どうしてそんな状態でいるのか不思議に思いながらも、言われるがままに部屋の時計に視線を送る。
示されている時刻は九時を大幅に過ぎ、もう少しで十時になろうとしていた。
……あれ?
今日は平日で、いつもなら仕事場に着いて作業に取り掛かっている時間で、でも今はまだ部屋にいて……。
ここまでの情報を受けて、薄れていた意識が完全に戻り、咄嗟に鈴音に振り向く。
その彼女もこの事態には困惑しているようで、急いで起こしたはいいけれどここからどうしようかとオロオロしているようだった。
「……遅刻だね、これ」
「どうしよう」
突然の事態に見舞われてしまったせいか、慌てる鈴音とは対照的に落ち着きの方が先に来てゆっくりとそう答えていた。
そもそも、どうしてこうなったんだろう。
その原因を考えていくうちに、昨日の記憶がゆっくりと蘇ってくる。
確か、告白したあの後、鈴音が私の部屋に来たんだっけ。
それから一緒にご飯を食べて、遅くなってきたから寝ようと同じベッドに入って。
その後は、流されるままにお互いの身体を求め合って──。
昨晩のことを思い出し、自身の姿を確認する。
あれだけ昂る行為をしたのだから、その後に服を着るなんて考えは当然なく、シャツもなければ下着もない。
要するに、私たちは全裸のままだった。
ようやく自分たちの姿に羞恥の気持ちが湧き上がり、対する彼女は私以上に顔を赤くしていた。
き、気まずい…………!
お互い裸のまま熱くなり、恥ずかしさで何も発することができず、向かい合ったまま時間だけが過ぎていく。
恋人になったその日からいきなりこんなことになるだなんて、誰が想像しただろうか。
時を刻む針の音が二人の間に何度も響き、その度に時間だけが前に進み続けていることを認識させられていた。
──その空気を打ち壊すように、どちらかの着信音が鳴りだす。
いきなりの音に二人とも肩を大きく震わせ、顔を見合わせる。
電話を取らずとも、その相手は既に分かっていた。
「……とりあえず、急ごうか」
私の言葉に、鈴音は大きく頷いていた。
* * *
昼間の照りつけるような陽射しが、作業服を超えて背中に焼き付けていく。
隣には鈴音がいて、暑そうにしながらハンカチで汗を拭っている。
「まだ涼しくなりそうにないね」
「こうも暑いと、外回りで動いてる時が大変だよ」
二人ともまだ続く残暑にまいりながら、仕事場までの道のりを歩いていた。
あれから二人とも仕事場に連絡し、何とか午後からの出勤という形にすることが出来た。
体調不良を理由にしたのが功を成したのか、お互いそれ以上深く追求されることはなく気を付けてくるようにと言われただけで済んだのが不幸中の幸いでもあった。
そのことにほっと胸を撫で下ろすも、残る罪悪感は労働で返そうと誓い、こうして遅れて通勤をすることになっている。
日の明るさが変わっただけで、見ているものはいつもと同じなのに、こうして好きな人と歩くだけでも特別な雰囲気がして高揚感が上がっていた。
横を向けば、同じ気持ちでいる彼女が笑みをこぼしながら手をしっかりと握ってくれる。
本当は二人して遅刻しているだけなので良くはないのだが、こんな時間ですらも今は愛おしく思えてもっと続いてくれたらと心の中で願ってしまうほどだった。
けれど、実際はそういうわけにもいかず、視界の先ではもう分かれ道の交差点が現れていた。
「……じゃあ、私こっちだから」
楽しそうにしていた鈴音はその場で振り返り、別れるのを惜しむように手をするりと離してそっと手を振っている。
──その哀愁漂う表情をかき消すように彼女の振る手を掴み、もう片方を腰に当てて身体を自分に引き寄せ、幸福を分け与えるようにそっと口づけをする。
人なんてほとんどいない場所だから出来る行動に、しばらく本能に身を任せる。
どのぐらい経ったかは分からないが、程よく身体が温まったところで顔をゆっくりと離していく。
「いってらっしゃい」
自然と出た送り出す言葉に、鈴音は一瞬キョトンとするがすぐに満面の笑みで応えてくる。
「いってきます」
こんな何気のない一言でも、返ってくるだけで嬉しくて思わず私も口角が上がっていく。
そんな些細な幸せを噛み締めながら、私たちは再びいつもの日常に戻っていった。
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