心と贈り物 24日目
日が昇ってまだ数時間しか経っていないのに外は既に太陽からの熱で蜃気楼が起きていて、一歩でも出ると今にも溶けてしまいそうな暑さを醸し出していた。
そんな街の様子をガラス戸越しで眺めながら、いつも使っている駅の改札口前に掛けられている時計にも目を配る。普段なら会社で仕事をしている時間だけれど、スーツではなくロングスカートにブラウスといった格好でいることに周りの人たちよりちょっとだけ優越感を得ていた。
電光掲示板を支える柱にもたれかかりながら、電車が来る度に改札を行き来する人たちを目で見送る。それを何度か繰り返してから、待ちわびていた人がようやくやって来た。
「ごめん。大分待った?」
改札を通ってすぐに私を見つけた三咲が、駆け寄ってから訊ねてくる。
バーの時に見かけたデニムとシャツにスニーカーという一見するとシンプルなスタイルではあるけど、長身である彼女が着ると足がすらりと伸びてモデルのような格好良さを演出していた。
「少し早めに着いただけだから大丈夫だよ」
手をひらひらと振って気にしないでとアピールをしていると、三咲がまじまじと私を見つめてくる。
「どうかしたの?」
「いや、そういえば鈴音の私服見るの初めてだなって、勝手に思ってただけ……」
受け答えがちょっとしどろもどろな三咲に言われて、確かに今まで会う時はスーツ姿ばかりでお互い私服でいるのは今回が初めてだった。
そう考えて三咲の格好を改めてみると、あの時とはまた違う雰囲気がしてこれはこれで新鮮だった。
「……似合ってるよ、鈴音」
止まらない視線に今度はどうしたのかと様子を窺っていると、いきなり三咲がそんなことを言ってくる。
友達と出かけるだけだから高い服ではなく、自分に似合いそうなものを選んで着ているだけなので高級感とかは特になくどこにでもいる姿をしている。けれど、そういって褒めてくれるのは素直に嬉しかった。
「ありがとう、三咲」
さり気ない一言に感謝を伝えて、自然と微笑みを浮かべる。
それと同じタイミングで、私たちの乗る電車が到着するアナウンスが流れていた。
「それじゃ、行こうか」
咄嗟に三咲の右手を握り、改札をくぐって乗り場まで並んで歩き始める。
新しく出来た友達と行く初めてのデートが、ゆっくりと幕を開けていた。
* * *
平日だからそんなに人は多くはないだろうと多少の期待はしていたが考えることは皆同じのようで、水族館に着くとオープン前なのに外には既に長蛇の列が出来ていていた。
その長さにお互いに顔を見合わせて苦笑いを浮かべ、列の最後尾へと回る。
私たちの後も列は長くなっていき、炎天下の中で待ち続けること数十分ようやくオープンの放送が聴こえていた。
入場口までの流れは少しずつ進み、二人がようやく入場券を買って入館した頃には既に多くの人で賑わっていた。
「わぁ……。すごい……」
入ってすぐに広がる海中の世界に、鈴音は感嘆の声を上げながら目を輝かせている。
その隣で、私は目の前の光景とは別にまだ手に残る柔らかい感触にむず痒さを覚えてしまい、上手く仕舞い込めずにいた。
「順番に見て行こう、三咲」
泳ぐ生き物たちにすっかり目移りしている彼女は、興味津々な態度で私を誘う。
「うん。いいよ」
平常心を保つように二つ返事で緊張を隠すが、素早く腕が伸び気づいた時には小さくて整った手が再びボロボロな手を握っていて、消えかかっていた温もりが恥ずかしさと共に蘇ってくる。
館内は空調が効いているけれど私の手は熱くなっていくばかりで、掌から彼女に動揺が伝わってしまうのではないかとひやひやしながらコースを巡り始めた。
それから私たちはゆっくりと館内を進み、様々な海に覆われた施設を巡っていく。
深海に潜む珍しい姿をした魚に関心と驚きを与えられたりすれば、静かにふわふわと泳ぐ海月の住む水槽ではその様子に癒され、定番の生き物たちがいる巨大水槽の前ではその大きさとすぐ近くで見える迫力に圧倒されていた。
どの場所でも鈴音は好奇心をまとった眼差しで眺めていて、何か動きがあればその度に小さな身体が楽しそうに反応している。
その間も手は離されることはなく、私たちの親交の証であるかのように繋がれたままでいてくれていた。
これが友達としての正しい距離なのかと聞かれると、それは今の私には分からない。
昔から交友関係のある人物はほとんどおらず、話し相手はいてもこうして一緒に出かけることもなければ手なんて繋いだこともなかったので、今朝からのスキンシップには過剰に反応してばかりで困惑ばかりしていた。
それでも彼女と並んでいられることに不快感はなく、動揺する心の中でも隣にいられることへの安心を確かに感じていた。
館内のコースも半分を過ぎて、壁沿いに進んでいた私たちはもうじき施設の折り返し地点に辿り着こうとしている。
足元に道順を示す明かりが灯されている通路を、二人揃って慎重に歩く。
今までとは打って変わって大きな展示もなければ物音もなく、静かな空間に残る明かりだけがこの先の連絡路へと導いていた。
それから更に道順に沿って進むと、遠くで小さな光が漏れている。
あそこが連絡路の入り口になっているのだろうか、照らされるがままにその場所を目指すと光も共に大きくなっていき、やがて全容が顕わになった。
そこには、通路以外が水槽のガラスで囲まれていて、今まで見てきた生き物たちがその周辺を悠々と駆け回っている。
それはまるで、海の中を歩いているかのような不思議な光景が広がっていた。
「すごい……綺麗……」
「そうだね」
圧巻の景色に、鈴音の口から何度目かの感動の言葉が零れる。
対する私も、これにはさすがに驚きを隠しきれずに、小さく感嘆の声をあげていた。
海洋生物たちと戯れるように更に奥へと導かれ、勧められるがままに歩き出そうとする。
しかし、隣にいる鈴音の足は途端に遅くなり、急に立ち止まるので顔色を窺うと少し浮かない顔をしていた。
「どうしたの?」
「……なんだが、私ばっかり楽しんじゃってるね」
心配になって聞いてみれば、ここに来てからずっと隣で相槌しか打っていなかった私のことを気にしていたみたいで、さっきまでの元気と引き換えに申し訳なさそうにそう呟いて眉が垂れ下がっていた。
「そんなことないよ。私も、楽しい」
考えるよりも先に強く否定の言葉をぶつけて、不器用ながらに微笑みかける。
私の反応が薄いあまりに鈴音が困ってしまっている。
これは自分が悪いけれど、彼女にそんな顔なんてしてほしくはなかった。
「……ほんとに?」
窺うように訊ねてくるので、大きく頷いて肯定の意思を示す。
「よかったぁ」
その反応に少しは安心してくれたようで、またいつもの笑顔を浮かべてくれる。
その姿に、心底ほっと聞こえないように息を吐いてた。
——トクン。
鈴音の表情に安心した瞬間、周囲の音を遮るようにして心臓が大きく高鳴り全体的に涼しい場所にいるはずなのに急に体温が上がってほんのり頬が熱くなっていく。
今まで経験のないことに私の全ての時間は静止してしまい、瞳には海底の中で優しく笑う鈴音だけが映っていた。
何が起きたの?
何で急に、こんなに胸が高鳴るの?
……どうして?
膨れ上がる違和感に囚われる私をよそに、元気を取り戻した鈴音が私の少し前に立って振り返る。
「ねぇ、もしよかったらだけど、これからも二人で色んな所に行ってみたいね」
——トクン。
またこの音がする。
一体何が起きたというのだろうか。
不思議な力に胸を掴まれながらも、鈴音の期待にしっかりと応える。
「じゃあ、また何処かで休み合わせようか」
その返事に小さく跳ねて喜び、満面の笑みを浮かべている。
その姿を嬉しく思いながらも、胸を強い何かに掴まれては離れず、二つの目はしきりに海の中を泳ぐ彼女だけを捉えていた。
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