第242話 前兆3 ~side S~


「やあこれは。天女の姫君、こちらにおいででしたか。ご機嫌麗しゅう」


 俺に気付いた正宗が、黒外套マントをばっと捌いて、気障に礼をする。振り向いた雪が、俺の手をとってにっこりと笑った。


「姫。少しのあいだ留守にします。来て頂いて早々に申し訳ありません。皆、姫の事をよろしく頼む」

「はい!」

「雪村も気を付けてね?」


 さほどの時も経っていないのに、痺れを切らしたらしき正宗が「おい、行くぞ」と雪の肩を抱く。

 一瞥もせずに肩に置かれた手を抓り、雪がにこりと笑った。


「では桜姫、みんな。行ってきます。夕方には戻るから」


 もう何度も経験済みなんだろう。慣れた様子で独眼竜に乗りながら、雪が皆に向けて手を上げた。

 そしてこっちも慣れた様子の正宗が、雪の腰に手を回して慇懃に礼をする。


 黒い龍体をうねらせて、独眼竜が天高く昇っていく。

 それを俺は、言いようのない胸苦しさを感じたまま見送った。



「桜姫ぇ、そんなに心配そうなお顔をなさらないで下さいまし。雪村さまは、遅くとも夜には戻られますよぉ? お留守番もちょっとの間です」


 うふふと元気づけるように根津子が笑ったので、頷いて笑い返す。

 俺はもう一度、空に目を向けたが、独眼竜はもう見えない。


 ――そしてその日、雪は戻ってこなかった。



 ***************                *************** 



「坂戸城は影勝様の生家で大事だってのは解る。でもお前、自分の所領は米沢だろ? それに直枝の城は与板。執政やりながらそれじゃあ手が回らないよ」

「解っていますよ。しかし大切な生家の城を影勝様から任されたのです。何を置いても全うしたい」

「気持ちは解るけどさぁ……」


 お前から言い辛いなら俺から言上するから。遠慮なく言えよ? 気遣う泉水に微笑み返し、兼継は御殿を後にした。




 坂戸城下で諍いあり、との報せを受けて急遽来てみれば、よくある領民同士の喧嘩だった。

 ほっとしたような、苛立たしいような気持ちで帰途についた兼継は、峠の向こうを振り返る。


 この城の城主を辞められないのは、この道の先に沼田城があるからだ。

 しかしいつもであれば、それを思うだけでほんのりとした温かさを感じるのだが、今はじわりと胸が痛む。


 初めて贈り物をされて。

 怪我をしないように祈りを込めたと言われて、歯止めが効かなくなった。

 恐らくは、首藤や館に対する焦りもある。それなのに、まさか元の世界に帰ろうとしているとは思わなかった。


 雪は元の世界で死んで、この世界に転生したと聞いていた。

 この世界を行き来している桜井とは違うと。同じだったという事か。

 それならば、雪が生きるべき世界は此処では無い。



「そんな事を言われたら……元の世界に戻れなくなるじゃないですか…………!」


 泣きながら叫んだあの言葉は、どのようなつもりで言ったのだろう。

 未練が残る、という意味か。もしくは……何としても『雪村』を元に戻し、自分の世界へ帰りたい。それを邪魔立てするつもりかと詰られたか。


 結局、はっきりと想いを伝えても、あの娘の返事は聞けなかった。

 泣かせるつもりなど無かった。焦り過ぎたと言う事なのだろうか。

 もう少し 待つべきだったと。


 それならば いったい何時まで。



 ごうと風が逆巻き、兼継はふと空を見上げた。


 黒曜の鱗を煌めかせた龍が、紺碧の空を断ち切るように泳いでいく。……その背には槍を抱えた娘の姿と、それを後ろから抱き支える、黒い外套をはためかせた男の影。


 振り仰ぐ娘の顔は見えないが、風に嬲られるひとつに結わえた髪も、胸当てだけの簡易な鎧も見覚えがあった。

 背を抱いたその娘に、館が楽しそうに笑いかけている。


「雪……?」


 空を見上げたまま、兼継は茫然と呟いた。

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