第161話 逆鱗と強制バッドエンド ~side K~
――雪村は来るだろうか。
兼継は落ち着かない気分で筆を止め、視線を宙に彷徨わせた。
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老女のもとに安芸からの文が届き、「雪村に、五年前の経緯について説明するように」と忠告されて数日。
予想外に早く、雪村が越後に来てしまった。
「話しておきたい事がある故、越後に来た際には寄って欲しい」
そのような文は、確かに出した。
だが桜姫の迎えはふた月毎だ。まだ間がある。それまでに伝えるべき内容を念入りに推敲しなければ。
そのつもりで居たというのに、早すぎではないか。
こちらが伝わって欲しいと願う事柄には全く理解を示さない癖に、伝えたくない事を伝えなければならない時には、随分と食いつきが良いのだな。
恨み言のひとつも言いたくなるが、そもそも呼んだのは自分だ。
「雪村。お前に話しておかねばならぬ事がある。五年前、お前が甲斐に戻った経緯だ」
覚悟を決めて邸へと誘うと、雪村は神妙な面持ちで、それについては桜姫から聞いた、と頭を下げた。
意外な事に桜姫は「泉水から聞いた」という内容を、そのまま雪村に伝えたらしい。
「……いや、お前が謝る事など何もない」
第一関門を突破した気分で、兼継はほっと息をついた。ありのまま伝わったのなら誤解もされまい。
そう思った矢先に、雪村は思ってもいなかった事を口にした。
「ずっと不思議だったのですが、これでやっと腑に落ちました。前に兄上に、私が元の身体に戻らなかったら直枝家に迎える、とまで言って下さったそうですが、あれも今回の件に起因していたのですね。私が五年前の見た目に戻ってしまったから。首藤殿に見つかっては事だと」
「……? 何を言っている?」
「でももう私は、兼継殿の庇護が必要な子供ではありません。自分の身に降りかかる火の粉は自分で払います。どうぞ私の事はお構いなく」
きっと顔を上げた後、そっと目を逸らした雪村を、兼継は呆気にとられて見返した。
この娘は、いったい何を言い出すのだろう。
五年前の経緯を伝える事に躊躇いがあったのは、兼継が『元々雪村を好いていた』と誤解されたくなかったからだ。
雪村の中の娘と雪村は『別人格』。
それを認識した上で花押を刻み、このような事になった責任を取ると、妻になって欲しいと伝えた。
真木家当主の信倖に 直枝家に迎えたい と筋を通して申し込んだ。
しかしあの兄弟、揃いも揃ってそれに応える素振りが全く無い。
『雪村は男だから』
信倖に関しては、その認識故の事だと諦めていたが、雪村……というか中の娘にはいい加減、こちらの気持ちに気付いて欲しい。
そう思っていたのに、五年前の衆道騒ぎを己の口から釈明せねばならぬ事態に陥り、
首藤から庇う為だけに、男に縁組の申し込みなどするものか。この唐変木が!
どこまで私を男色扱いすれば気が済むのだ!
おまけに、選りに選って「自分に構うな」とまで言い出した。
……だんだん 腹が立ってくる。
何故こうもこちらの想いが伝わらない!? いい加減にしてくれ!!
「己の力を過信するな、と前に言った筈だが。忘れたか?」
怯えさせまいと我慢に我慢を重ねてきたが、我慢の限界だ。今回ばかりは怒りの方が勝った。
腹が立ちすぎて手加減が出来ない。
後退る雪村の肩を掴んで塀に追い詰め、兼継はきっと睨みつけた。
孫子の兵法曰く、およそ地に
また
これは敵を仕留めたいなら袋小路に追い込むこと。
決死の反撃を避けるなら一方向に逃げ場を作れ、といった意味合いだ。
……逃げ場など、作ってやるつもりは無いが。
慌てたように雪村が言い訳し出した。細い肩が微かに震えているのが、両の掌から伝わってくる。
怖がらせ過ぎたかと怯む気持ちもあるが、ここで講和の策に乗っては元の木阿弥だ。
手放したくないと望んでいる娘に「自分に構うな」などと言われては 心が凍る。
二度とそのような戯けた事を言い出さぬ様、思い知らせておくべきだろう。
何故、そのように残酷な事が平気で言えるのか。
答えは簡単だ。
この娘が己を『自分は雪村だ』と騙っているからに他ならぬ。
いいか、良く聞け。私は『雪村』を好いている訳では無い。
お前だ、娘。
意を決して兼継は静かに言い放った。
「いつまでも私を謀れると思うな。お前は雪村ではない」
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一晩が過ぎて。
多少の落ち着きを取り戻した兼継は、怒りにまかせて雪村を追い詰めた事を、後悔し始めていた。
手放したくなくて突きつけた真実のせいで、手放す事になるかも知れない。
あの娘は、都合が悪くなるとすぐ逃げる。ならばこのまま、兼継から離れようとするかも知れない。
それも当たり前か。
本人にとっては何に代えても隠し通したいであろう秘密を、怒りに任せていきなり突きつけたのだから。
それを思うと兼継の気は塞いだ。
時期尚早だったかも知れぬ。せめてあの同じ世界から来たという男……桜井の意見を聞いた上で、然るべき時に、驚かせぬよう伝えるべきだったか。
もしもこのまま、雪村が離れてしまったら。
登庁しても仕事になるまいと休む事にしたが、心が千々に乱れて何も手に付かない。
書くべき事が浮かばぬまま、兼継は硯に筆を置いた。
もしそうなってしまったら、それは己の失策だ。
これ以上、追い詰める事も怖がらせる事もしたくはない。大人しく、引き下がろう。
想いが叶わぬ事など今更だ。
そしてこうなった以上、『元の身体に戻る方法』を兼継に求める事も無いだろう。
ならばこのままか。もしくはいずれ、どこかに嫁入りした折りにでも、戻る機会があるやも知れぬ。
それは最早、兼継の
落ちかかった髪を掻き上げ、兼継は吐息をついた。
指を組んだ手を、祈るように額に押し当てる。
雪村が、兼継を恐れて避けるか、腹を括って話を付けに来るか。
――おそらくは、今日が岐路だ。
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侍女に案内され、恐る恐る部屋に入ってきた雪村を、兼継は心からの安堵を苦笑に変えて迎え入れた。
「思ったより遅かったな。朝駆けしてくるものと思っていたぞ」
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