第56話 運命の岐路 1
「兄上、私は帰りたくなってきました」
「人が多いってだけで暑苦しいよねぇ」
そう話をあわせてくれる兄上は、さほど暑がっているようには見えない。
信濃も盆地は暑いけれど、大阪の暑さは別物な気がする。これが湿度の違いなんだろうか。
私は暑さに弱い。たぶん現世での私が、高二で転校するまでは北海道在住だったせいだと思うんだけど、私につられて雪村まで暑さに弱くなっている……気がする。
炎虎使いが暑さに弱いって何の冗談だろうね、ホントにごめん雪村。
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大阪夏の陣
それは私にとって忌み言葉なので、夏の大阪になんて来たくなかったけれど、美成殿が再三呼ぶので仕方がない。
私は今、兄上と大阪に来ている。
武隈討伐が終わったら、真木家は富豊に臣従する事が決まっていたので、表向きは富豊秀夜様に、実際は母君の拠殿に謁見する為に。
真木家は上方に邸なんて持っていないから、どこかの宿かお寺に泊まるつもりだったけど、元・武隈邸が桜姫のものになっていて、今はそれを上森家が管理しているそうなので、そこに泊まらせてもらう事になった。
「いずれこの地は真木に下賜されるだろう。建て替えるまではそのまま使っても問題なさそうだぞ」
先に大阪に来て、邸の差配をしてくれていた兼継殿が、軽く室内を見回しながらそう言った。
建て替えるのかな? 今年の春まで使われていたここは、このままでも良さそうに見える。
でもそれを決めるのは兄上だ。
花見の時もここに来たけれど、克頼様と折り合いが良くなかったから、あまり邸内は見てないんだよね。
よく見ると、さすが大名屋敷だけあって装飾が凝っている。私はうきうきと建物を見回した。
上方にあるからか、国元のよりも家屋の造り自体がおしゃれだし、庭なんかも凝っていて見ているだけですごく楽しい。大名屋敷なんて、私にとっては憧れの歴史的建造物だよ。
北海道には、戦国時代のお城や大名屋敷なんて無かったからね。
……武隈の邸でこれなら、上森はもっとすっごい建物じゃないのかな?
「兼継殿、上森のお邸はここから近いのですか? ぜひ見てみたいです」
「雪村、子供じゃないんだから」
うきうき声が速攻でバレて、兄上が慌てて窘めてくる。
笑いを抑えた兼継殿が、少し声を震わせて兄上に視線を向けた。
「構わない。信倖も来るか?」
「僕はいいよ。おのぼりさん丸出しじゃないか」
兄上、ひどい。
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「兼継殿、市がたっています!」
上森邸までの道すがらにそれを見つけ、私は兼継殿を振り仰いだ。本当におのぼりさん丸出しだよ。
上方の市は、信濃や越後では見たことがない物が売っていて、そこはやっぱり都会って感じがしてテンションが上がってくる。
「先日桜姫から文が届きまして、おみやげを買って帰らなければならないのです。何を買えば喜ばれるでしょうか?」
「桜姫の好みそうな物など私に解るわけがなかろう。お前の方が解るのではないか?」
「私は姫に、その辺に咲いている花しか渡したことがないので」
「元手が無料だな」
からかうように突っ込む兼継殿に、私も「そうなんです」と苦笑して返す。
桜姫が好きそうなものかー。私にもよく解らないな。
前はスライムまんじゅうにご執心だったけど、こんなに暑いのに饅頭なんて買って帰ったら絶対におなかが痛くなる。
市は上森邸を辞した後でちゃんと寄ってみよう
そう思っている私を見透かしたのか、兼継殿が「寄るつもりなら今度にしろ。お前は人酔いをして体調が悪いと信倖から聞いているぞ」と釘を刺されてしまった。
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上方の上森邸は すごく立派なお邸だった。
お邸自体も大きいんだけど、欄間とかの細工がすごく緻密で、いくら見ていても飽きない。
大名屋敷をリアルタイムで、それも芸術的な内装を立入禁止区域無しで見られるなんて、本当に眼福だよ。
「すごいですね……」
溜め息まじりにそう言うと、兼継殿が淡々と説明する。
「剣神公が建てたものに手を加えた。贅沢は好かないが影勝様は五大老の一人だからな。外観を整える事も必要だ。……庭園も見るか?」
そのまま案内されて広い庭に出ると、夏なのに紅葉した木が植えられた一画があった。
それだけで秋がきたように涼しげに感じる。たぶんそれが、この一画のコンセプトなんだろう。
紅葉のほとりには、越後の御殿にあるものに似た池があり、ここでも鯉が泳いでいる。
「こちらにも鯉がいるのですね」
「後漢書に『黄河の上流にある滝、竜門を登ることのできた鯉は竜になる』という故事がある。剣神公が飼い始めたのだが、影勝様がお好きなのだ」
越後の霊獣は神龍だから、竜にまつわる故事のある鯉も好きなのかな。
言われてみれば子供のころ、影勝様とずっと鯉を眺めて過ごしたことがあるな。……雪村が。
私は改めて、綺麗な水中を泳ぐ 緋色の魚体に目を向けた。
鮮やかな色合いの鯉が跳ねるたび、水面に波紋が広がり、それをじっと見ていると何だかふわふわした気持ちになってくる。
ふと視界が暗くなる。
立ちくらみかと思ったけれど、兼継殿の右掌が私の視界を遮っていた。
「あまり真剣に水面を見つめるな。お前は子供の頃、そうやって何度も池に落ちているぞ」
「……私はもう、子供じゃありませんから」
ふわふわした気持ちのまま反論すると、視界を塞いでいた右掌が額に触れて、ついでにぱちんと叩かれた。
「子供じゃないというなら自己管理は徹底しろ。身体が熱い。暑気あたりではないのか?」
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