第17話
青い空!白い雲!強い日射し!
まさに夏真っ盛りな7月下旬、俺は自宅のリビングで立ち尽くしていた。
テーブルにチラシ一枚が花瓶の下に挟まれている。ペーパーウェイト代わりにされた白い陶器に花は挿されていない。
「ねぼすけへ
あんたパスポート更新しなかったのね。仕方ないからお姉さまが代わりに行かせてもらおう。
1ヶ月お留守番よろしく。
じゃあね!」
お留守番ってなんだ、こちとら大学生だぞ。と鼻を鳴らして書き置きを放ったが、直後に思考が止まり、もう一度その雑極まりない手紙を眺めた。
お留守番ってなんだ。
1ヶ月ってなんだ。
しかし少し考えてみれば心当たりはあった。
指揮者とピアノ奏者という肩書きを持つ両親は毎年この時期になると、海外の友人を訪ね回る旅行に出ている。みな同様に音楽に携わる人達で、一緒に演奏したり公演に参加したり忙しく過ごすのが恒例だった。見慣れない土地、見慣れないコンサートホールに家族の姿の載ったポスターが貼られている光景も恒例だが、情報がちぐはぐで奇妙な感覚には慣れない。
以前までは家族総出の旅だったが、姉貴は吹奏楽を辞めた挙げ句に柔道へのめり込み、全寮制の学校へ進んでから同行しなくなっていた。引き換えにメキメキ強くなった。
その姉貴は、今年で大学を卒業する。
最後の長い夏休みを満喫しようとしているのだろう。それは分かる。大いに楽しんでくれ。
で?
普通、前触れも無く紙切れ一枚で置いて行くか?
深く長い溜め息が出た。天井を仰いだままスマホのロックを解除する。電話をかけるのが久しぶりすぎて奴の連絡先を見つけるのに手間取った。
コール音は間もなく本人に切り替わった。伝えたいことは簡潔に。
「せめてメモ用紙使えよ。チラシの裏に書く内容じゃない。」
『あんなに声かけたのに起きない方が悪い。』
息もつかずに言い返してきた。素っ気無く聞こえたがその後に待つ日々に思いを馳せているのか、姉貴の声は高揚を隠せていない。
『そもそもパスポート切れてたら行けないでしょうが。前日の夜にいきなり連絡もらう身にもなりなさい。』
そこを突かれると痛い。
あまり家族と顔を合わせ無いようにしていたのが災いして旅行のこともパスポートのことも失念したままだった。向こうは向こうで、俺はすべて了解して準備万端だと踏んでいたんだろう。何というすれ違い。
だが、もちろん旅行に行けない悔しさから電話をかけた訳ではない。こんな初歩的な伝達ミスさえ起きるようでは、出先で何が起こるか分からない。
だから文句がある訳ではないのだが、何か一言言いたかった。それが何かも分からないまま話していた。電話なら技をかけられる心配もないし。
『まぁいいけど。あんたも合宿あるんでしょ。』
「は、合宿?」
『お母さん言ってたわよ、ほら、糸くん達とのサークルの。
まさかそれも忘れてるの?』
忘れるも何も初耳だ。俺が寝ている間に別の世界線にでも飛ばされたんだろうか。
「俺は参加しないよ。そもそもサークルに入ってない。」
『でも糸くんから聞いたって、だから旅行には来ないのねって。』
そうだよねぇ?と後ろに確認するように声が遠ざかった。
確かに休み突入前、合宿があるとは聞いていた。聞いたと言っても俺は所属メンバーではなく「居候」みたいなもんだったから、茂手木から何かの拍子に伝え聞いただけだ。そもそも茂手木と母さんはどこでいつ話したんだ?あ、あいつの店か。
『兄ちゃん。』
「ん?まなと?」
必死に情報整理をしていると、電話口から真人の声が聞こえた。夏の旅行皆勤賞の弟よ。
『今年は来ないんだ。』
「あ、あぁ。パスポート切れてるなんて忘れてたよ。」
『ふぅん。また今度だね。』
「…体調崩さないようにな。」
『うん、兄ちゃんも。お土産買って帰るから。』
「はいはい、ありがとな。
じゃあ。」
話の流れで通話を切ってしまった。言いたいことが言えたか自分でもはっきりしないが、まぁいい。
画面の暗くなったスマホを見つめる。
真人は、俺が旅行に及び腰だと分かっていたんじゃないだろうか。なんとなくそんな気がした。
俺が音大受験をわざとしなかった時も、気付いたのは唯一、真人だけだったから。
ぼんやりと握りしめていたスマホに通知が届いた。噂の茂手木からだった。
こいつ、俺を平穏から遠ざけるの好きだな。
内容も開かず通話ボタンを押した。
「ちょうどいい、話がある!」
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