竜鳴きの夏

ねむるこ

第1話 2008年7月某日 夏休み前

 肌にワイシャツが貼りつき汗が滴ると改めて季節は夏なのだと実感する。冷房が効き始めた教室内は色んな制汗剤の香りが入り混じっていて嗅覚がおかしくなりそうだった。昼食の時間だったら間違いなく食欲が失せていただろう。


 僕はうちわの代わりに下敷きを仰いで暑さを凌いでいた。僕以外にも下敷きをうちわがわりに仰いでいる者が何名か見受けられる。

 担任の教師は教室の香りなど気にも止めずに連絡事項を淡々と述べる。「夏休みの過ごし方」なんてプリントを配布して面倒そうに読み上げていた。


 内容は髪を染めない、夜11時以降は外出しないなどつまらない約束事が並ぶ。プリントを机に突っ込んだままの生徒もいた。

 そして教師は多くの生徒達が待ち望んでいた言葉を告げる。


「それじゃあ明日から夏休みに入るがくれぐれも気を緩めすぎないように。宿題は早めに終わらせるんだぞ」


 日直が朝の挨拶よりも一段大きな声で「起立!」「礼!」と言うのが僕には可笑しく思えた。

 とうとう日本中の学生が待ち望んだ夏休みが始まったのだ。


義人よしとは夏休みどっか行くの?」


 クラスメイトの問いかけに僕は少し考えてから答えた。


「うん。お父さんの実家に。8月中はほとんど東北のおばあちゃんとおじいちゃんの家かな」

「へえーいいなあ。田舎でのんびりか」

「東北とか涼しくていいんじゃね?羨ましいな火差ひざし。俺なんか部活」


 僕は曖昧に微笑む。皆が想像するような生活とはほど遠いからだ。でも敢えて口にするつもりはない。


「東北って言っても結構暑いんだなーこれが。お土産買ってくるよ」


 僕は笑顔でクラスメイト達に手を振った。

 落書きされていたり傷が入った木の机と椅子、黒板、教卓、変わらない顔ぶれの生徒達。僕が人生の大半を過ごすこの小さくて狭い世界としばし別れを告げる。小学生の頃から何度か経験してきた夏休みだがいつになっても開始直前はそわそわして落ち着かない。


 僕は今年の夏、


 クラスメイト達はそんなことも知らずに和やかに僕を送り出す。誰も僕が特別の体験をすることを知らないのが面白かったし気持ちが高揚する。


 肩掛けのスクールバッグをリュックのように背負うと僕はいつもより多い荷物を手に家路を急いだ。教科書を置いて帰ると教師に叱られる。持って帰ったとしても教科書を読む奴なんかいるのだろうか。形式上持ち帰らねばならないので僕は渋々教科書類をスクールバックに詰め込んだ。

 それと忘れてならないのは上履きだ。上履きを持ち帰るのを忘れないように頭の中で何度も「上履き」と唱える。このタイミングで洗わなければ上履きは汚れと匂いで大変なことになってしまうだろう。


 部活に向かう生徒達と下駄箱で通り過ぎた。運動部に所属する生徒は荷物が多いのでエナメルと呼ばれる大きめの鞄で通学していた。あまり華美な色合いの鞄は生徒指導の体育教師に怒られるため殆ど白と黒のカラーリングをしている。

 そもそも制服にしても持ち物にしても白と黒だらけだ。パンダかよと心の中で突っ込む。

 僕は放送部に所属しているが時々活動に顔を出す程度で幽霊部員に近かった。放送部の活動日自体が少ないのに参加すらしないとなるともう帰宅部に近いかもしれない。活動は時々お昼の放送を担当するぐらいだ。


 部活動に情熱を燃やしている訳でもなく勉強が大好きという訳でもない。ゲームも新作が出れば熱心にやるのに時間が経てば飽きてしまう。漫画も大きな展開がなければたちまち追うのを止めてしまう。漫画を立ち読みするためにコンビニに通い続けていた時期もあるがいつからか止めてしまった。


 僕はただ学校に行って席に座って呼吸してるだけだ。


 クラスメイトとも話すし友達もいる。義務教育だしそれなりに授業をきちんと受けてテストの点数もまあまあいい方だ。でも何故かいつも退屈だった。分からないけどもうずっと今の生活に満足していない。かといって自分が何を欲しているのかも分からない。


 ただ時々無性に全てを滅茶苦茶にしたくなる衝動が起こるのだ。言葉にできない心の煙が立って気持ち悪くて苛立った。


 そして必ず「戻りたい」という気持ちになるのだ。どこに戻りたいのか分からない。そもそも僕が「戻りたい」と思う場所の見当がつかない。確かに暑くて怠い学校からクーラーの効いた家に帰りたいという気持ちはある。だけどその「帰りたい」と「戻りたい」という気持ちはどこか違うような気もした。


 もう辞めよう。こんな考えても分からないことを考えるなんて時間の無駄だ。自分の些細な感情も他人の感情も僕にとってはどうでもいい。


 テレビ番組で思春期の子供が反抗期になったりイライラしたりするのは大人になるためにホルモンが分泌されて心身共に不安定だからと説明していた。大人たちは静かに見守るしかないですねと番組の司会者が他人事のように話していたのを思い出す。自分のイライラの正体を理屈では分かっているのに結局どうすることもできないのかと思うと笑えた。大体のことは「思春期」という言葉で片付けられてしまうこの世界が僕はとてつもなく窮屈に感じる。

 僕はこの説明できない破壊衝動とイライラとに暫く付き合わなければならないらしい。

 何も起こらない平凡な日々は退屈で死にそうだった。だけど今年の夏は一味違う。僕は9年ぶりに訪れる呼子村よぶこむらに思いを馳せた。



「ああ。もうそんな時期なのか。早いなー」


 仕事から帰ってきた父は扇風機の風に当たりながら呟いた。その日の夜、僕は父に向かって呼子村で行われる『五家ごけ祭り』について話をした。

 『五家祭り』というのはその名の通り『五つの家の祭り』のことだ。この五つの家というのは呼子村を悪い妖怪から守った武士の家系のことを指している。僕らの家、火差家も五家の一つだ。五つの家の末裔である子供たちが武士の恰好をして村を練り歩く催事である。しかもこの祭り五家の本家の子供で年齢が12歳に達しなければ開催されないのである。

 今年他の家の子がやっと12歳を迎えたことで僕の代の『五家祭り』では『妖怪退治の儀』と言われる催し事が行われることになった。つい先日届いた祖母からの手紙には僕も火差家の代表として参加するようにと文章が綴られていた。


 この祭り、昔の言葉で表すと「元服」を迎えた子供しか参加することができない。国語の古典の時間に元服について話を聞いたことがある。12歳から16歳ぐらいの子供に対して行われる成人式のような儀式のことだ。昔は頭に冠を載せていたのだとか……。


 五家祭りは村の安泰と子供の成長を願うための祭りだとか祖母から聞いた気がする。

 『妖怪退治の儀』の面白いところは村中に配置された悪妖に見立てた人形をたたき割ってその中に入っているお札の数を競うところだろう。僕はこれを五つの家の戦いだと思っている。勝利した家にはお米や特産品が贈られるのだ。


「僕も“元服”したわけだし。家宝の太刀を持つことが許されるってことでしょ?」


 僕は幼いころに見た蔵に仕舞われた太刀のことを思い出していた。


「腰に差すだけだぞ。刀身見せようとすると周りの大人に怒られるからなー。そもそも義人には抜けないと思うぞ」


 父はそう言って笑った。僕は自分の非力を馬鹿にされた気がして不機嫌そうな顔をしてみせる。


「そんな危ないことしないよ。あくまで太刀は演出でしょ?分かってるって」


 いい子の僕が大人の機嫌に合わせた返答をする。隙あらば抜刀してやろうという気持ちでいることは表に出さないようにする。


「いいなー!私も参加して刀持ってみたいよ」


 妹の綾芽あやめが羨ましそうに僕を見て言った。綾芽は僕より2つ年下だが嗜好は僕からかなり影響を受けている。最近はそんな妹が少し鬱陶しくすら感じる。


「本家で一番初めに生まれた子供じゃないと祭りには参加できないし家宝に触るのも駄目なんだよ。そうでないと家全体に災厄が降りかかるらしいからやめてくれ」

「ええー。なにそれ……。ならやめとこ」


 綾芽と父の他愛もない会話が続く。


「今年の夏は家でゆっくりしてよう。ほらオリンピックもあるわけだし、道も混む……。祭りも強制参加ってわけじゃないんだから」


 父がひらひらと手を振る。その言葉に僕は数回瞬きを繰り返した。確かに中国でオリンピックが8月から開催される。テレビのニュースでも「家でゆっくり」という家族が多いと言っていたが子供からしたらとんでもないことだった。


 それに僕は知っていた。父があまり故郷を好きではないということを。もうかれこれ9年も呼子村に行っていない。祖父母とは電話で話す程度だ。だけどそんなことで僕の楽しみを奪われてはたまらない。ここは強い態度で出ることにした。

 普段争うことが嫌いで人の意見に従ってきた僕だがその時だけは自分の意見を主張する。


「僕は五家祭りに参加したい」


 その姿に父は呆けたような表情を浮かべていた。


「いやいや。車出すのも面倒だし……。新幹線も飛行機も混むぞ」

「いいよ。僕一人で行ってくるから」

 父は暫くの沈黙の後よく分からないことを口にする。

「まあもう9年も昔のことだし大丈夫か……。そうしたら車で送ってやるよ」

「……ありがとう」


 僕は父の反応が気になったけど呼子村に行くことを許され嬉しくなった。


「ええ?よしにいだけ行くの?私も行くー!」


 綾芽が唇を尖らせて騒ぐ。僕は心の中で付いてこないでくれと強く念じた。


「綾芽はほら、最近できたショッピングモール連れてってやるから」

「やったー!じゃあ洋服買ってね!」


 綾芽は簡単に父の提案に乗ると慌ただしく自分の部屋に戻っていった。妹の心変わりには毎回驚かされる。

 父が改めて僕に向き合うと更に念を押してきた。


「祭りの期間は8月中ずっとだけどいいんだな?その間自分のことは自分でやらなきゃいけないんだぞ?料理はばあちゃんがどうにかしてくれるだろうけど」


 僕は父の念押しを適当な相槌で受け流す。父は口では認めてくれたものの本当は僕を祖父母の家に行かせたくないらしい。


「それと……永久湖とわこにはあんまり近づくなよ」


 今までにないぐらい真剣な顔で言われ僕は思わず黙って頷いた。


 

 

 



 




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