金色の髪は風に揺れ、我が前に立つ
筑前煮太朗
第1話 氷点下1度
湿り気を帯びた木とカビの臭いがする教室で、ベタリと肌が張り付く机に頬杖を付きながら、4面ほどあるテニスコートに水の膜が張っていくのを眺めていた。
「お前、もう見たか」
春の柔らかな日差しは枯れ、夏への扉をノックするように降る雨の音。それとはちっとも混じり合わない友人の声が、はっきりと俺の耳に響いた。
「ああ、後ろ姿だけ」
頬杖を付いていた上体を起こし、テニスコートから目を離す。登校してそのまま、鞄も下ろさず机の横にやって来た友人、
「生きてる次元が違ったよ」
なぜ彼が得意げなのかはわからなかったが、そうかと返事をする。しかしもう言いたいことを言い終えていた彼は、こちらに背を向け、自分の席へ戻り始めていた。
桜がすでに溶け始めていた高校2年になる始業式の日、多くの人たち、と言っても大半は男子生徒だったが、その中で大きな話題が1つ、舞い上がっていた。
1年に信じられないぐらいの美人がいる。
そしてその話になんの尾ひれどころか背びれも付いていなかったものだから、なんの関係もチャンスもありやしない人間まで、1学期早々浮き足立った。
同じ学校に通っている。同じ先生の授業を受けたことがある。後輩があの子と同じクラス。なんか住んでるところが近いっぽい。もうなんでもありの自慢合戦がしばしば続き、いよいよその中の1人の男は意を決した。
3年生のサッカー部副キャプテン、
冴島侑斗は両親に深く感謝すべきだ。生まれつき顔が良かった。5歳になる頃には自分の武器を理解していたし、また可愛らしい笑顔の下には少なからず他人を見下す喜びすら覚えていた。しかし、だからこその努力もあった。完璧でなければ人が離れていくという念に駆られた彼は、学年でも常に5本の指に入るほど勉強を頑張り、また6歳から入ったフットボールクラブで早々頭角を表すと、12歳になる頃にはキャプテンとしてチームを全国大会へと導いた。「勉強してないからやばいわ」「なんとなくうまくなってた」天才ぶってヘラりと笑う彼の発言の裏には、確かにその足跡があった。
世界は間違いなく自分の手の中にある。そう思っていた彼には中学の時から付き合っている同じ歳の彼女がいた。肩口で切り揃えられた栗色の髪は太陽光を集め輝き、健康的な肉体を包み込む瑞々しい白い肌はきめ細かい。その滑らかな曲線を持った肉感は、男ならば手触りを想像せずにはいられない。くっきりとした二重、艶々と誘う少しだけ厚く重なる唇、日本人らしく愛嬌と可愛らしさを見せる少し丸っこい鼻先。
お前は可愛い彼女が居ていいよなあ。クラスメイトや部活仲間にそう言われることに少々飽き飽きしつつも、やはりどこか満足気であった。春が連れてきたあの新入生が、高山美月よりも美しい女でなければ、それは永遠だったのかもしれない。
「お前は可愛い彼女が居ていいよなあ」その言葉は今までとは違う意味を含んだ。その言葉の後に羨ましさとは別の感情が見え隠れし始めた。人々からのそれら称賛は、彼にとっていつの間にか耐えられない侮辱となりつつあった。
高山と付き合っている限り、あの子とは付き合えない。
誰も口にはしない。でも誰もがそう思っている。それは彼が作り出した紛れもない幻であったが、自分自身の勝手な想像に冴島侑斗は耐えられなかった。
部活後の部室でディフェンダーをしている筋肉質の友人が言った。「もし高山と付き合ってなかったらなあ。侑斗ならあの子いけたっしょ」もちろん冗談であった。「馬鹿を言え」冴島侑斗も理解していた。しかし、家に帰りご飯を食べ、風呂に入り、布団に入ってよし眠ろう、という段階になって、その言葉はいよいよ事実のように思われて来た。俺ならいけるかもしれない。
「最近、美月とうまくいってないんだよね……」
次の日、昼飯を食べながらそんなことをふと口にしていた。友人たちはそんなことを言って
嘘であろうと、口にした言葉は不思議と現実を呼びよせるものだ。いや、この場合なにも不思議ではなかった。冴島侑斗は言葉にしなくとも、段々と冷たくなっていくその態度に高山美月は不安を覚えない訳がない。
「……私のこと、嫌いになっちゃった?」
下校途中、隣で
「なに言ってんだよ」
冴島侑斗はヘラヘラしながらそう答えたが、内心ドキッとした。高山美月のそのいじらしさに胸を打たれた、わけではない。ただただ、別れるためのチャンスだと思った。誰ともすれ違わない路上には、しばらく2人の足音だけが響き、彼女がまたなにか口にしようとした時、彼は焦って次の言葉を吐き出していた。
「いや、うん、嫌い、にはなってないけど……」
わざわざ暗い顔をしてわざとらしく気取った。さすがに罪悪感もあった。なんの罪もない小動物をいじめてる気分に近しい。しかしこれはチャンスなのだ。高山美月と別れ、新たな春を迎えるチャンスなのだ。小動物相手だろうが、腹が減れば喰う。世界ってそんなものだろう。傷つけることを、正当化した。
「お前のことは嫌いじゃない。でも、もう付き合うとかそういうのはちょっと、違う気がしてる」
「そっか。そんな気はしてた」
高山美月は夕陽に照らされ可愛らしく笑った。今にも泣き出しそうに見えた。泣く時、鼻先が赤くなるのが可愛いと思っていたことを遥か昔のことのように思い出した。今の彼女は、可愛かった。綺麗だった。美しかった。
「じゃあ、バイバイ」
いつも口にする「またね」ではないその言葉が、2人の未来そのものだった。いつかこの罪を背負うことになる。微笑みながら高山美月に振る右手は心なしか重く、未来の自分に向けられている気がした。
それから1週間後、冴島侑斗は多くの観客の視線に当てられながら、中庭に立っていた。もっと言えばその視線は彼よりも、その目の前に立つ、太陽を反射させ風に靡く《なびく》金色の髪に集まっていた。まだ冷たい強い風の吹く春なのだと、彼はなぜか強く意識した。そして期待もした。彼女はもう、手の届くところにいる。そう、ここに来てくれたのだ。彼女があれだけ無視してきた告白の場に。
「俺と、付き合ってください」
差し出した右手には、もうなんの重さも感じない。風も、寒さも暑さも。緊張のあまり感覚がなかった。集まった視線すら固唾を呑んだ。木々の揺れる音だけが、澄ました耳にさらさらと流れる。
「迷惑なのよ。こういうの」
静かな世界を切り裂いたのは、綺麗な顔から出たとは思えない、酷い言葉だった。
「え」
辛うじて出た言葉は母音1つ。彼にはまだ迷惑という言葉すら飲み込めていなかった。知らなかった。それが自分に向けられる言葉だということを。
「なぜわざわざこんな恥をかく場所を選んだのかわからないけれど」
彼女は中庭を挟むように立つ校舎、その窓際に押し寄せた多くの観衆に目を配りながら、前置きをする。
「好きでもない人にこういうことされるの、気持ち悪いのよ。兎に角、誰かと付き合う気なんてないわ」
これ以上言うこともないと、彼女は金色の髪を踊らせ、冴島侑斗に背を向ける。スカートから出る長い足が、青々と光る芝生の上に大きな1歩を踏み出す。
「ま、待ってくれ!」
帰ろうとする彼女を見て、漸く現実に戻る。いや、まだ戻っていない。ただ止めないと行ってしまう。それを理解しただけだった。
彼女はもう全て終わったでしょ?とうんざりした表情で振り返る。金色のベールの奥にある灰色がかった虹彩が深く、鋭く、凍るように冷たい。
「なんで、わざわざ……それを言いに?」
なぜ断るのに、ここに来たのか。なぜ他の人たちにしたように、今まで通り無視しなかったのか。なぜ、辱めるようなことを。
冴島侑斗の恋心は、あっという間に憎しみへと変化を遂げた。周りから見られていることも、もう覚えていなかった。
「はあ……」彼女は溜め息を吐くと、長くしなやかな人差し指と中指、2本の指を整った顔の横まで上げた。
「1つ、あなたからの手紙を持ってきた子がこう言ったわ『学校、いや、この辺で1番かっこいい人だから!』まあ、本人もそう思っているみたいだけれど、自惚れね。もう1つは、わざわざ注目される中庭に呼ばれたこと。要するに、丁度よかったのよ。全員にわかってもらえるでしょ?私に告白するべきじゃないって」
もういいかしら。と彼女は再度背を向け遠ざかる。終わりだ。終わりが来た。窓際に集まった人たちも笑いながら教室に戻っていく。賭けにもならねえ。ほらな。無理だろ。みんなわかってた。様々な台詞が聞こえる。大きな波のように引いていく。
彼は自身の右の手のひらを見ながら、過去にあった幸せを思っていた。温かい日常だった。確かに自惚れだった。あの子と付き合えるなんて、あり得ない。なんで付き合えるなんて思っていたんだろう。そうだ、温かい日々は高山美月と共にあった。今ならまだ戻れるかもしれない。注目されたから断られたのかもしれない。照れ隠し的な?馬鹿な。都合がいいことを考えるのは、やめろ。もう……
窓の外では未だに雨が降り続き、黒板の前で中年古典教師は顔をタオルで拭く。
それ以来、冴島侑斗はえらく謙虚になったと聞いた。素直なのか、精神を打ちのめされたのか。それと同時に見目麗しい金色の彼女に告白する人間も、功を奏したか減ったらしい。それでもやはり告白する人間が存在しているのは、そうそう、氷点下1度の灰色の瞳が、えらく美しいらしい。
金色の髪は風に揺れ、我が前に立つ 筑前煮太朗 @chiczen
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