ざらついた日常

 病魔という災禍に覆いつくされた世界で、いつしか僕らは、心までも蝕まれ、日常はざらつき陰鬱いんうつなものへと変わっていた。


「行ってくるよ」


 スーツ姿の僕は、大きなごみ袋を抱えてそう言った。


 リビングにいる14歳になる娘はスマホを覗き込んだまま見向きもせず、こちらに背を向けている妻もそれは同じだった。


 コロナの前からこうだったっけ?そんな気もする。結婚して十五年。娘は反抗期、妻とは倦怠期である。


 玄関を開けて、強い陽ざしに顔をしかめると空を見上げた。梅雨が明けた七月の空は、憎たらしいほどの夏の色をしている。


 今日も暑そうだ。


 ため息を漏らす。その息は、マスクの中に広がって、不快な湿り気が自分の肌に貼り付いた。


 歩き出して一歩目でつまずく。靴ひもがほどけていた。またため息ついてしゃがみ込み、紐を結ぶ。

 その時だった。革靴が赤く発光したのだ。


 驚いて固まる僕は、急に動き出した自分の膝で強かに額を打った。


「痛っ!」


 尻もちつきながら、思わず声を漏らす。


 投げ出した足の先が、バタバタと自分の意思に反して動いている。自分の目を疑いもう一度靴を見る。やはり赤く発光していた。


 勝手に動く足を、筋肉で押さえつけて、玄関の支柱を支えに立ち上がる。けれど、暴れ出す力にあらがえなかった。

 そして……


 カチカチ、カチカチ、カッチカッチ、カチカチ。


 僕の足は、その場でリズムを刻みタップダンスを踊り出した。


「ちょ、なんだよ、コレ?」


 僕は大学生まで野球をやっていた。タップダンスの経験などない。足だけが華麗に動き、足首から上が追っつかないため、危うくバランスを崩して転びそうになる。

 理屈は分からないが、靴のせいなのは明らかだった。

 僕は、足をもう一方の足で踏みつけて、無理やり靴を脱ごうとした。


 すると……、シャキーン!


 全身に電気が走ったような感じがしたかと思ったら、僕は背筋をまっすぐに伸ばしていた。


 カチカチ、カチカチ♩カッチカッチ、カチカチ♪


 そして今度は、全身で見事なタップダンスを披露する。誰も見てはいないが。


 僕は、息を呑んだ。


 全身が、乗っ取られた。そう自覚したのだ。




 足をコンパスのようにピーンと伸ばしながら、文字通り踊るように門扉もんぴを開けた僕は、通勤バッグと大きなごみ袋を手に、クルクル回りながら通りに出て行った。

 たまたま歩いていた出勤途中のサラリーマンに出くわす。ゴボウみたいにひょろ長い50代くらいの男性だった。


 うわ、見られた……。


 恥ずかしいとか弁解しようとか思う暇もなく、僕は、ステップを踏みつつ、そのおっさんへと近づいていった。おっさんは、一瞬ぎょっとするも、すぐに目を伏せて見て見ぬフリして通り過ぎようとした。


 僕は、そんなおっさんへと問答無用で近づいていき、その進路を見事にふさいだ。

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