鍵の開いた小箱には

遊月奈喩多

わたしとあなたの楽園は 愛佳

「ただいまぁ~」


 我ながら嘲笑の鐘の的になるのもわからなくもないほどのんびりとした印象を抱かせる声が、夕焼けに染め上げられた玄関に響く。返事はまだ聞こえなかったけど、もしかしたら眠ってしまっているのかもしれない――まったく、いつも眠たがりなところも可愛いけど、反応がないと寂しいよ?

 静まり返った廊下を歩いて居間に向かう。こっそり近寄ってから急に声をかけてみようかな? 驚いた彼女がどういう反応をするのかと想像したら思わず「むふふ」と声が漏れてしまう――いけないいけない、こんなの外で聞かれたらただの変な人になっちゃうよね、気を付けないと!


 あ、居間に行く前に飲み物持ってこ。喉乾いちゃってるかもね。

 自分があまり喉とか乾きにくい体質だとどうしてもその辺り無頓着になってしまうのがいただけない、わたしと伊織いおりちゃんは別人なんだから、そういうのもちゃんと考えてあげないとカラッカラになっちゃうかも知れないや。

「伊織ちゃん、飲み物何がいい? ジュース、お茶?」

 ……返事はない。

 まだ寝てるみたいだ、昨日も遅くまで起きてたのかな。ガタガタって音が聞こえてったような気もしてくるし。まったく、もし寝てたらちょっと小言のひとつでも言わないといけないとかもなぁ……できれば言いたくないんだけどね。うーん、ちょっとだけ気が重くなってきた。

 返事がなかったからオレンジジュースだけお盆に入れて、伊織ちゃんの部屋に向かう。ふすまを開けて、換気扇の回った部屋を進む。一定のリズムでファンが夕焼けを切ることで生まれる光と影の対比がどこか綺麗で、それでいてどこか不安になる、なんだか寂しくなるような静かな部屋。

 わたしの足音しかしない部屋の隅に向かって、わたしは壁に掛けてある鍵を探して――え?


 いつもわたしが手に取るはずの鍵が、どこにもなかった。

 うそ、どこかに落とした?

 ううん、そんなはずないそんなわけないそんなのありえない! だって朝確かにここに掛けたもの、そのあと写真にまで撮って、鍵は確かにここに掛けたって確かめたもの、毎日やってるんだから今日だけそれを忘れるわけはない、ほらスマホを見たら間違いなくちゃんと撮ってある、鍵も壁に掛けてある! だってそうじゃなきゃおかしいもの、そうしないと伊織ちゃんを出してあげられない、伊織ちゃんの顔を見られないもの、伊織ちゃんにただいまって言えない、おかえりって言ってもらえない、伊織ちゃん、伊織ちゃんごめんね、伊織ちゃんにはわたしがいなきゃいけない伊織ちゃんはわたしが守ってあげなきゃ伊織ちゃんにはわたししかいないのに伊織ちゃんごめん、ごめんね伊織ちゃん待っててすぐに探すから――――


「ねぇ、ほんとにその箱に“伊織ちゃん”がいると思ってるの?」

 薄暗い部屋のどこかから、そんな冷めた声が聞こえた。

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