第26話 鹿之助ふたたび出雲の地を踏む

「さあ次はどうする、冴名」

 鹿之助の問いに、いまや尼子勢の軍師格になった冴名は、拡げられた絵図面から顔をあげた。鹿之助と目が合うと小さく頷く。


伯耆ほうき(鳥取県西部)は尼子恩顧の国人が多く残っているからね。積極的な協力は得られないとしても、少なくとも中立は保ってもらえると思う」


 既に伯耆の諸城に使いを出し、毛利方の因幡における重要拠点である鳥取城が陥ちた事は報せてあった。

 毛利か織田かで揺れる小領主にとっては家の存亡が係っている。織田が優勢となればそちらに心が傾くのは当然である。


「読めないのは出雲に入ってからだね」

 かつて『尼子十旗』と呼ばれた出雲各地の領主たちは、今はその多くが毛利に降るか、追放されており、城はすべて毛利の監視下にある。


 彼らの動向は新右衛門と阿井による諜報活動によっても掴みかねた。と云うより、彼ら自身も決めかねているのだろう。

「毛利の力は、すでに出雲にも強く及んでいるのか」

 鹿之助は腕組みして嘆息した。


「だから、鹿之助」

「ああ?」

「途は一つでしょ」


 鹿之助も冴名の顔を見て不敵に笑う。

「もちろん。ひたすら攻め落とすだけだ。そうすれば毛利の本隊がこの山陰に向かって来るだろうからな」

 そしてその総大将は吉川元春に違いない。


「奴を、今度こそ討つ」


 ☆


 毛利の主力は羽柴秀吉と戦う播州三木城救援のため備前まで軍を進めたが、そこで思わぬ足止めを喰らった。備前岡山の領主、宇喜多うきた直家が織田方に寝返ったのである。元より反覆常無い梟雄きょうゆうと呼ばれる直家は、まさに絶妙のタイミングで毛利へ叛旗を翻したのだった。

 

 宇喜多勢の執拗なゲリラ戦に手を焼く吉川元春を、さらに激高させる報せが届いた。

「鳥取城が織田方に奪われただと。それは確かなのか」

 吉川元春は強靭な精神力で平静を装い、その使者に問い返した。


 織田方の総司令官、羽柴秀吉は現在、播州三木城攻めに主力軍を投入している筈だった。何よりも鳥取城は毛利軍が京畿進攻の最前線と位置付ける難攻不落の巨城である。それをたかが分遣隊ごときで陥落させるなど、普通では考えられない事だ。


「織田方の将は誰だ。羽柴秀長か」

 明智光秀や柴田勝家、滝川一益ら織田家の有力武将はそれぞれ別方面へ出陣している。中国攻めに向かった羽柴秀吉の手勢の中で、単独で鳥取城攻略という離れ業が出来る才覚を持つ者がいるとすればそれは、秀吉の弟、秀長しか考えられない。秀長は穏やかな容貌ながら、実に苛烈な戦をする男なのである。

 だが使者の言葉は元春の想像を完全に裏切った。


「いいえ。尼子の一党で、その総数は千にも足りないものです」

「……あ、尼子だと」

 元春は思わず絶句した。尼子など、各地に残党は居るにせよ、もはや何の力も持たないと思い込んでいた。


「尼子勝久を担ぎ、山中幸盛という者が中心となっているよしに御座います」

「山中幸盛、誰だそれは」

 不審げに吉川元春の表情が固まった。

「三日月と鹿角の前立てを付けた兜を被り、益田の品川大膳どのをただの一槍で倒したそうにございます。それによって、城方は総崩れに」


「三日月の前立て。そうか、奴が」

 おおおおうっ! 元春は大きく吼えた。

「おのれ、山中鹿之助。貴様だったか!」


 震え上がっている使者を残し、元春は幕舎を出た。


 ☆


 鹿之助率いる尼子軍は因幡から伯耆、そして出雲を目指し驀進していた。東郷湖を望む羽衣石うえし城の南条氏は一戦もせず降り、出雲境にある尾高おだか江尾えびの両城は門を閉ざしたまま、尼子勢を見送った。


 鹿之助らの前に中海なかうみが広がる。ここからは出雲の国である。



「やっとまた、ここまで戻ってきたな」

 鹿之助は感慨深げに、隣に立つ冴名に言った。

「ここからが新たな始まり、でしょ。鹿之助」

 ああ。と鹿之助はうなづいた。


「ところで冴名。月山富田城を取り戻したら、お前に言いたい事があるのだ」

「え、何?」

 目を輝かせて鹿之助の顔を覗き込む冴名。


「い、いや。今は言わない」

 なぜか赤い顔で鹿之助は顔をそむける。

「何でよ。今でもいいじゃない、言って」


「言わないといっているだろ。もう少し待て」

「待てない。待てる訳がないでしょ。もう何年待ったと思ってるの」

 冴名は鹿之助の胸倉を掴んで迫る。

「さあ、早く言え!」


「い、いやその。実は、おれは昔からお前の事が……」

「ほうほう。わたしの事が?」

 知らずしらず襟元を掴む手に力がこもっていく。ぎらぎらとした目で冴名はその先を促した。


 途端に鹿之助の目が泳ぎはじめた。

「えーと。あれだよ、富田城の中に祀られた神社の、狛犬こまいぬによく似ているなーと思ってたのだ。うん、それが言いたかったのだ」


 すっ、と冴名の瞳が冷たくなった。

「ならば死ね、鹿之助」

 冴名はそのまま背負い投げで、鹿之助を中海に放り込む。そして後ろも見ずに立ち去って行った。


「うぅ、冗談だったのに……」

 ずぶ濡れで岸に手をかけた鹿之助は呟いて、少し照れ笑いをする。

「まあいい。何とか誤魔化せたみたいだしな」


「お前たち、二人揃ってバカなのか」

 岸の上から呆れ顔の新右衛門が手を伸ばす。見ると土手の陰から、阿井や亀井新十郎、尼子勝久らも顔を覗かせている。


「お子さまかよ。せっかく艶っぽい場面が見られるかと期待していたのに」

 やれやれ、と阿井が首を振る。

「いやいや、これは僕が神社に祈った甲斐がありましたね。この調子なら、まだ僕にも望みは有りそうじゃないですか」

「何を言う新十郎。冴名さんは、わたしのものだからな」

 新十郎と勝久が睨みあっている。


「阿呆。あんた達には、これっぽっちの可能性も無いわ」

 新十郎と勝久は阿井に殴られている。

「痛いです、阿井さん」

「もうちょっと君主を敬え、阿井」 



 出雲国へ入った鹿之助たち尼子一行。しかし月山富田城への途はその距離以上に遠いものだった。



 

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