第7話 無銘の名刀
出雲地方には尼子、毛利の他にもう一人、王と呼ぶべき人物がいる。
中国地方全域に及ぶ広大な山林を持ち、多数の使用人を御するこの男は、尼子氏らのようないわゆる大名ではない。
刀剣の原料である鋼鉄、『
名を
神主のような浄衣を身に纏った田部長右衛門は、ひとりの若い従者を連れ、鹿之助の屋敷を訪れた。
「鹿之助、鹿之助!」
屋内へ呼び掛ける母の声に、鹿之助は急ぎ表へ出た。
「田部さま。何故このような所へ」
鹿之助も思わず目を疑った。毎年、富田城内で行われる新年祝賀の宴で、遠くからその姿を見た事はあったが、まさか自邸へ迎える事になるとは、想像だにしていなかった。
彼らたたら師は、富田城の南方にある
長右衛門は従者に手を引かれながら屋敷に入る。
その落ち窪んだ眼窩の奥の瞳は灰色に濁り、すでに光を失っていた。これは長年、たたらの炎を見詰め続けた代償であると云えた。
深く刻まれた皺から相当の老年であると想像はできるが、彼の正確な年齢を知るものは居ない。幼少だった鹿之助が彼を初めて見た時から、その容姿は全く変わっていないようにも見えた。
果たしてこの田部長右衛門は何代目に当たるのであろう。田部家の当主は代々『長右衛門』の名を受け継ぎ、それは実に令和の現代にまで至っている。まさに生きる歴史と云うべき一族なのである。
「ここで、我が一族のものが世話になっていると聞きました」
枯れた印象の外見からは意外なほどに、低く力強い声で長右衛門は言う。
「熊谷新右衛門のことでしょうか」
はい、と長右衛門は頷いた。
「見舞わせていただいてもよろしいか」
横になっていた新右衛門は、田部長右衛門の姿を見ると、一瞬で跳ね起き、そのままひれ伏した。
「こ、このような姿で失礼を……」
普段の新右衛門からは想像できないほど緊張していた。その様子に、介抱していた冴名も目を瞠った。
「あの。もしや田部さまも鉢屋衆なのですか」
「ばかか、冴名は。この方を俺たちと一緒にするな。この方はな」
真っ赤になって怒る新右衛門に田部長右衛門は笑いかけた。
「良い。我ら、たたら衆も、芸能の鉢屋衆も、根は同じではないか」
「そのような勿体ない」
たたら衆といい、鉢屋衆という。彼らはいずれも当時の身分制度、または人々の意識の上からも、その
そのため彼らは、その中でも最大の勢力を持つ田部家を頼ったのである。
長右衛門は後方に控える青年を振り返った。
「鹿之助どのに、あれを」
青年は手にしていた包みを鹿之助の前に置いた。
「刀でございましょうか」
鹿之助は包みをほどいた。それは武骨な造りの刀だった。鞘にも鍔にも華美な部分は一切ない。まさに実用本位であるといえた。
「地味な…あ」
冴名が呟き、あわてて口を押えた。
「抜いてみなさい」
苦笑まじりに長右衛門は促した。鹿之助はそれを目の前に掲げる。
半ばまで抜いたところで、鹿之助の手が止まった。
「はうっ」
思わず息を呑んだ。
横から覗き込んだ冴名もその刀身に目を奪われている。
「なんて、きれい……」
「菅谷で造った玉鋼を奥出雲の刀匠が鍛えたものです。なかなかの名刀ではないかと思います」
「失礼しました」
冴名は床に着くほど頭を下げた。
「これを頂けるのですか」
ほとんど呆然と鹿之助は言った。こんな素晴らしい刀を何故、おれに。
「新右衛門を助けて頂いた礼と」
田部長右衛門は言葉を切った。そして、見えない眸で、真っすぐに月山富田城の方を見やる。そこには尼子晴久がいる。
鹿之助に向き直った長右衛門は、静かに告げた。
「あの方を援け、武功をお上げなさい。鹿之助どの」
鹿之助は表情を引き締めた。晴久が新宮党を討伐することを決意した事を言っているのだと分かったからだ。
「はい。必ず」
「あなたは、抜かれる前の無銘の名刀であると信じています。鞘走ったときに、その真価を顕すであろうという事も」
無銘の名刀。それは山中鹿之助を一言で表現した言葉となった。
※田部長右衛門氏に関する記述のなかで、鉢屋衆との関わりについては、作者による架空の設定です。
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