愚かな恋はよく刺さる

小沼高希

第1話: 交渉開始

「……好きです」

僕の口から、言葉がこぼれた。

「……交渉を、始めようか」

エイカは、机を動かした。


僕がエイカのことを知ったのは、去年の学祭準備のとき。クラス代表を押し付けられて、企画書を手に面倒くさがりながら昼休みに会議室に集まったことをまだ覚えている。

「隣、失礼するよ」

物怖じしない人だな、というのが第一印象だった。綺麗な横顔から目をそらして、企画書を見た。同じクラスの、やる気のある一部が書いた威勢のいいもの。僕からすれば、馬鹿馬鹿しいことに青春を注ぎ込んでいるように思えた。

「へえ、お化け屋敷やるんだ」

反射的に体を引いてしまうと、困ったような彼女が僕の手元を見ていた。

「私のクラス、最終投票まで脱出ゲームどっちやるかで悩んでたんだけど、君のところとダブらなくてよかった」

正直なところを言うと、僕は異性と話すことが滅多になかった。こういう距離感が近い相手に少しドキドキしていたのはあった。


とはいえその後しばらく会うこともなく、次に顔を合わせるのは年を越した四月のこと。

「小田牧栄華です。エイカとでも呼んでください」

五十音順で比較的早かったエイカの自己紹介をぼんやりと聞きながら、もしかして学祭の時の人だったかなと思い出していた。まあ、向こうも忘れているだろうとその時には考えていたけど。

エイカはクラスの中で目立たない、というかあまり関わりを他人と持たない人だった。下世話な同級生曰く、「ガードが硬すぎて婚期逃すようなやつ」。そういう言葉に気持ち悪さを感じるぐらいには僕は他人に馴染むことができない性格だった。必然的に、僕たちは何かと話すことになる。

内容はさまざまだ。宿題の難しい問題とか、最近の面白い小説とか。エイカは文系だったけれども、理系の話が結構好きだった。昔の研究者がどうやって法則を発見したかだとか、何が科学を科学にしているのだろうとか。哲学的なテーマも多かったし、僕もそういう内容は好きだった。


ゴールデンウィークが終わる頃には、それが恋心だと何となく思うようになっていた。話しているのが楽しくて、もっとそばにいたい。劣情が混じってなかったかというと、正直答えたくない。まだその頃の僕は、自分の感情すらあまり真剣に考えていなかった。


夏休みが過ぎて、また学祭がやってきて、僕たちのクラスは焼きそばを作ることになった。シフト割の表で同じ欄に名前があったときに嬉しかったのを覚えている。

「騒げるのもそろそろ終わりだね」

鉄板の上でキャベツを炒めながら呟いたエイカの言葉が、妙に耳に残った。


忘れ物を取りに行くと、電気の消えた教室のベランダに人影がいた。椅子に座って、のんびりと柵の隙間から下の方を見ながらペットボトルの水を飲んでいたのはエイカだった。

「どうしたの?」

「君も来るかい?」

そう言って、エイカは僕にペットボトルを投げた。

「特等席から後夜祭を見る機会、そうそうないよ」

かろうじて僕はペットボトルを手の中で落ち着かせた。

「……飲んでいい?」

「余ったやつだからね」

下では軽音部の騒がしいリズムに合わせて人がたくさん動いていた。

「……いいですね」

「でしょ?」

晩夏のぬるい風が僕たちを撫でた。


この時が、僕の浮かれの頂点であった。


祭りが終わり、ゴミ置き場に段ボールが積み上がり、次の目標が模試に切り替わった。この高校の推薦者率はそこそこ高いが、僕もエイカも一般入試狙いだったので真面目に勉強に取り組んでいた。

距離感が出てきたな、と思ったのは推薦入試の出願が始まった頃。クラスの空気が少しづつ張り詰めだして、殆どの同級生が部活を引退し、授業も演習が多くなったあたり。今までのエイカから、何かが変わっていくような気がして怖くなった。


そして、舞台はあの日の放課後。ここまでは前置き。ここからが本編。


告白なんて手段をとったのは、それが一番エイカを引き止められるような気がしたからだ。宿題を切り上げて布団に入った夜遅くに色々考えて、想いを伝えることに決めた。僕は相当悩んだ気でいたけど、実際は全く考えていないも同然だった。


「話があるんだ。帰りのホームルーム終わったらどこかで話さない?」

「教室でいいでしょ」

6時間目が終わって、僕はエイカにそう話した。エイカはいつものようにほつれかけてテープで補修された世界史の参考書を読みながら、軽く答えた。心臓が高鳴って、声がうわずっていないか不安だった。


ホームルームの先生の話も、ほとんど耳に入らなかった。息をするのが苦しくて、こんなぐらいなら告白なんてやめてしまいたくなった。人の波が引いて、教室に僕とエイカになるまでの時間が永遠に感じた。


「それで、私に何の用?」

窓側に立ったエイカの髪が揺れた。柔らかい声。

「……好きです」

僕は口を開いた。

「待って」

声には嫌悪が混じっていた。脳がすぐに振られることを想像して、体が固まる。

「……今なら、まだ聞かなかったことにできる。友達でいられる。それでも、君はその続きを口にする?」

「……はい」

どれだけ間があったのだろう。真っ白になった何も考えられない頭で、なんとか僕は口を開いた。


「……好きです」

僕の口から、言葉がこぼれた。

「……交渉を、始めようか」

エイカは、机を動かした。

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