07. 人間のキバ

『人間のキバ』

        葦多渥夫


 自然が牙を剥くとよく言われたりする。

 そうじゃないと思う。むしろ人間の方が自然に対してキバを剥き出しにしてきたのじゃないのかな。それで逆にコテンパンにやられているだけだ。もっとも自然の方には人間など相手にしているつもりもないだろうから、一人相撲とはまさにこのことだ。

 自然を恐れ崇め敬い、自然に生き産み死ぬ。当たり前のことだ。

 こんな当然のシキタリを忘れさせたのは、やはり神の想像であり宗教の創造である。

 神は自然とは違う。宗教は反自然だ。仏や鬼だって同じ様なもの。幽霊・妖怪・機械・文明もまた然り。

 自然に牙などない。肉食獣にはある。人間にはおそらくない。持ってもいないのにそして必要もないのに人間は自然に牙を剥こうと狂った道を歩み続けている。科学や技術だって同じ様なもの。対立・闘争・殺人・戦争もまた然り。

 人間のキバ。しかしいいものを持っている。それでこそこの世界の覇者たり得るのだ。これからも鋭く研いで磨いて剥き出しにしよう。それはそれで面白いし。そう、ずっとね。せいぜいこの世界からぼくたちが消え去る日まではね。



「どうだい。ワサビ君」

「ううーん。そうっすねえ……なんと言いましょうか、そのう」


 ワサビ君、いつもと違って真剣な表情をしている。

 ちょっと調子が狂うなあ。でも、これこそが編集者いや出版社社長って顔なのかなあ。


「率直な講評を頼むよ。手直しの必要があるならなんなりと注文つけてくれればいいし」

「そうですかぁ~。そんじゃあ、お~い、お~いお姉さ~ん! 大瓶二本追加。それから手羽先三人前!」

「はあ?」


 そっちの注文つけるのかあ!?


「それと済みません先輩。俺今月すっからかんなんで今夜もごちそさんっす!」

「へ!?」


 ああ、やっぱりいつものワサビ君だった。

 おかげで調子がもっと狂ってしまうよ。


「で、先輩のこの原稿なんすけど、笑いどころが一つもないんですよ。それに、お色気なんかも欲しいですね~」

「え? 笑いとか、お色気とかが必要なの!?」


 この前聞いた話では大人の女性向け雑誌ってことだけど、それってエッチなやつなのかなあ?


「あー済みません。俺もちゃんと説明できてなかったっすね」

「ああいいよ謝らなくても。でもエッチな話とか書くのはぼくちょっとね。名前も載るんだろう」

「もう真面目なんだから先輩は。あのですね男はですねえ、ちょっとエッチなくらいがイケてんですよ。でもって女はかなりエッチがいいってね。わははは」

「ええーそうなの。でもかなりエッチって、それカラコさんのことかい?」

「いやいやいやいや違いますよう。カラコはとても貞淑な女性なんすからっ!」

「ごめんごめん。あははは」


 そうだよね。カラコさんはお淑やかだし、いつも騒がしいワラビと取り替えてほしいくらいだよって、あーいかんいかん! 何を考えてるんだぼくは。よりによって妻を取り替えるだなんてそんなふしだらな。

 ワラビはとってもいい妻なんだから、ぼくにはもったいなくらいだ。ごめんよワラビ。許しておくれ。


「まあ冗談はともかく先輩。それならペンネームを使ったらどうすか?」

「ん……あっペンネームか。そうだね。でもどんなのがいいのかなあ」

「そうですね。ちょっと待ってくださいよぉ」


 上着のポケットからスマホを取り出したワサビ君は、それを操作しながらしばらくの間考えていた。


「ようしこれだ。オウタアチサってのはどうっすか?」

「なんだいそれ?」


 今度はボールペンを取り出して、割箸袋の裏に何かを書いて、ぼくの方に向けて見せてくれた。


 桜多彼方左(OUTA ATISA)


「ん………………あっ、なるほどね!」


 こんなの簡単簡単。


「あれれ、もうわかったんすか。さすがですね先輩。もっと長い時間悩んでほしかったんすけど。わははは」


 ワサビ君は少し悔しそうに笑っている。ぼくはなんだか愉快になってきた。ようし今はぼくが優勢だぞ。ここで思い切り言ってやろう。


「いやあワサビ君、そりゃあ横にローマ字を書いたら誰でもすぐにわかるはずだよう。あのねえ、ぼくだってやればできるんだからねえ。これでも学生の頃は英語が得意だったんだから。それにぼかぁ君より二年も人生経験が長いんだし。あんまりぼくをばかにしないでくれろぉ。あは、はははは」


 ふー。スカっとしたぬぁ。


「…………」


 ワサビ君が苦笑いしてりゅぞ。何も言えないみたいだぬぁ。

 ははははぁ~、気分爽快らー。

 あっ、てもまざまにゃ。こっこからが大切たあ。ぼかぁテーブルの上に転がったまんまのボールピェンを借りて、ぼくの割箸袋の裏に書いてやることにすたぁ。

 ちっと酔いがまわってんで、若干歪んだ字になってしみゃうが、ほれでも十分読めるひゃろう。ひっく。


 葦多渥夫(ASITA ATUO)


 こりぇを見しぇて、ロウマ字の部分を尻から頭へ、ひっく、ぺ、ペニ先あいゃ、ペン先でなぞってひゃった。こっこ、こりぇが最後の仕上げにゃんぞぉう。いくいっくぞぉ。ひっく。


「ぞーだいワシャビくぅん。こうひゅう仕組みにゃりょ。れもまぁ、漢字らけらったら、あとほんにょ少しらけ悩んらかもしれにゃいけろにぇえ、ひっく……とぉ言ってもねぇ、ぼかぁねぇ、なあしろ、そのあにょ、か漢字、準二級の腕前、持ってひるんらかんねぇ。ひゃっはははははは、はぁぁ~~ふぅぅ」

「へっ……ああはいはい。まーそれもそうっすね。いやあ失敗失敗。先輩には難しすぎると思ったんだけどなあ。わははははぁー」

「むにゅう」


 失敬なきゃつだにゃあ。とぉ言うひょり、ぼっくの、ひっく、攻撃、みゃったく効いてにゃいみたいしゃにゃひかぁ。みゃ、ひつものことらけどぉ。ふんにゃあ。


「あ、それとあのう、先輩……実は俺、漢字準一級なんすけど」

「ふへっ!?」


 ま、負けた。2ランク上だ完全敗北だ。

 酔いも一気に醒めた。とほほほ。


       ◇ ◇ ◇


 ぼくは桜多彼方左となって再びペンを握った。ぼくはやるぞ。

 ぼくはやるときはやれるんだとワサビ君に知らしめしてやるんだ。

 いやワサビ君だけでなく、この社会全体にな!

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