赤とんぼ

千里温男

第1話

 ぼくの一歳年下の妹に、小学から中学にかけて、晴美さんという同級生の友だちがいた。

病弱な女の子で、一年の三分の一ちかくも学校を休んでいたようだ。

 ぼくの家と晴美さんの家が近かったからなのか、彼女が学校休むと、妹は担任の先生に頼まれて給食の食パンを彼女に届けに行くのだった。

担任の先生からのお知らせのプリントなども届けに行っていた。

そういう関係は妹たちが中学を卒業するまで続いた。

 晴美さんはいつもよりもっと体調をくずすことがあった。

そんな時、晴美さんのお母さんは、彼女を乳母車に載せて山森医院に連れて行くのだった。

帰る途中、ぼくの家に立ち寄ることもあった。

そして、母や妹にお礼や愚痴を言うのであった。

 「長生きできそうにないから、早く嫁に行かせたい」

そう言ったこともある。

お嫁に行くことが女の最大のしあわせだと思い込んでいたのに違いない。

ぼくは本人の前で『長生きできない』なんて言わなければいいのにと思った。

晴美さんは乳母車の中で小さくなって、母と妹の後ろに隠れるようにしているぼくの顔を、寂しそうな目で見ていた。

 中学三年のある日、妹がプリントを晴美さんに届けてほしいと言った。

どうして自分で届けないのかと訊くと、友だちが来ているので一緒に出かけるのだと言う。

ぼくは妹の一番の友だちは晴美さんだと思っていたので、そうではないらしいことに、なんだか失望を感じた。

 晴美さんの家は小高い丘の中腹にあった。

ぼくは彼女の家へ行きたいような行ってはいけないような中途半端な気持ちで坂を上った。

 インターホンのボタンを押すと、

「どなたですか?」

と晴美さんの声が聞こえてきた。

ひとりで留守番しているらしかった。

 ぼくは

「川田です。妹の代わりに学校からのプリントを届けに来ました」

と妙に恰好をつけて答えた。

「はい!」

そう答えたきりだったけれど、すぐバタバタと足音が近づいて来てドアが開いた。

 「これ」

ぼくはプリントを差し出した。

「ありがとう」

晴美さんはプリントを胸に抱くようにして礼を言いながらも、まだ何か言いたそうに見えた。

ぼくは少し待ったけれど、晴美さんが何も言わないので、くるりと背を向けた。

 「あの…」

その声に振り向くと、

「あの木にのぼりたいんですけど…」

と庭の隅の木を指さした。

ぼくは変なことを言うと思った。

「あの、母さんが『おまえは長く生きられない』と言ったから、死ぬ前に高い所にのぼって景色をよく見ておきたくて…」

と言う。

せつない最期の望みのような気がした。

顔色は悪くなかった。

ぼくは木にのぼらせてやろうと思った。

 ふたりで黙って木のそばまで歩いて行った。

なんという木か知らないけれど、枝がたくさん張り出していて、のぼりやすそうだった。

とはいえ、一番下の枝は背丈より高い所にある。

そこまでのぼるのは、ぼくにはたやすいことだ。

でも、晴美さんには無理な気がする。

物置から梯子を持って来た。

 一番下の枝から上は、たくさん枝があるので、女の子にものぼるのは難しくなかった。

それでも、彼女を少し先にのぼらせながら、

「その枝につかまって」

とか

「この枝に足をのせて」

とか、アドバイスした。

 もし彼女が落ちたら、受けとめるつもりだった。

受け止めることができなかったら、彼女の下になって落ちるつもりだった。

あの時のぼくは理想と現実の違いなど思いつきもしなかったのだ。

 三メートルくらいの高さまでのぼった。

幹の左右の枝にそれぞれ尻を載せて脚を垂らした。

彼女は、ぼくに言われたとおりに、片腕を幹に巻き付けていた。

ぼくも自分の腕を彼女の腕にわざと触れさせながら幹にまわしていた。

半袖から伸びている彼女の腕にぼくの腕がゆるやかに触れていた。

くすぐったいような感触を今も覚えている。

 まだ田んぼや畑がたくさんある時代だった。

初夏だったから、田や畑や野は緑だったはずだ。

それなのに、ぼくの記憶の中の景色はセピア色なのだ。

空には赤とんぼが飛んでいるのだ。

 彼女は

「学校はどっち?」

とか

「山森医院はどっち?」

とか

「お兄さんのおうちはどっち?」

とか、わかりきっているはずのことを訊いた。

ぼくは無愛想に

「あっち」

と指さしただけだった。

 今にも彼女のお母さんが帰って来るのではないかと気が気でなかったのだ。

「もう降りよう。お母さんに見つかったら叱られる」

彼女は素直にうなずいた。

ぼくは彼女が無事に地面に降りるとほっとした。

走って梯子を物置に持って行った。

それから、彼女の手を引いて玄関に急ぎ、玄関に着くと、彼女を押し込んでドアを閉めた。

そして、あとも見ずに帰り道を急いだ。

 病弱な女の子を木にのぼらせるのは決していいことではない、いや悪いことだと思っていた。

それに、密かに彼女の身体に関心をもっていた。

どちらにも罪悪感があった。

だから、彼女のお母さんに見つかるのが怖かったのだ。

 高校二年になったばかりの日、ぼくは家にひとりでいた。

玄関で聞き覚えのある声がした。

行ってみると、やはり晴美さんだった。

ぼくより少し背が高くなった晴美さんが海老茶のスーツを着てスラリと立っていた。

端正な顔立ちによく似合った衣装だった。

 妹は出かけていると言うと、晴美さんは

「おかげさまで中学を卒業できました。純子さんとお兄さんにはたいへんお世話になりました。ありがとうございました」

と、これが最後というようなことを言って、丁寧なお辞儀をした。

ぼくは、大人びてあらたまって挨拶する晴美さんに圧倒されて、ただ会釈しただけだった。

それが精一杯で声も出せなかったのだ。

ほんとうに、晴美さんを見た最後だった。

 「赤とんぼ」の姉やは十五で嫁に行った。

晴美さんは、それより一つ上の、十六になるのを待ちかねたように嫁に行った。

たぶん、お母さんの強い意志がはたらいていたのだろう。

 ほくの記憶の中の景色がセピア色なのは、晴美さんがそんな若さでお嫁に行ったからに違いない。

(おわり)

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赤とんぼ 千里温男 @itsme

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