万博の歴史②
万博の意図とはなんだったのか。そこに日本が参加した意味とはなんだったのか。前回の話で、何となくイメージが着いたと思います。技術力の高さ、すなわち「資本力の高さ」は、外交力に直結していたのです。
ではなぜ、万博の流れが娯楽へと変わっていったのか?
ぶっちゃけ当時の日本みたいな国は、先に産業レベルを上げていたヨーロッパには勝てません。その点で日本には取引する「魅力」がないんです。
彼らが持っていなくて、自分たちが持っているもの。それは、『三人の芸者たち』のような、自分たちの文化や風習ーーオリエンタルリズムでした。
そのため、日本は
日本国内で初めて開催された博覧会が1872年(明治5年)の湯島聖堂博覧会。学芸員過程とってる人、『湯島聖堂』は絶対出るから覚えておくように!
元々は明治4年に行われる予定だったのですが、開催直前にドタキャンに。ドタキャンの理由はよくわかっていないようなのですが、その後オーストリア政府からウィーン万博の要請が来たため、まずはウィーンで展示される予定の一部を、国内で開催しました。
一番有名なのは名古屋城の金のシャチホコです。浮世絵があるので、ぜひググってみてください。……私にはでっかい鯛か赤い鯉にしか見えないんですけど。
なおこのことは、澄田こころ様の『姫君と侍女は文明開化の夢をみる〜明治東京なぞとき譚』https://kakuyomu.jp/works/16816452218551107960
の佳代さんがはしゃいで喋ってます。
ちなみに内容は、瞬間記憶力とそれを描き止められる画力を持つ天然侍女佳代さんと、訳あって男口調の探偵役雪姫さまの痛快冒険譚です。なお番外編では雪姫さまが現代人になって佳代ちゃんレベルの天然になってたりするので、育った環境と時代と男運がよほどアレだったんだなと思いますた。
ところでこの博覧会は、明治新政府にとって初の『モノを陳列する施設』の登場でもありました。
陳列と言えば、そう、ショッピングモール、スーパー、コンビニ、そういうのを思い浮かべますよね。ああいう「商品が見られる」方法も、ロンドン万博によって誕生したと言われています。
その前は店に入っても商品を見ることは出来ず、店主に話をしてようやく奥から出される、という買い方だったのです。また定価という概念も万博由来で、それ以前は店主との交渉によって値段を決める方法でした(今もそういう所が残ってる)。
私たちの生活も、万博がなければまた違ったのかもしれませんね。
さてウィーン以降の万博では、佐賀は有田焼を無事売りつけることに成功しました。でっかい花瓶を作ったり、でっかい皿を作ったり、とにかく「でっかくて緻密で派手な文様の有田焼」を沢山作りました。
ヨーロッパに出回った有田焼は、後に『ジャポニズム』の流行を産みます。
葛飾北斎のような人物や風景を描く浮世絵がゴッホ、モネ、ルノワールなどの「印象派の画家」に影響を与えたとするのであれば、
有田焼の草木や緻密な文様は「アール・ヌーヴォー(新しい芸術)」を作ったと言ってよいでしょう。有名なのはミュシャです。1980年代ぐらいの少女漫画の塗り絵みたいな絵を描いてる人です。え、違う?
では、有田焼はこの時に有名になったのか、というとそうではありません。
有田焼という名前になる前、つまり「古伊万里」と呼ばれていた時代。
出島を通し、オランダ東インド会社の手によって、ヨーロッパに流通していたのです。
が、話が長くなるので今回はここまで。
【参考文献】
石川マサル・フレア共著2015年『絵ときデザイン史』エムディーエヌコーポレーション
椎名仙卓2000年『図解博物館史』雄山閣出版
平野暁臣『万博の歴史 大阪万博はなぜ最強たり得たのか』小学館
佐賀城本丸歴史館『肥前さが幕末維新博覧会プレ特別展 1867年パリ万博と佐賀藩の挑戦』
聞いたらとりあえず答えてくれる 母
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