博覧会 ごめんなさい! 訂正!
『佐賀の有田焼・伊万里焼は目玉だったそうですよ。』
前回、こんなことを書いてしまったのですが……。
実際は花瓶以外はほとんど売れず、万博で売れ残った商品を各人が売っても半分ぐらいは持ち帰ったそうです。
っていうのもですね。佐賀藩、準備期間が短くて、新しいものは作れず、
「とりあえずあるもん全部佐野常民のとこに集めてー」
って、佐賀中の磁器とか紙とか白蝋とか麻とかをかき集めていたらしいんですよ。
28万4557点ぐらい(幕府が用意したモノの40倍だってよ)。
そりゃ余るわ……。
ただこの経験によって、佐野常民は「わかった。西洋の好みは絵画風だ!」と、ウィーン万国博覧会のために新しいデザインの磁器を作らせます。これによって、ウィーンでは成功を収め、以降有田焼は更に西欧文化に影響を与えるのですが。
その前に、かしこまりこ様から「(パリ万博)なんで佐賀?」という質問の答えを見つけましたので、ここに記しておきます(ごめん、資料が少なくて本格的に調べるのはもうちょっと時間が必要です!)。
どうも、パリ万博の参加を先に決めたのは薩摩藩で、幕府は「薩摩に好き勝手させてたまるか!」と、追随したようです。
で、他の藩にも「俺たちについてこい!」と招集を掛けたのですが、
応じたのは佐賀藩だけでした。
しかもですね。
薩摩藩は、「俺たち薩摩兼琉球国から来ましたー!(肥前ロンズ風要約)」と、
「薩摩琉球国勲章」を各国の要人に配布したり、
日章旗と一緒に藩旗を掲げたり、
「薩摩太守政府」として、幕府とは別の、独立した展示場所を持ったりしました。
それをですね。薩摩の岩下方平の提案に佐野常民も乗っかって、「肥前太守政府」と称して同じことをするんですよ。
つまりだな。
最初は幕府のお供を被っていた佐賀は、異国についた途端、さらっと裏切ったのです(笑)。
これによって、ヨーロッパの人たちに、
「へー、日本のトップは幕府なのかー」
ではなく、
「へー、日本は、『幕府』『薩摩』『佐賀』の三大勢力で成り立ってるのかー」
……という印象を! 与えてしまったのです!!
徳川慶喜の弟徳川昭武は、国内でどんどん勢力を失っている幕府の権威を、パリ万博の外交政策で取り戻そうとしたのに、逆に下げる結果となってしまいました。……いや、参加しただけまだマシだったな、多分。
参加しなかったら薩摩が独走してた。
いやー、しかし、佐賀ずっこい。
母に、
「薩長土肥っていうのに、なんで肥前影薄いの?」
って尋ねると、薄い麻の上着をひらっと広げながら、猫なで声で、
「大砲ー? あるよー。でもお金ないんだよねー」
……と言って、
「こんな感じで最後の最後で立場を定めたからだよ(戊辰戦争)」
と説明。
そりゃずっこいすぎて信用ならんわな、佐賀。今まで金がないない言って政治・武力参加を渋ってた奴が、いきなり大砲ぶっ込むって。
慶喜は、親幕派でありながら要所要所でむにゃむにゃ言って結果盛大に裏切った直正のことを、
「こすい人(鍋島直正のWikipedia参照)」
と言ってたけど、これだけで済ませていいのか慶喜。
まあでも。
長崎警備を佐賀と福岡に任せる割には支援をほぼせず、おかけで佐賀藩はカツカツで、
鍋島藩の藩主についたばかりの若き直正が佐賀に行こうと出発しようとした途端商人たちに借金返済を迫られたり、
アジアで一番強いと言われていた清国がイギリスに負けたのに、出島の警護に全然危機感持ってくれないし。
正直いって、恨み骨髄はあるよね、佐賀。
【参考文献】
佐賀県立佐賀城本丸歴史館2017年『肥前さが幕末維新博覧会プレ特別展 1867年パリ万博と佐賀藩の挑戦』
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