滝を見て思ったこと

「理解するための最良の手段は、自然の無限の作品をたっぷり鑑賞することだ。」

「誰も他人のやり方を真似すべきではない。

なぜなら、真似をすれば自然の子供ではなく、自然の孫でしかない。

我々には自然の形態がたくさん与えられているのだから、直接自然に触れることが大事だ。」

(引用:名言+Quotes「レオナルド・ダ・ヴィンチの名言」最終アクセス2021年6月28日

https://meigen-ijin.com/leonardodavinci/

https://meigen-ijin.com/leonardodavinci/2/)


 ……と。

 レオナルド・ダ・ヴィンチが言っていた(らしい)ので、見に行ってきました。滝。

 自然といえば山。山といえば滝。


 山を登ると、気圧が変わって耳がボーッとなります。そしてクーラーがかかった車の中でもわかる、気温の変化。

 細い道には鯉料理店が立ち並ぶ。鯉のあらい食べたーい! と思いつつ、向かってくる車をよけて何とか駐車場へ。

 鯉のあらい、美味しいです。鯉の刺身がくだいた氷の上に乗せられて、それを酢味噌につけて食べるんや……。

 この情報だけで野林緑里さま、ここがどこかわかりますかね、ひょっとして(笑)。



 






 橋から眺める川。向こうに架かる、小さな橋の下には段差があって、下流へ向かって落ちる水は滝っぽいです。小さいけど。

 石で固められた護岸の上には、鯉料理屋の古い建物が建っている。修学旅行の温泉街を思い出します。

 こういう背景を小説に落としたいなー、って思うんですけど(千と千尋の神隠しの温泉街みたいに、人工物と自然物の融合みたいな)。中々描写が難しいです。まずその場で中々メモれないし、家に帰ると何があったのか忘れてしまう(笑)。


 なら写真を撮ればいいじゃない、と思う方もいるのでしょうが、私、写真を撮られるのも撮るのも得意じゃないんですよね(撮られる時、とんでもない顔になるんですよ、私)。

 勿論、人の撮った写真とか綺麗だなー、って思うのですけど、自分で撮るとすっごくショボイっていうか、残念というか……。光の加減とか目で見ているのと違うような気がするし、小さな画面に収めてるせいか窮屈というか。


 今回は音とかも残したかったので、動画で残すかー、と思ったのですが、やっぱり残念な動画に。

 容量だけ埋まりそうだなー……ってしょっぱい気持ちになりながら、ふと、空を見上げた時。


 太陽の明るさとか、空の青さとか、雲とか木漏れ日とか夏の緑とか。

 あー、綺麗だなー、って、ふと動画の画面を見直したんです。

 そしたら、なんというか。私の肉眼で見ている世界と、ピッタリな動画になっていて。


 そこで気づいた。

 ひょっとして私、かなりキョロキョロしてる?

 もしかして一画面だと思っている視界は、滅茶苦茶キョロキョロした画面を複合してる?

 なら校長の先生の話とか聞いてる時、私、無意識で首動かしてただろーなー(笑)。


「自分はかなりキョロキョロしている」と気づき、画面を移したいものだけでなく、365、ちがう360°から撮ることに決めた私。

 地面にはアスファルトや緑色の草が生えているだけじゃなくて、落ち葉が沢山落ちていて、たまにネムの花も落ちている。

 空を見上げると、木の葉が太陽の光で真っ白に映っていたりして。当たり前なんだけど、日の当たる葉と、影が落ちた葉は、色が全然違うなぁと改めて思ったり。

 風が吹いても、紅葉の葉(縦)と地面に生えた葉(横)の動きは違うな、って思ったり。

 突然下から水の流れる音がするなあ、って思ったら、落ち葉まみれの、金物の蓋がされた排水溝の上に立っていたり。

 特別なことではないんだけど、意識すると面白いなあ、と思いながら進んでいく。


 ふと木漏れ日が落ちた石畳と隙間に生える苔とか、まだ青い紅葉の瑞々しさとか。

 目の前は日が当たっているのに、奥に入ると異世界に入ったように真っ暗になる、トトロとかもののけ姫みたいな雰囲気とか。

 石と苔と細い草の間を、激しく流れていく水の透明感とか、清涼感とか。

 綺麗だと思うのに、自然を言葉にするのは、すっごくムズい。

 そんなことを考えながら、いよいよ滝に到着。






 水の流れる音、梢の声、人の声は聞こえているはずなのに、自分の聴覚が遮られたような、無くなったような感覚に陥る。

 穏やかに溜まった水は澄んでいて、下に溜まった砂や雲母とともに、キラキラと輝いていた。

 けれどすぐ側では、すごい勢いで水量が落ちてくる。滝だ、と頭で理解した途端、ドドド、という音がようやく聞こえた。


 黒い岩の肌は、ゴツゴツしていて硬そうで、だけど滝の水しぶきを浴びて艶やかで瑞々しい。

 その黒くてゴツゴツした岩の上を、真っ白で柔らかい生糸のような水が伝っている。かと思ったら、穏やかな水たまりの上に激しく打ち付けていく。

 土砂降りの雨と言うより、糸が切れた真珠のネックレスのように飛び散って、暫くしたら形をなくして透明になって広がっていく。

 足をつけると氷水のように冷たくて、小石が足の平にくい込んだ。その痛みすら心地よい。足を動かすと、キラキラとした水面の影が砂の上を泳いで、そばに居た小さな魚が逃げていく。

 空を仰ぐと、水しぶきが飛んでいて木々や植物を濡らしていた。マスクを外す。木と水が混じった匂いがした。



 ……我ながら上手じゃないなー(笑)

 こう、思った通りに出来ないことって、すっごく歯がゆい。

 もっというと悔しい(笑)。「かーけーなーい!」って暴れそう(笑)

 小説を書く時、「世界を綺麗に書かなければならない」と思う時がある。特に公募に出す時とか。

 細かいところを疎かにしてはならない。情報が欠落したせいで、情景描写が破綻してはならない。視界だけでなく、匂いや音、感触を入れなければならない。例えファンタジーであっても、「これが現実である」と読んでいる人に思わせなければならない。


 でも滝を見ていると、

「別に私が綺麗に書かなくたって、滝は綺麗なんだよな」

 と思った。

 私が世界を完璧に書こうとしなくても、形を言葉に出来なくて破綻していたとしても、世界は既に美しいんだよなあ、と。


 そもそも、空想と現実の違いって、ないような気がする。

 よく「目に見えているものが現実」だと主張する人がいるけど、人間社会を動かしているのは、数とか、法律とか、契約とか、歴史とか、言葉とか、「姿が見えないもの」「実態がないもの」だと思う。私たちはそれを信じて、他人も信じていると思っているから生きている、と思う。

 自分の見ている世界が、割と適当に頭の中で合成されていたように、今見えている現実も、殆ど私情に塗れているんだろうなって。

 なら私の描くものは、「いかに正確な描写を描くか」ではなくて、「いかに自分が感動したものを伝えられるか」なんだろうな、って、滝を見ながら思ったです。


 この滝、実は霊場なのです。傍にはお不動さまがいらっしゃるのですが、もしかするとこの考えは、お不動さまのお導きかもしれません(笑)

 ああでも、あわよくば、語彙力とか頭の良さとかもつけて欲しかったぜ(欲張り!)。



 この時、淡い水色の紫陽花が咲き誇っていましたが、よく見ると花(ホントはガクらしいです、あの四つの形)の先が茶色になっていました。でもまだ綺麗に咲いててよかったです。

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