とある小説家の話

六宗庵

とある私小説家の話

 


私は私小説家だ。―しがない、ただのアマチュアではあるが。

自己の私小説、または幻想小説を稀に視覚化と謡い細々と絵に描くこともあるが、それに評を得たことはない。

それでも私が書き続けているのには、一つの理由がある。




彼女は、とても聡明な作家だった。しがない私とは月とミミズほどの差があるが、それはさて置いても彼女は素晴らしい作家だった。

綿密な情景描写に伴う自然的な言動。登場人物一人ひとりに確かな芯があり、箱庭の中で静かに生を終える感覚。それが非常に飲み込みやすい表現で己の中に染み入るあの感覚を、文壇の幾人が体験させてくれるだろうか。

そんな彼女を当然、私は尊敬していた。執拗な新興宗教のそれではない。ただ、彼女の綴る文章に焦がれ到底及ばない自分を蔑んでいた。




だが、彼女は違った。彼女は、私を友と呼んだ。

私はそれだけでも身の縮む思いをしたが、それだけではない。




「貴方の文字は、とても堅実で、少しずつ積み上がる堅牢な城壁のよう。それでいて、すっと頭に入ってきて…私は好きよ」




彼女はそう言って、いつも優しく微笑んで私の小説を読んでくれた。

しがない私の、唯一の読者。それが彼女だった。




私は、書き続けた。彼女が望むなら、どんな駄作でも書き上げてみせようと。

自分のその自律的な行動は、尊敬ではなく恋によるものかと思うときもあった。

しかし思い巡らせてみても、そんな感情ではない。彼女に、認められ続けたい。そんな、もっと偏執な感情を掘り起こしそうになり、私はそれに蓋をした。

私には、失うことが怖かったのだろうと、今では思う。




「君は、とても、聡明だった。綺麗だった。――誰よりも。何よりも」




もう、彼女を失うことはない。

薄暗い土壁の部屋、私は筆をとる。








『床下、君とともに』








 

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