第4話 日本にて・その4 ――楽しかったという過去形――

   

 日本で歌っていた頃、まだ僕は学生だった。

 研究者として学会発表や論文発表はしていたが、まだ給料をもらえる身分ではない。博士号を取得した後に、正式に『仕事』となって、お金を稼げるようになるわけだが……。

 自分の業績とコネでは国内で研究職を探すのは大変だろう、というのは薄々わかっていた。つまり、博士号取得後は外国へ渡ることになるだろう、という予感だ。

 かなり早い段階では「僕は歌うことが好きだから、外国でも何とかして歌う場を作りたいな」と考えていた。とはいえ、英語は読み書きくらいしか出来ない――英会話には自信がない――ので、外国で音楽団体に所属するのは難しい。ならば一人で歌うとして……。

 ストリート・ミュージシャンみたいなこと、出来るだろうか? ああいうのは楽器がないとダメなイメージだが、音源はPCに入力しておけば済むし、異国で日本歌曲を歌うのであれば、道ゆく人には何を歌っているのか内容はわからず、下手でも何でも恥ずかしくないし……。


 ……などと考えるのは、しょせん夢物語だ。しかし、そんな夢想を抱くくらい、僕の中には「どんなに環境が変わっても、歌い続けていたい」という気持ちもあった。

 ただし、それも『かなり早い段階』に過ぎなかった。


 セミプロの合唱団で歌うようになると、すっかり考えも変わっていた。

「ここを辞める時は、合唱を辞める時だ」

 そう思うようになっていたのだ。

 なにしろ、セミプロの合唱団は、僕にとって最高水準の到達点だ。これより上は、専門に音楽教育を受けた者だけで構成される『プロ』の合唱団しかなく、僕が入ることは出来ない。

 そのような合唱団で色々と楽しい思いを味わってしまった以上、この先、これより下のアマチュアレベルで歌う機会があっても楽しめるとは思えなかった。例えるならば、極上の刺身を堪能した後で一皿100円の回転寿司を美味しいと思えるか、という問題だ。

 だから、外国で働くことになって、この合唱団にいられなくなったら、もう合唱からは足を洗おう。いつしか、そのように思い始めていたのだが……。


 毎年冬のオーディション、その四年目のことだった。

 それまで三年連続で合格していたオーディションで、僕は不合格になった。

 厳密に考えれば、不合格という時点で、もうセミプロの合唱団では歌えない。アマチュア枠の方の活動にしか参加できない。だが実は、オーディションに落ちた者の中からも何人かはセミプロ枠の練習に帯同させてもらったり、時にはステージに立たせてもらったり出来るシステムだった。その辺りは、最終的には指揮者に決定権がある。

 人数的に足りなくなりがちな男声メンバーは優遇されやすく、例えば僕も最初にアマチュア枠で入団した際、冬のオーディションまでの数ヶ月の間、正式なメンバーではないが声をかけてもらって、セミプロの方の練習に参加する状態だった。

 四度目のオーディションで不合格になったこの時も、それまでの三年間があったおかげか、声をかけてもらったのだが……。

 僕の方から辞退させてもらった。「落ちたのだから潔く」というより、「そろそろ本業の研究の方で博士号の取得が近づいて忙しいから」というのをメインの理由にしたような気がする。

 だが、自分ではわかっていた。それは口実に過ぎない、と。

 ある意味、もう心が折れたのだ。


 オーディションに落ちた瞬間、普通ならば落胆の気持ちが胸いっぱいに広がるのだろう。もちろん僕の中にも残念に思う気持ちはあったけれど、それだけでなく、ホッとする気持ちも生まれていたのだ。

 自分が最低レベル、周りは上手い人だらけ。そんな環境で歌うことは、確かに楽しい。だが自分より上手い人たちが日々努力する様を見せられる中、そうした人たちについていくために、自分も努力する。それは向上心の楽しさだけでなく、頑張り続けることのつらさを感じる日々でもあった。

 いや正確には、つらくてもつらいとは感じないようにしていたのだろう。自分で自分の気持ちに蓋をして、見て見ぬふりをしていたのだろう。

 不合格にホッとしたことで、その『見て見ぬふり』をしていた気持ちに、僕は気づいてしまったのだ。

 こうなると、高い技術水準の中で歌うことがいくら楽しかろうと、もう頑張り続けられない。しかし「一度このレベルを味わってしまったら」という気持ちは消えないので……。


 こののち、アメリカの大学にポスドク研究員として勤務する職が決まり、渡米する時。

 僕の合唱に対する想いは、

「もう十分に楽しんだ。楽しかった」

 という、過去形の気持ちに収まっていた。

   

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