あいのうた ――再び始めたその先に――

烏川 ハル

プロローグ 森の中で

   

「ハッ、ハッ……」

 これも一種の森林浴だろうか。

 心地よい緑の木々に囲まれて、山道というには緩やかな土の道を、僕は自分のペースで走っていた。


 職場である大学から、車で十数分の距離にある植物園ボタニカル・ガーデン。美しい花々が植えられた区画もあるが、そうした場所は女の子と一緒に訪れるもの、というのが僕の認識だった。一人で来園する際は、裏山のハイキングコースが僕の目当てだ。

 日本にいた頃も『植物園』と呼ばれる場所には何度か訪れたが、それらは「広々とした芝生の上で遊べる公園」というイメージだった。一方、ここの植物園ボタニカル・ガーデンには、そのような大きな緑の広場はない。ずらりと並んだ花壇の辺りがメインなのだろうが、その横を下っていくと、岸際まで木々が生えているような川に出る。川辺の散歩を楽しむには、絶好の場所だ。

 それとは別に、裏山にはハイキングコースが広がっていた。複雑に入り組んだ山道を全て堪能するならば、半日くらいかかるのではないだろうか。ある時、適当に歩き進めたら、少し離れたスタジアムの裏手に出て「こんなところに繋がっているのか!」と驚いたこともあるくらいだ。

 とはいえ、そこまで『全て』楽しむつもりならば、今日のような平日に――仕事の後に――来たりはしない。裏山のルートの中には、30分か1時間くらいのジョギングに最適のコースもあり、いつも誰かしらが走ったり歩いたりしていた。


 僕は昔から運動が苦手だが、体を動かすことは大好きだ。京都に住んでいた頃も、気が向いたら鴨川のほとりで軽くジョギングすることがあった。ただし僕の『気が向いたら』は、だいたい二、三日くらいしか続かない。

 アメリカで暮らし始めて、この植物園ボタニカル・ガーデンのハイキングコースを見つけてからも、今までは「休日に散歩したり、たまにジョギングしたり」という程度だった。

 ただし今回は、これまでの『気が向いたら』とは少し違う。体力作りをしたい、という明確な気持ちで、数日前から毎日、仕事の後に――いったん帰宅して着替えてから――植物園ボタニカル・ガーデンかよっていた。しかも、ここでジョギングした後、スポーツジムに立ち寄りプールでひと泳ぎする、という日課だ。

 ちなみに、そのスポーツジムは大学の施設であり、利用料金は格安。日本人の感覚としては驚くほど――まさに桁違いなほど――の『格安』で、そこに惹かれて登録したものだった。最初の頃は物珍しさもあって頻繁に利用していたが、もう数ヶ月くらい全く使っていなかった。


 このようにスポーツのたぐいとは無縁の僕が、そこまでして「体力作りをしたい」と思い立った理由。

 それは、再び歌い始めるためだった。

 一度は辞めていた合唱という趣味を、ここアメリカで再開するためだ。

 吹奏楽やオーケストラとは違って、合唱では、自分自身の体が楽器だ。発声技術云々以前に、すっかりなまったこの体では、思うように音が出せない。だから、まずは体力作りの必要を感じたのだった。

   

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