風のシルフィス第三話アンナの秘密

  『第三話 アンナの秘密』


 春の陽気がポカポカと教室の中を満たしていた。

 そんななか、アンナ・プラティヌスは今にも欠伸の出そうな眠気を堪えながら黒板の板書に意識を集中しようと必死になって目をこじあけていた。

 なにしろ一年生の一学期である。授業の内容もごく初歩的なものだった。

 なので、じつに退屈なことこの上ない。

 なのに、隣の机からはカリカリカリカリと鉛筆を走らせる音が聞こえてくる。

 見れば、ルミナ皇女殿下がこまめにノートをとっているのだった。

 さらに、その隣……確か、シルフィスという名前だったか、その男子生徒も生真面目に鉛筆を走らせている。

 ほかの生徒たちは皆、自分と似たりよったりである。誰もがしょぼしょぼとした目をしており、時折、その目を擦りながら授業の終了を待ちわびていた。

 なかには立てた教科書の陰に隠れて完全に熟睡している大胆な生徒もいたりする。

「――さて、長年の研究により、魔法は大別して主に五つの系譜に分けられることが判明しております。ルミナ皇女様、お分かりになりますか?」

 ここは士官学校の一年生校舎。その二階にある講義室である。

 講義の内容は魔法における歴史的な背景とその変遷。

 授業を担当しているのは学級担任のジェシカ・エレミナ女性教諭だ。

 その声はとても穏やかで、たいへん耳に心地よい。まるで子守歌のようだった。

「うむ、この世の摂理に働きかける超自然的な魔法――大気魔法、炎焼魔法、水液魔法、大地魔法の四つと、魔法贄物の原料となる異界資源を精霊界から召還したりする異次元的な魔法――錬金魔法のことじゃな」

 さすがは我らが皇女様。誰にでも分かる質問にもまじめに対応してくださる。

 そんなルミナ皇女にアンナは授業もそっちのけでひたすら感動を覚えてしまった。

「はい。そのとおりです。そして、それらの魔法を駆使することで大ルミナス帝国は大陸制覇を成し遂げました。つまり魔法は、そのような戦争によって発展してきたといっても過言ではありません。精霊教会が秘儀として用いる錬金魔法は別にして、ほかの四大魔法は普段の生活よりも戦場で活躍することが多いですね。

 そのようなことから現在において魔法は、もはや戦力そのものだと言えるでしょう。

 では、お訊きします。なぜ四大魔法は日常の生活から離れ、主に戦力として発展していったのでしょうか? ええっと、それではアンナさん。答えてください」

 げげっ、今度は私ですか? しかも質問の難度が少しあがってません? 

 ううっ、初歩的な授業だと思って少し油断していたかもしれない。

 アンナは少しばかり冷や汗をかきながら席から立ちあがる。

 そして、一気に眠気の吹っ飛んだ頭をとにかく大急ぎで稼働させた。

「――ええっと、そもそも、ほとんどの魔法が強力すぎるのと効果を及ぼせる範囲が限定的かつ持続性がないのが原因だからだと思います。とくに炎焼魔法は攻撃的な魔法が多く、普段の生活で役に立つことはまず皆無と言えるでしょう。

 それに魔法によって精霊獣などを召還しても、役目を終えるとすぐに精霊界へ帰ってしまいますので力仕事をさせるにしてもさほど役には立ちません。普段の生活に活かすには効率が悪すぎるのです」

「はい、ありがとう。さすがは幼年学校の主席卒業者ですね。じゃぁ、ほかに、これについて、さらに詳しく答えられる人はいませんか? 

 ……ん、どうかしましたか、シルフィス君? どうして窓の外が気になるのかしら?」

 そんな声に押され、教室内の視線が窓際に集中する。

 その隙にアンナは着席。と同時に窓際の少年はこう答えた。

「もうすぐ雨が降ると思いますので、窓を閉めたほうがいいですよ」

 う~ん。我知らずとアンナは眉間に皺を刻み込んでしまった。

 ……まったく、つかみどころのない奴である。

 こんなに晴れているのに雨なんて降るわけがないだろ。

 入学式の日に見せた、あの尋常ならざる身のこなしは気のせいだったのかしら? 

 あれから二週間ほどが経過したが、普段見せる彼の姿はいかにも凡庸としていて危険な精霊生物を退治してのけた少年と同一人物だとは、とても思えなかった。

 少し長めの銀色の髪に、ぽやーっとした中性的な顔。べつに好みではないが、それなりに見栄えのする容貌をしている。だからだろうか、女子生徒のなかには『なんだか遠くを見ている感じがして、あの透明感がいいのよね』などと噂している連中もいるらしいが、あの日のことを忘れたわけではないアンナには、そんな連中の気がまったく知れなかった。

 なにしろ、一ヶ月も身体を洗わなくて平気でいられる不潔な奴なのよ。

 それに、皇女様が口にした『魔人』という言葉も気になって仕方がなかった。

 その言葉には、なにやら不吉なものしか感じられない。

「シルフィス君、授業中に、お天気の観察とは余裕ですね……」

 ほら、ジェシカ先生も、どう対応していいのか分かりかねている。

「なら、ついでにシルフィス君の思う解答を訊かせてもらえないかしら?」

「分かりました……」そして少年が席を立つ。

「先生が求めておられる解答は、魔力と労働力との経済的な対比ではないでしょうか?」

 その瞬間、ふわりと風が吹き抜けたような気がしたアンナは思わず目を細めてしまった。

 シルフィスが何を言おうとしているのかが、すぐに分かったからである。教室内が少しざわめいた。無理もない、高等部の一年生で、そこまで学んでいる生徒はきわめて少ないだろう。ほとんどの者がなにを言いだすのかと、やや困惑した顔をしている。

 その大半が失笑まじりの視線だったが、よく見ると、やはりジェシカ先生の目は笑っていなかった。さらにアンナの隣の席で今もカリカリと鉛筆を走らせている皇女様の目も笑っていない。いや、むしろ真剣そのものだ。――っていうか、皇女様はいったい、さっきから何をそんなに懸命になってノートに書き込んでいるのやら。

 少し気になったので、ちょっと覗いてみた。

 なになに、『友達獲得大作戦』……?? 

 そんな文字が少しだけかいま見えた。

 まったくもって、なんのこっちゃである。

 アンナは少し混乱した頭を整理しつつ、再びシルフィスへと視線を向け直した。

「つまり魔力と労働力……そのどちらが経済的かという問題です。たとえば夏に氷を売る店は、冬の間に泉から切り出した天然の氷を氷室に入れて保存します。そして夏になってから、それを販売するわけですが、この作業を単純に魔法だけで行うとすると……まぁ、これはあくまで、ごく平均的な魔力適合値をもって試算した場合ですが……おそらく金貨二十枚分にも相当する魔法贄物を用いて泉の水を氷結させなければなりません……」

 ふむふむ……。少し感心した面持ちで頷いてしまう。

 じつに、そのとおりである。

 魔法贄物の原料になる霊界資源は精霊教会の祠祭士たちが行う錬金魔法の秘術によって精霊界からもたらされる。霊界資源を召還できる魔法は錬金魔法だけなのである。それだけに、いまだに謎が多く、魔力と魔法贄物との関係についても長年の研究が行われているが、まだはっきりとした法則性は見いだせていない。解っていることはただ一つ。強い魔力を引き出すには、より高価な魔法贄物が、より大量に必要になるという事だけだ。

 そして、そこに引き起こされる魔法の質は、個々人の魔法に対する適応力に深く関与している。つまり魔法への順応力が高ければ高いほど選ぶ魔法贄物の質を下げる事ができるというわけだ。ちなみに大気魔法や水液魔法には貨幣型の魔法贄物がやや効果的で、炎焼魔法や大地魔法には宝石型の魔法贄物が多少は有効であることが判明しており、当然ながら、そのくらいの初歩的な知識はアンナも理解している。

「ですから、たかが泉の水を凍らせるにしても、それなりの魔法贄物が必要になるわけです。しかも魔法贄物は主に精霊教会にて原料が召還され、そして鋳造加工されるわけですが、その価格は人界資源の約二倍もの高値で取引されます。なので商売に魔法を用いるとするなら、それなりの赤字を覚悟せねばなりません。……さらに、ほかにも分かりやすい例があります。……たとえば冬場に使う暖炉。そう、寒い日に暖炉の火を焚くのに、いちいち宝石型の魔法贄物を用いて火を熾す人はいません。それより種火から火を熾すほうが手間もかからず安あがりだからです。ようするに普段の生活においては労働力を行使したほうがなにかと経済的だということです。ですが戦場という特殊な環境になると、この関係性は一転します。おそらく数名の高位魔術士が喚起する火焔砲弾の威力は、何百人もの砲兵隊が放つ砲弾の威力とほぼ互角か、それ以上でしょう。それに何百という騎兵の突撃は、いとも簡単に大地魔法によって無効化されてしまうはずです。その突破力もまた氷塊槍撃の破壊力には及びません。

 この理論を魔力と労働力における経済的対比と言いまして、確か、その著者は……」

「はい、そこまでで結構ですよ。これ以上にない明確な解答をありがとう」

 へぇぇ。なかなかやるわね。アンナは素直に感心した。

 もちろん、その理論に関する学術書はアンナも読んだことがある。

 図書館によく出入りしているアンナにとっては今さらの知識でもあった。

 だが、ほかの生徒たちにとっては、そんな机上の理論は興味のはるか範囲外にあるはずだ。そんな実戦にまったく役に立たない知識なんて覚える気にもならないだろう。

 しばらく教室内がしーんと静まりかえった。

 寸刻おくれてルミナ皇女の拍手が鳴り響く。

「うむ、なるほどな。……我が友、シルフィスは剣の腕も確かだが、類い希なる知性にも恵まれているようじゃ。さすがは余の友達第一号である。今回、新たに増員する余の身辺警護役に彼を加えることは、もはや当然の帰結であろう」

 やがて、さっきまでの晴天が嘘のように曇りだし、その雲の隙間から稲妻が走った。

 慌てて窓を閉めだす生徒たち。その間隙を待たずにどしゃぶりの雨が降りだした。

 そんな騒然となる教室のなかで、アンナはなにやら不吉な予感を感じていた。

   

 穏やかな木漏れ日に青々とした葉が生き生きと輝いていた。足下の土は活力に満ちあふれ、それを喜んでいるのか、梢の小鳥たちも美しい歌声を奏でている。

 清らかな水をたたえる小川はさらさらと流れ、その水面に輝く太陽の光が目に眩しい。

 だが、今はそんなことに気を取られている場合ではなかった。

 すぐ真横から飛んできた灼熱の弾丸を身をひねって余裕で躱し、その魔法を放った男子生徒へとシルフィスは瞬時につめ寄った。一瞬で間合をつめられた生徒は慌てて木剣をかまえるが、次の攻撃に移る暇を与えず、シルフィスは軽く当て身を喰らわせた。

 当て身を喰らった生徒はそのまま地面に倒れ伏し、そこでしばらく死体と化す。

「よし、まずは一人目だ……」

 そして考える。そもそも、どうしてこんな事になってしまっているのか? 

 いや、いくら考えても、さっぱり分からない。とにかく皇女様には、ものすごく裏切られた気分である。小鳥のさえずり? 小川のせせらぎ? 目にも鮮やかな新緑の森?

 ふん、そんなもの、なんの癒しにもなりはしない。もはや糞っ食らえである。

 そんな怒りと疑問を心の中で何度もくり返しながらシルフィスは演習場の大半を埋めつくす人工の森を、とても憂鬱な気分で再び疾走し始めるのだった。

 さても、この春から在籍することになった士官学校は、シルフィスが想像していたよりも、その規模がずっと大きかった。士官学校は幼年学校から士官大学までが同じ敷地内にあり、それらの校舎と同じ数だけの研究棟があちこちに建ち並んでいる。

 実戦の訓練をする演習場も第一から第七まであり、そのほかにも巨大な図書館や学生食堂や喫茶店なんかも建ち並んでいる。おまけに、その周囲には、他にもたくさんの商店が軒を連ね、それはまるで一つの大きな町のようだった。

 だが、この演習場の、規模の巨大さに比べたら、そんなものはまるで問題にならない。

 第一演習場。その広さは士官学校の敷地面積の半分以上を占めており、そこには人工の森や川や崖、岩場や沼地に砂地などといった、あらゆる自然的な要害が再現されている。 しかも、演習場に隣接する学生食堂や観覧席からは、その演習の模様を観戦することだってできるのだ。いまや観覧席には大勢の生徒や教師がつめかけ、この模擬戦の勝敗を見逃すまいと興味しんしんの眼差を向けていることだろう。

 そんな演習場の中をシルフィスは全力で疾駆しながら思わずは大声を張りあげた。

「まったく、なにが『友達獲得大作戦』だよ。なにが『魔術書の探索』だよ。どう考えても、これじゃ、まるきり逆効果じゃないか。もう皇女様なんて絶対に信用するもんか!」


 そう、それは昨晩のことだった。夕食後に校長室に呼び出されたシルフィスは、ルミナ皇女殿下からある計画の実施を打ちあけられたのである。

 そこには、もちろん校長先生もいたし、他にも担任の教師や軍の関係者らしき人物もいたので、とても断り切れるような雰囲気ではなかったのだが……いや、もとより皇女様からの依頼とあっては覚悟を決めるしかなかったのだが、しかし、どう考えても、その計画には『労力の無駄づかい』という一文しか頭に思い浮かばなかった。

「さて、余はこの学校のどこかに隠されている魔術書というものを探しているのだが」

 校長室に通されたシルフィスは、まず開口一番に皇女様からそう告げられたのである。

「はぁぁ魔術書、なんですかそれは?」

「そう、それは魔力を宿した特殊な魔法道具といったほうが分かりやすいかもしれないな。ともかく、その魔術書とやらを手に入れれば誰でも簡単に魔法を喚起することができるらしい。しかも魔法贄物も呪文も必要としないそうだ。つまり精霊をその身に宿し、魔法そのものとなったおぬしと同等の力を持てるかもしれないというわけだ」

 にわかには信じられない話だった。

「でも、そんな物があるなら、どうして、それが有名になっていないのですか?」

 シルフィスは残りの不安を無言に押しとどめ、憮然とした顔で首をかしげた。

「それは当然の疑問だな。とはいえ、その存在が明らかになったのも、つい最近のことでな。そう、今から五年ほど前のことらしいが、とある一人の研究者が、この学校内で呪文学の研究をしていたそうだ。その者が開発した呪文は数知れず、今でも戦場でかなり役に立っているという。その研究者の名はアイギス・カルバーン……」

「なっ、カルバーン博士というと確か魔力と労働力の経済的対比論の著者。生涯、独身をつらぬき、その身を研究に捧げ、数々の呪文を開発した有名な魔法学博士じゃないですか」

「そう。かつては我が国が誇る頭脳の一人であった。……が、なぜか現在は行方不明中である。……いや、もうすでに死亡した事になっているのであったかな?

 ともかく、その博士の手記が、先日、この学校の図書館から発見された。そして、それによると博士は、なんらかの実験に成功し、その魔術書とやらを完成させ、しかも、それを、この学校内のどこかに隠したというのだ。そのようなことが手記には記されていた」

「へぇぇ……。宝の地図が見つかったのと同じくらい胡散臭い話ですね」

「ふむ。どうにも信じがたい話ではある。それは否めない。だが、かの有名なカルバーン博士が冗談を言うとは思えぬし、ましてや幼稚な悪戯をするとも思えない」

「ですが百歩ゆずって、本当にそんな物があるとしても、かなりの確率で危険な禁術の類だと思いますよ。それに、だいたい、どうして博士はそれを公表せず、どこかに隠しちゃったんです? それを考えると、なんか嫌な予感しかしませんけど……」

「おや、シルフィス殿は話を聴いただけで、すでに怖じ気づいているのですか?」

「はぁぁぁ?」

 先に校長室の中にいた見知らぬ男がシルフィスの疑問を遮った。

「まぁ、そう急いで、その先にある可能性を切り捨ててしまうものではありません。若者なら、もう少し冒険心というものを持ってもいいのではありませんか。

 ともかく、そのような魔術書なるものが、もし開発できるとするならば我が国の軍事力は飛躍的に増大することまちがいありません。念願の大陸再制覇も叶うかもしれませんね。

 それに西ルミナス帝国側では、すでに魔術書の開発がかなりの水準まで進んでいるという情報も耳にしております。我が国は、急遽、それに対抗する手段を講じなければなりません。ですから軍務省も、このたびの件についてはかなりの関心を寄せているのです」

 ルミナ皇女の隣にいたのは、いかにも陰鬱そうな顔をした男だった。長身痩躯に青白い顔。黒に近い濃緑色の髪がまるで濡れた海藻みたいで気味が悪い。

 室内にあるソファーに腰かけ、紅茶の入った白い磁器の器を無愛想に口に運んでいる。

 ルミナ皇女にも劣らぬ立派な士官用の軍服を身につけているが、まったくといっていいほど似合っていない。その男が続けて口を開いた。 

「自己紹介がまだでしたね。私は軍務省の情報部に在籍しているテルミナ・アルカトラと申します。はてさて北の国境の町から帝都へとやってきた『魔人』殿をひとめ見たいと思いまして、ハルゼー校長にお願いし、同席させてもらったのです」

 その校長は一人だけ大きな執務机の椅子に座り、気むずかしそうな顔をしていた。

 名はウルバス・ハルゼー。

 灰色の髪に白い口髭。その年齢に相応しい威厳に満ちた皺深い顔。軍服の襟元にある徽章は中将の位。もう老人と言ってもいい年齢の割にはがっしりとした体格をしている。

 アルカトラとは対照的に、こちらはいかにも武人といった雰囲気である。

 そのハルゼー校長がシルフィスに頭を下げた。

「このような事に巻きこんでしまい、じつに申し訳ないと思っている。しかし魔術書の探索などというくだらない……いや、危険な任務に皇女様だけを関わらせるわけにはいかんのでな。しかも暗殺者がどこかに潜んでいるかもしれないというこの時期にだ。そんなわけで、そなたの力を借りたいと思っている。辺境の三強騎士を相手に実戦なみの訓練をしてきたという噂は私も耳にしておる。だからこそ君を頼りにしたいと思っているのだが……」

 そして、その発言を受けるように、やや不機嫌な顔でルミナ皇女が立ちあがった。

「うむ、そのことは余も陳謝する。……だが、くだらなくはない。よく考えてもみたまえ。もし魔術書の開発が進めば、それはなにも軍事的なことで終わる話ではないのだぞ。

 さても、今日の午後の授業は確か魔法における歴史的な背景とその変遷だったな。それもまた魔法の一側面ではあろうが、余はもっと魔法の未来と可能性を信じている。

 そう、大地魔法や水液魔法をもっと大規模な形で喚起できれば治水や灌漑事業にも役立てられるし、大気魔法を駆使すれば天気予報をもっと正確にすることも可能であろう。

 とはいえ魔法が使える者の数は圧倒的に少ないのが現実だ。我が東ルミナス帝国の人口は約八千万弱。それに対し、この国の魔力適合者の数は一万人にも満たない。これでは、そのほとんどを国防に回すよりほかにあるまい。だが魔術書が開発され、誰もが簡単に魔法を扱えるようになれば、もっと他にも多くの事に魔法を活用することができるだろう」

「いや、でも、しかしですね。……ちょっと待ってください。いくらなんでも無茶ですわ。高等部に入学したばかりの一年生に、そんな危険かもしれない任務を任せるなんて……」

 これまで部屋の隅に控えていたジェシカ教諭が慌てて会話に割って入った。

 春らしい青いブラウスが、ほっそりとした体型に似合っている。とりたてて美人というわけではないが、綺麗に切りそろえた茶色の髪が彼女の清楚な雰囲気をよりいっそう輝かせていた。その顔が今は困惑の色に満ちている。

「それに、そのことでシルフィス君が苦況に立たされているわけですし、担任の教師としては、やはり許可するわけにも……」

「うむ…、まぁ、そう言うだろうと思っていた。だがな、魔術騎士科の二年生と三年生には校内の警備強化を担当してもらっている。そのため、ほかにこの任務に充てられる人的な余裕がないのじゃ。まぁ、あのようなことがあったから仕方がないのだが……」

 皇女様が言っているのは、あの一騒動のことだろう。

 誰が狙われたのかは、いまだに不明とされているが、禁術指定の精霊生物が召還された事件については、やはり見過ごすわけにはいかなかったようだ。

 おかげで士官学校はもっか第一級の警備態勢にあり、それには魔法が使えない一般の兵士や一般の士官はもちろんのこと、魔術騎士科の二年生や三年生まで動員させられている。

「……しかも、それは勉学と訓練の合間を縫ってのことだ。そのうえで、さらに魔術書の探索や余の身辺警護にまで付き合わせては、さすがに忍びない。……かといって、他の『星』組や『空』組の者たちまで総動員するほどのことでもない。

 よって、余が所属している一年『月』組を、この探索にあたらせたいと思っているのだが、それには、やはり皆の実力を確認しておく必要があるだろう」

「ですが、シルフィス君一人で、ほかの級友たちを全員相手にするなんて……」

 今にも消え入りそうな声だったが、そう思ってくれただけでも、シルフィスにはわずかばかりか心の救いであった。だが、もう決まった事はどうしようもない。そもそもルミナ皇女がシルフィスを身辺警護役に選んだことが、つまりはその発端なのである。

 おかげで、シルフィスが所属する一年『月』組の中から不満の声が爆発した。

 なにしろ名誉ある皇女様の警護役である。

 それを決定するなら、ほかの者の技量も公平に見てもらいたいという、そんな申し出が怒濤のごとく噴出し、もはや収拾がつかなくなってしまったのだ。

 だというのにである。ただでさえ、いきり立っている級友たちを前にして皇女様はまるで平然とした口調で次のような言葉を発したのだ。

『――ならば、そのほうらが一丸となって、『魔人』の力を持つシルフィスに挑んでみよ。それによって、そなたたちの技量を計ろうではないか。そのほうが手っとりばやいからな』

 はたして級友たちの妬心と対抗心がシルフィスに集中したのは言うまでもない。

 まだ、この学校に入学して二週間ほどしか経っていないというのに、シルフィスは級友仲間のほぼ全員を敵にまわし、しかも完全に孤立してしまったのである。

 

 ズズーン、ドドーンと魔法と魔法のぶつかる音がどこからともなく聞こえていた。

 そんななか、アンナは手にする贄物投擲器の数と、そこに装着する魔法贄物の種類をとりあえず確かめていた。アンナが得意とする魔法は炎焼魔法と大地魔法である。

 なので基本的には、宝石型の魔法贄物を数種類用意しておかなければならない。

 贄物投擲器はともかく、用いる魔法贄物の種類は戦いの勝敗にも大きく関わるため、ほんらいなら入念な確認作業が必要なのである。

 今、手元にあるのは宝石型が十個ほどである。といっても魔法の喚起に使えるのは、その中から八つほどが限界だろう。おそらく、それ以上は集中力も精神力も体力ももたない。

 もともとアンナの魔法持続力はそんなものなのだ。

 そう、いかに魔法騎士といえども無尽蔵に魔法を喚起できるわけではないのである。

 そんなことができる騎士は大陸広しといえども数える程度しか存在しない。

 だが、今から相手にするのは、そういう類いの、きわめて希なる強者かもしれなかった。

 いや、まちがいなくそうなのだろう。

『魔人』についての情報は、一応、皇女様の口から簡単な説明がなされている。かの少年がどうして、そのような古の秘術に関わることになったのかも、それとなく聞かされた。

 数名の生け贄と魔法贄物を用いての大規模な錬金魔法。

 そのせいで少年の身体には高位の精霊が宿っているのだとか――。

 はたして、その実力が、どれほどのものかは分からない。

 しかし、分からなくとも、聞くところによると、かの少年は、あの辺境の三強騎士を相手に実戦なみの訓練を積み重ねてきたという。

 それだけを聞いても、やはり驚愕に値した。

 なにしろ辺境の三強騎士といえば誰もが知っている有名な魔法騎士だ。その得意とする魔法を自在に操り、その威力も桁ちがい。一人一人の実力は通常兵力の千人分に相当する。

 そう、まちがいなく一騎当千なのである。

 そんなのを相手に訓練を積んできた者が自分たちと同じ程度の実力であるはずがない。

 ……だとすればだ。

 そう、今こそ、あの力を思い存分に使ってみてもいいのではないか? 

 一瞬、アンナはそんな誘惑にかられそうになった。

 なにしろ、その力を使えば、相手が『魔人』であろうとも、もしかすると対等にわたりあえるかもしれないのだ。

 体力や気力を気にせずに、いくらでも魔法を喚起できるという点においては、話に聞く『魔人』となんら変わりはないのだから。

 でも、さすがにそれは思いとどまった。

 そんなことをすれば、まちがいなく周囲からの不審を買うことになるだろう。

 お世辞にも、アンナの魔法実技の評価点はそれほど高くない。

 実技試験よりも筆記試験のほうが得意なのである。

 そんなアンナが、いきなりシルフィスと互角に戦ったりなんかすれば、それはあまりにも不自然なことだろう。さすがに秘密がバレてしまうかもしれない。

 ここはやはり、そこそこに力を抑え、普段どおり無難にやり過ごすのが賢明である。

 そう、あの力は誰にも知られてはいけない私と博士だけの秘密なのだ。

 アンナは、はやる心に蓋を閉め、模擬戦用の木剣の重さを確かめつつ溜息を吐いた。

 さても勝敗の定かを決める方法は単純だ。その木剣を用いて相手を打ちすえるか、もしくは、その身体に手を触れるかすれば勝ちである。

 とはいえ相手はたったの一人である。模擬戦の規則がどうであれ、その一人に『月』組のほぼ全員で挑み、負けたとあっては、もはや学校じゅうの笑い者になってしまうだろう。

 なんとしても勝利するには何人かで小隊を作り、それぞれが得意とする魔法をもって迎え撃つのが得策である。――とはいえ、

 やはり、そんな気分にはなれなかった。

 もちろんアンナにも、そのくらいの小細工は許される許容範囲内である事は分かっている。分かっているが、あいにくと自分から他の級友たちに声をかける気にはなれなかった。

 なぜなら一人を相手に複数人で攻撃を仕掛けるのは、どうも卑怯な気がしてならなかったからである。

 と、そんなアンナの耳に舌打ちまじりの呟きが聞こえてきた。

 すぐ近くにいたマーク・シルベスタだ。

 褐色の肌に快活そうな金色の瞳。まるで若い豹のような印象を受ける。髪の色は黒と茶色の斑模様。その特殊性は彼が強い魔力適合者であることを示している。

「……ちっ、もうそこまで来てやがるぜ。ほとんどの連中が、もうすでに倒されちまったみてぇだな。……ったく、あいつの手強さは入学式の日に見たはずだろ。単独でぶつかって簡単に勝てるような相手じゃねぇよ。この期におよんで騎士道精神とか言ってる場合じゃねーんだぞ。おい、アンナ! それからジャネット。今から作戦を立てるぞ!」

 マークがすぐ近くにいたもう一人にも声をかけた。

 同じく魔法騎士科の一年『月』組に所属しているジャネット・カパーネイトだ。

 彼女は水液魔法と大地魔法を得意としている。

 一方、マークは四大魔法のすべてをそれなりに使いこなし、剣の腕もその同じ年頃の少年たちの中ではかなりの実力者だ。その三人そろって幼年学校からの腐れ縁なので、お互いの力量はそれなりに把握している。

 そのせいか、なんとはなしに演習場の一番奥深いところにある池の畔に三人そろって陣取っていたのだが。

「さて、ここはすぐそばに池がある。だから水液魔法はかなり水準の高いものが使えるはずだぜ。というわけでよ。ここはまず俺とジャネットで先制攻撃を仕掛けるぞ」

 マークに釣られてジャネットを見やる。

 珍しい紫色の髪にすみれ色の瞳。

 いつ見ても綺麗だなぁと思ってしまう。蜜柑みたいな色の髪をしているおかげで幼年学校ではニンジン娘などという失礼な渾名をつけられた自分とはえらいちがいである。

 顔立ちもほっそりとしていて黙って口を閉じていれば、それこそ深窓のお嬢様だ。

 だが、その見た目に騙されてはいけない。その性格はかなり好戦的で魔法の扱い方もかなり荒々しい。魔術戦になれば、おそらくこの中では彼女が一番強いだろう。

「なるほど。シルフィスってのは大気魔法が得意っぽいし。最初に水液魔法を仕掛けるのは有効かもな。まずは、あのすばしっこそうな動きを封じるってぇ寸法だな」

 ……あのねぇ、ジャネット。その言葉づかいはなんとかならないの? 

 かりにもカパーネイト伯爵家のお嬢様でしょ。

 なんて小言は今までに何度も口にし、そのたびに無視されてきたので、もはや諦めているのだが……ともあれジャネットが言うように魔法にはそれぞれ対処しやすい相性というものがある。そう、基本的には炎焼魔法には大地魔法か水液魔法を。大地魔法には大気魔法を。大気魔法には水液魔法か炎焼魔法をぶつけると相手の魔法を相殺、もしくは粉砕しやすいという法則がある。とくに大気魔法には炎焼魔法を強化してしまうという特性があるので、炎焼魔法をもって対抗手段とするのが有利とされている。

 ただし、それはあくまで力量が同じくらいだった場合の話である。

 相手の力がこちらを凌駕していれば、そんな法則にはなんの意味もない。

「……でも、あのシルフィスは『魔人』としての力を持ってんのよ。魔法贄物も呪文も必要とせず、魔力も底なしに使えるって云うじゃない。そんな作戦ともいえない作戦が通じるかしら? それに池の近くという環境特性は水液魔法には有利に働いても炎焼魔法には不利になるのよ……」

「えーい、小難しいことをいちいち考えてる場合か!」

「作戦を立てるぞって言ったのはそっちでしょう!」

「だからってどうすんだよ? 『魔人』なんかと戦うなんて初めてだし、あいつの実力をこの目で見たのも、ほんの一瞬だったから本当は何も分かっちゃいねぇんだ。だったら、ここは、とりあえず常套手段で行くしかねーだろ。まずは奴の動きを止めるのが先決だ。だから、まずは水液魔法で出鼻をくじく。そして俺とアンナの火炎攻撃で黒焦げにして、ジャネットお得意の氷槍乱舞で完全に動きを封じる。そして最後のとどめに、おまえの召還術で岩石巨兵を呼びだし、完膚なきまでにボッコボコにする!」

「あんた、かなり根に持ってんのね……」

「あったりめぇだろ。『魔人』だか、なんだか知らねーけど。秘術で手に入れた力なんて、んなの反則じゃねぇか。そんな卑怯な奴に負けてたまるか。ましてや、そんな奴が皇女様の警護をするなんて俺は絶対に許せねぇ!」

 だが、そんなマークの憤りにアンナは同調するよりも、少なからずの罪悪感を覚えてしまうのだった。……自分がひた隠しにしている行いのほうが、『魔人』であるシルフィスなんかより、よほど卑怯なのではないかと思ってしまったからである。

「……だけど、そこまで激しい攻撃をしてもいいのかしら? この演習では魔法に対しての魔法攻撃は許可されているけど、魔法による人体への直接攻撃はなるべく避けるようにとの、お達しがなされているのよ。へたしたら大怪我どころじゃすまないんだから」

「――んなこと知るかよ。あいつは肉体そのものが魔法と化した『魔人』なんだろ。だったら、直接、魔法で攻撃してもいいんじゃねぇの?」

「え、そうなのかしら? いや、でも、だめよ。見た目は普通に人間なんだから……」

 と、そうこうしているうちに、すぐ近くの森の茂みから火柱があがった。

 派手な音とともに数名の生徒たちが魔法効果の余波で吹っ飛ばされるようにして逃げだしてくる。

「えーい、くそ、もう時間がない。迎撃態勢に移るぞ。贄物投擲器を用意しろ!」

 そんなの掛け声とともにマークとジャネットが呪文を唱え、魔法陣を展開させる。

「さぁ開け異界の扉。深き深淵より来たる水獣の咆哮。打ち払え、水衝弾!」

 そんな二人の足下には、もうすでにシルフィスの贄物投擲器が突き刺さっていた。

「さぁ開け異界の扉。荒ぶる破壊の王者たる飛竜の翼。すべてを蹂躙しろ、竜翼撃!」

 呪文の詠唱はほぼ同時だった。マークとジャネットが喚起した魔法は渦まく水が球形をなした魔法の弾丸だ。その威力はかなりのものである。

 対してシルフィスが喚起したのは、なんのことはない刃のように鋭く平たい空気の渦だ。

 しかし、放たれた水流の弾丸はシルフィスが喚起したその暴風の刃によって、あっけなく霧散してしまう。

 ただし作戦どうり、相手の動きがそれで止まったかのように見えた。

 その隙を逃さずアンナは目で合図を送り、マークとともに贄物投擲器を地面に向けて投げ放つ。

「さぁ開け異界の扉。深き地の底に眠る火竜の咆哮。弾け飛べ、炎衝弾!」

 ところが、それは親指ほどの大きさにも満たない小さな火の玉が数個ほどだった。

 もとより火炎砲弾より威力の劣る炎衝弾だが、これではあまりにも情けない。

 池のすぐそばという環境特性が仇となってしまったのだろう。やはりシルフィスの周囲を飛びかう荒々しい突風の刃によって難なく吹き消されてしまった。

 ――いや、それにしてもだ。

 アンナは、そんな一連の動きの中で驚きに目を瞠った。

 なんて魔法の持続力なのだろう。ここへ来るまでに何人もの生徒を返り討ちにしているはずなのに微塵も疲労の様子が窺えない。おまけに普通に魔法贄物を用いて魔法を喚起しているところを見ると、まだ『魔人』としての力さえ発揮していないのだ。

 シルフィスは悠然とかまえ、次の魔法贄物の用意さえしていない。

 そこへジャネットが贄物投擲器を投げつけながら突進していく。

「さぁ開け異界の扉。煉獄に巣くう闇の騎士。その凍てつく槍を放て、氷槍乱舞!」

 突きだす木剣と同時に出現したのは槍のように先の尖った巨大な氷柱だった。

 その氷の刃が分裂してシルフィスに襲いかかる。

 だが、これは反則ギリギリの攻撃だった。

 シルフィスが先ほど喚起した攻撃魔法――竜翼撃はすでに消滅している。

 ジャネットの攻撃は、その間隙を縫うように、その生身へと殺到したのだ。

 なのにシルフィスは止まらない。なんの迷いもなく、そのまま突っこんでいく。そして傷を負い、血を流すことも躊躇うことなく直進し、なんと氷槍乱舞の攻撃を、その模擬戦用の木剣だけで粉砕してのけたのだ。

「うわわわっ!」

 ジャネットの叫びがこだまする。

 傷だらけのシルフィスが、その眼前へと迫ってきたからだ。

 ジャネットは完全に狼狽しており、なんの抵抗もなく、ただの足払いを掛けられただけで、その場に尻餅をついてしまった。

 無数の傷を負いながらも相手に手加減をしているのは一目瞭然だ。

 そんな余裕を見せるシルフィスの傲慢さがアンナにはどうにも腹立たしかった。

「くっ、小癪な……」

 えーい、反則でもかまうものか。相手はかなりの手練れなのだ。そんなことを気にしている場合じゃない。

 アンナは心の中でそんな言い訳じみた理由を闘争心に変え、形だけの呪文を唱えた。

「さぁ開け異界の扉。堅固なる大地の守護者よ。ここに来たりて我が意に応えよ。敵を迎え討て、召還、岩石巨兵!」

 と、同時にシルフィスも、その手にする木剣の刃筋に銅貨を滑らせている。

「さぁ開け異界の扉。我が剣を守護せし風精霊の力。切り裂け、風剣斬!」

 かくしてアンナは再び瞠目した。魔法を喚起する速度が尋常ではない。そればかりか召還したばかりの岩石巨兵が、その攻撃によって瞬く間に真っ二つに切り裂かれてしまったのだ。破壊された岩石巨兵は粉々に砕け散り、さっさと精霊界へと帰ってしまう。

 呆気にとられたアンナはただ呆然とするしかなかった。

 強い。強すぎる。これは『魔人』がどうのこうのという問題ではない。明らかにシルフィスのほうが実戦慣れしているのだ。いや、それは分かっていたことだが、その強さは、はるかに想像を超えていた。もはや、そこには技量の差が格段に存在するのだ。

 しかも、これでもかなり手加減されていることが分かるだけに、その場で本当に地団駄を踏みたくなるほど悔しかった。

 だが、負けは負けである。

 まもなく首筋に木剣の切っ先をつきつけられ、あえなく降参を認めてしまう。

 そこへ最後の一人となったマークが剣をふりあげて躍り出た。

「まだ、まだぁぁ!」

 剣を正眼にかまえてシルフィスと対峙する。

 シルフィスも剣を上段にかまえてマークと相対した。

 じりじりと間合いがつまっていき、やがて剣と剣の打ち合いが始まった。

 それは空気がうなっているのかと錯覚してしまうほどの激しい応酬だった。

 アンナは息をするのも忘れて、そんな二人の戦いに釘付けになる。

「ふん、剣の腕もなかなかだな。かなり修行を積んでるみてーじゃん。おまえみたいな奴を相手にしたのは初めてだぜ」

「奇遇だね。ぼくも同じことを思ってたよ。今まで戦った同じ年頃のなかでは君が最強だろうね。北の国境兵団の中には何人か兵卒見習いがいたけど、その子たちよりは君のほうが随分ましだと思うよ」

「ほざけ! ちょいと怪我をしているようだから手加減をしてやっただけのことだ。ここからは本気でいくぞ。さぁ覚悟しろ!」

「ならば、ぼくも本気でいかせてもらう!」

 そして再び剣と剣がぶつかり合う。

 その切っ先が、互いの身体のギリギリをかすめていく。

 時には離れ、時には近づき、剣と剣が乱舞する。

 もはや途中からは目で追うのも難しくなるほどの激しいせめぎ合いが続いた。

 いつのまにかジェシカ先生や級友の皆もそこへ集まり、大きな輪が完成されていた。

 誰もが固唾をのんで、そんな二人の戦いを見守っている。

 そこへ、ようやくピ――ッという終了を合図する笛の音が鳴り、

「双方、剣をおさめよ!」とルミナ皇女の声が割って入った。

 二人の剣尖が、それぞれの首筋に固定されたかのようにピタリと止まる。

 ――勝負は互角。

 いや、怪我をしていたぶんシルフィスのほうが分が悪かったにちがいない。

 とにかく、そんなことを頭の端に追いやりながらアンナはその隙に級友たちの輪から抜けだし、急いで自分の贄物投擲器を回収してまわった。

 その贄物投擲器には魔法贄物が装着されたままになっていた。

 ほっと息をつき、再び仲間のほうへ目を移す。

 その中央にシルフィスとマークの二人がへたりこんでいた。

 二人とも汗だくで、ぜいぜいと肩で息をきらしている。そして、どちらが先にというわけでもなく互いの肩を叩きながら笑顔を向けあっていた。

「おまえ、めちゃくちゃ強いな!」

「……君こそね」

「でも、おまえ、怪我してんのに、そのくせ、まじで強いんだから敵わねぇよな」

 やがてマークのほうが先に立ち上がり、おずおずと手をさし出した。

 その手を握りかえしながらシルフィスも立ち上がる。そしてまた互いに笑いあう。

 それに釣られてか、他の皆にもその笑顔が伝播していった。

 もう戦いは終わったのだ。なんのための戦いであったのかも忘れ、アンナをのぞく十一名の級友たちが笑いあっていた。しかし、アンナ一人だけが笑えない。

 誰もが全力で戦ったなか、ただ一人、自分だけがこの場で笑う資格がないと、そんな気持ちに苛まれ、いたたまれない心地になっていたのである。

 見あげる空は雲一つない快晴だった。

 そんな空のもと、しばらく笑い声は続いていた。


「さっきは、すまなかったな!」

 さて、ここは時と場所を移して、一年生校舎の隣にある学生食堂である。

 この三階建ての建物は五千人以上にもなる士官学校生の胃袋を満足させることを目的としているため、かなり広く造られており、用意されている献立もまたかなり豊富である。

 食堂を利用する生徒は、まず入り口にある受付で食券を購入し、その金額分の料理を用意してもらう。建物内には四角い木製のテーブルが数え切れないほど置かれており、生徒はそこに座って食事をする。

 その一角である。

 そこには今夜に限っては、普段の献立表には載っていないはずの豪華な料理がずらりと並び、それらを前にして魔法騎士科一年『月』組の生徒たちが着席していた。

 そのテーブルに置かれた料理に手をつける前にジャネットがシルフィスに頭を下げたのである。

 本日行われた魔術戦の演習で反則ギリギリの攻撃をしたことを謝っているのだろう。

 意外なことに、彼女はけっこう律儀な性格なのである。

「べつにいいよ。傷ついた制服も学校側が無償で交換してくれたしね。でも、あの氷槍乱舞はなかなかのものだったね」

「そうか! あれは、あたいの必殺技だからなっ!」

「それにあの時は、もう魔法贄物が銅貨一枚しか残ってなくて、どうしようもなかったし、それに魔法じゃ、とても間に合わないだろうと思ったから木剣で叩き落とすしかなかったんだけどね。でも、さすがに、あれは効いたなぁ……」

 とは言いつつも、その傷はもうほとんどがすでに消えてなくなっているようだった。その現象は誰の目から見てもじつに不可解であったが、それを口にする者は一人もいなかった。それよりもテーブルに置かれたいつもより豪勢な夕食の献立に目がいって、誰もがソワソワと落ち着きがない。

 こんがり焼かれた鳥の股肉に山盛りのローストビーフ。牛肉たっぷりのシチューに豚肉のソテー。こんもりと盛られた野菜のサラダに様々な魚介類の蒸し物。焼きたてのパンにポタージュ・スープ。その他にも蒸かしたジャガイモや焼いたトウモロコシなどが所狭しと並んでおり、胃袋を刺激するいい匂いが辺りに満ちている。

 その数々の御馳走はルミナ皇女が学校側に申しいれて用意させたものだった。

 つまり、これは本日の特別演習で見事な戦いをみせた一年『月』組の生徒たちに対するちょっとしたご褒美なのである。

「でもよ、それなら、なんで『魔人』とやらの力を使わなかったんだ?」

 シルフィスと剣をまじえたことで、すっかりうち解けた様子のマーク・シルベスタが、さっそくと鳥の股肉に齧りつきながら訊ねてきた。

「そういや、ちゃんと魔法贄物を使って、魔法を喚起していたわよね……」

 アンナも首をかしげる。

「うーん。なんていうか……別に使わなかったわけじゃないんだよね。使わなくても、『魔人』の力は今もずっと、ぼくの中に存在している。だから多少はその影響が自然と出てしまうはずなんだ。だけど普段はその力のほとんどを抑えつけてないといけないんだよ」

 こちらもすでに飲んでいたスープのスプーンを傍らに置き、そして、その左手を皆に見えるように持ち上げてみせる。そこには黒い革製の手袋が填められていた。

「この手袋に施されている魔法陣の刺繍は、ぼくの中にある魔力に作用し、多少はその力を抑制する働きがあるんだけど、もちろん、こんな物では抑えきれないので、ここにラピがいるんだけど……」

 そこでようやく全員の目がシルフィスの右肩に止まる奇妙な生物にそそがれた。

 誰もが、その事を訊ねたくてウズウズしていたのがよく分かるような顔をしていた。

「このラピは、ぼくの中に宿る精霊っていうか、その分身みたいなものなんだ。普段はこうして小さな飛翼青竜みたいな姿をしているけど、大半の力はこのラピの中にある。こうやって精霊の力を分離していないと、人としての姿を維持するのも難しいんだよね」

「へぇぇぇ…………」

 ほぼ全員がシルフィスの言ってることの半分も理解できなかっただろう。

 それはアンナも同じことだった。とはいえ興味本意でさらに深く訊ねるのも気が引ける。

そんな雰囲気である。皇女様が口にした憶測がなければ、咽につかえる魚の小骨のようにしばらくはムズムズとした気分を味わっていたにちがいない。

「ふむ、なるほど。つまりはようするに、普段は『魔人』の力を、あるていど切り離していないと、その魔力に肉体のほうが耐えられなくなる――と、そう理解していいのかな?」

「はい、まぁ、だいたいはそういうことです。とはいえ、ぼくの場合は、この身体に精霊体そのものが宿っているので、『魔人』といっても、かなり特殊な部類になるそうです。

 なにしろ完全に精霊体と融合すると、その姿ががらりと変わってしまいますので、その力を分離していないと日常の生活にも様々な支障をきたしてしまうのです。

 おまけに強力な魔法がずっと喚起されたままの状態になっちゃいますので、やはり肉体的にもそれなりに影響が出ます。もちろん疲れやすくもなるし、他者の魔法に影響を及ぼすこともあります。それに、なぜかラピは人間界に顕現しているほうが好きみたいなので」

「つまり、その奇妙な精霊獣らしき生き物は、その副産物というわけだな?」

 最後に疑問符を付けながらもルミナ皇女が結論づける。

 ところが次の瞬間、その奇妙な生き物から不機嫌な声が発せられた。

「まぁ、なんて失礼な皇女様かしら。私は副産物なんかじゃなくってよ。私が、この坊やのご主人様なのよ。それに精霊獣なんかじゃなくて、私は風精霊そのものよ。それなりの敬意をもって接してくれないかしら。無礼千万なのは、この子だけで充分なんだから!」

「うわぁぁぁぁっ!」

 小さな飛翼青竜みたいな生き物がいきなり喋りだしたので、数名の者が椅子から転げ落ちそうになった。ルミナ皇女も驚きに目を瞠っている。

「こ、これは失礼いたした。精霊殿は人間界の言葉を解されるのか?」

「馬鹿にしないでちょうだい。人間どもと意思疎通するくらいわけないわよ」

「いやはや、これは驚いた。この目で精霊を見る日がこようとは思わなかったな。しかも、その精霊殿と言葉をかわすことになるとは。いささか今日は収穫の多い一日であったぞ。いや、ともかくだ。皆の者、今日はたいへん御苦労であったな。これらの料理は余からの労いの気持ちじゃ。遠慮なく存分に食べて英気を養ってくれたまえ。……といっても、もうすでに、なんの遠慮もなく食べているのが約三名ほどいるがの」

 ルミナ皇女の眉間の皺が、その三名――シルフィス、マーク、ジャネットに向けられたが、彼ら三人はまったく気にする様子もなく、ほかの級友たちを尻目にガツガツと料理をむさぼっている。ともあれ、その言葉とともに、ようやく一年『月』組一同による晩餐会は始まったのである。

 と、そのさなかである。ルミナ皇女の口から思いもよらぬ通達がなされたのだった。

「さて、食事をしながら聞いてくれたまえ。すでに君たちはシルフィスの『魔人』としての力の一端を知ったであろう。そう、この世はまだまだ不思議な事や様々な謎に満ちあふれている。そのことを身をもって知った君たちだからこそ信頼して打ち明けようと思う」

 座っている位置から大仰に言葉を発し、皇女様は一同を見回した。

「余は、今、この学校のいずこかに隠されているであろう魔術書なるものを探している。その探索に皆の力を借りたい。皆の力量を計るような真似をしたのもそのためである」

 ほとんど者がぽかんと口を開け、首をかしげるなかシルフィスはやれやれと溜息をつき、アンナは思わず手に持っていたフォークとナイフを落っことすところだった。

「まぁ、詳しい事はこの週末にでも伝えるが、とりあえず、この学校に設置された余の居室を本陣とし、身辺警護はシルフィス、マーク、ジャネット、それからアンナ。そなたら四人に任せるとしよう。そして他の者には学内の探索に当たってもらおうと思っている。

 といっても、それが隠されているであろう場所はもうほとんど見当がついているのだ。なにしろ、その魔術書なるものを開発したカルバーン博士の手記を余はすでに手に入れているのだからな。だから、なにも心配はいらない」

「でも、どうやって、そんな怪しげな……いえ、博士の手記を手に入れたんですか?」

 マークが訝しげに訊ねた。

「ふむ、その手記は、この学校の図書館から発見された。発見したのは、とある読書好きの衛兵だ。彼はそれを学校側に提出しようとしたが相手にされず、仕方なく情報部を通して余の所まで持ってきてくれたのだ。その手記には、その魔術書がいかなるものであるのかが記されており、その隠し場所の地図も掲載されていた。学校側は質の悪い悪戯ではないかと思っているようだが、余はこの手記に書かれてあることを信じてみたいと思う。なにしろ、そんな物がもし発見されれば、間違いなく世界に革命が起きるであろうからな。

そのため、軍務省もそれなりに興味を示してくれているのだが……」

「へぇぇぇぇぇ……」

 誰もが胡散臭そうに目を細めていたが、あいかわらずルミナ皇女の大きな瞳には好奇心の光が爛々と輝いていた。なので誰もがそれ以上はなにも言えずに黙り込んでしまう。

 ただ、アンナだけが背中に嫌な汗をかいていた。

「ん、どうしたアンナ? ものすごく顔色が悪いぞ。気分でも悪いのか?」

「いえ、そういうわけではないのですが。ただ、その、昼間の疲れが出たのかもしれません。 少し夜風に当たってきてもいいですか?」

「うむ、それはかまわぬが……」

 アンナは気分がすぐれぬと言い残し、切羽つまった顔で食堂を後にした。


 すっかり夜の帷が下りていた。

 窓の外は月明かりもわずかな漆黒の闇。壁に取り付けられているガス灯もすでに消されており、床に敷きつめられた月光石のタイルだけが薄ぼんやりと辺りを照らしていた。

 教室の扉はすべて閉ざされ、薄暗い廊下には誰もいない。

 そんな一年生校舎一階の片隅にアンナは座り込んでいた。

 少し夜風に当たりたかったので廊下の窓を少しだけ開けている。

 その隙間から吹き込んでくる風が少女の髪を微かに揺らしていた。

 やがてアンナは制服の内側の衣嚢から掌よりも少しだけ大きい書物を取り出し、それを開いてみた。開いたページには複雑な魔法陣と異界語で書かれた呪文が記されている。

 それらがぼーっと輝き、アンナの顔を青白く照らしだす。

「どうした小娘、こんなところで吾輩を呼び出すとは?」

 不思議なことに、その声は魔法光の輝きの中から発せられていた。随分と年老いた男性の声である。薄暗い廊下にそれが拡散し、とても不気味だ。

 しかし、そこに向けてアンナは声を張りあげる。

「うわぁぁぁぁぁん、博士ぇぇ、どうしよう?」

「な、なにがあったのだ!」

「皇女様が、この魔術書を探しているのよ。博士の手帳を見つけたみたいなの……」

「な、なんじゃと!」

 さてもアンナが、この不思議な魔術書を手に入れたのはただの偶然である。

 読書好きのアンナは幼年学校の頃からよく学校の図書館に出入りしていた。その日は大好きなロマンス小説の続きが読みたくて、放課後、図書館に行っただけのことである。

 目当ての小説はすぐに見つかった。ピンク色の背表紙に『愛は永遠の炎』という題名。アンナはそれを本棚から抜き取ろうとして、ふと気がついた。それらロマンス小説のピンク色の背表紙に囲まれて小汚い手帳が挟み込まれていたのである。

 アンナは誰かの忘れ物かと思い、その手帳の中を確かめてみた。だが、それは誰かの忘れ物などではなかった。そこには驚くべきことが記されていたのである。

 そう、数々の実験とその記録。気が遠くなるような呪文開発の日々。不治の病と戦いながら到達した至高の魔法。そして、それらの成果が眠る秘密の場所――

 アンナはどうしてもそれを確かめてみたくなった。どうしても、それを手に入れたくなった。なので、そこに記されている場所へと向かったのである。

 そこは閉鎖された第二研究棟の地下施設だった。いや、そこはもはや地下の秘密研究所のような場所だった。だが、アンナは怯まなかった。なにしろ、その魔術書を手に入れた者は魔法贄物など必要とせず、その魔術書に封印されている魔法のみに限るが、自由自在に操ることができるというのだ。

 はたしてアンナはもちまえの探求心を勇気に変え、数々の試練を乗り越え、そしてついにその魔術書なるものを手に入れたのである。

「だから、あれほど、あの手記は処分しろと言ったではないか、はぁぁぁ……」

 なぜか魔術書から人間っぽい溜息がこぼれ落ちた。

「でもぉ、やっぱり捨てるのは気が引けたしぃ…。かといって、あんな小汚い手帳を所持しているのも、なんか嫌だったしぃ…。だから隠すなら図書館かなぁと思ったんだよね。それでロマンス小説の本棚にもどしておいたのよぉ……。まさか、あんな手帳に書かれてあることを本気にする人がいるなんて思わなかったしぃぃ」

 自分のことを棚に上げてアンナは頭を抱えこむ。

「どうしよぉぉ、このままだと、きっと魔術書を取り上げられちゃうよ。そうなったら、私、きっと破産しちゃう。それどころか魔法実技の授業にも着いていけなくなっちゃうよ。なにしろ魔法贄物を購入するおこづかいが少ないんだもの。いくらお金を節約してもムリなものはムリだよぉぉ」

 アンナが嘆くのには、それなりの理由があった。

 アンナの実家は侯爵家である。なので、ほんらいならとても裕福なはずだった。

 ところが昨年のことである。アンナの故郷、アウルム地方は未曾有の大地震に襲われた。

 おかげで多くの人々が被災し、多くの者が住む家を失った。

 そこでアンナの父、アドラ・プラティヌス侯は私財を投げ打ち、復興の一助にしようと大英断を下したのだ。そのせいで、いまやプラティヌス侯爵家は東ルミナス帝国でも一、二を争う貧乏貴族になり下がり、一方、アンナは士官学校の高等部に進むにあたり志望学科を別のものに変更せざるをえなくなった。

 そう、魔術騎士科を選んだのは、なにも愛国心が人一倍強かったわけでも剣と魔法の腕に自信があったわけでもない。

 たんに魔術騎士科だと学費が免除されるので、その方が実家としても大助かりだったというわけである。本当は呪文研究科か錬金魔法科に進みたかったのだが、実家の経済事情がそれを許さなかったのだ。

 なにしろ、それらの学科はそれなりに学費が高いのである。

 とはいえ魔術騎士科がまったく金がかからないのかというと、じつはそうでもない。自分で使用する魔法贄物だけは自費で購入しなければならない。学校には学生寮や学生食堂があるので、それほど生活に困窮することはないが、さりとて魔法への順応力があまり高くないアンナは、かなり高額な魔法贄物を購入しなければならず、そうなると仕送りされる生活費だけでは、なかなか賄いきれないというのが今の現状であった。

「ああーん、どうしよぉぉ、この魔術書さえあれば、いちいち高価な魔法贄物を買わなくても、それなりに、なんとかやっていけると思ってたのにぃぃっ!」

「お、落ち着け、小娘っ! まだ、おまえがこの魔術書を所持しているとバレたわけではないのだろう? ……それに、まだほかには誰も、あの秘密の場所を探し当てた者はいないのだろう? あそこへは、そう簡単にたどり着けるものではないぞ」

「そうかな? 私一人でもたどり着けたんだよ。きっと皇女様なら楽勝だよぉぉ」

「馬鹿もの、おまえは特別だ。だからこそ吾輩は、おまえを主として選んだのだ。心配するな。あの地下の研究室へ行くには二つの防壁を超えねばならん。

 あれは、そう簡単に突破できるものではないぞ。――いや、かりに突破されたとしても、もうすでに時は遅しだ。そこに吾輩はおらん。あとはずっと、この書のことを黙っておればよい。しらばっくれておればよいのだ。吾輩はずーっと、おぬしの側から離れぬぞ」

「え、それでいいのかな? ほんとにそれで……ううん、そうだよね。博士の言うとおりだよね。うん、ありがとう。少しは勇気が出てきたよ」

 なんとなく気持ちの悪い発言があったような気もするが、とりあえず、お爺ちゃん博士の言うとおりだと思うことにした。おかげで心持ち、ちょっぴり気分が落ち着いてきた。

 うん、博士の言うとおりにしよう。黙っていれば誰にも分からないはずだもの。

 

 と、そんなアンナの耳に、ふと、なにやら話し声のようなものが聞こえてきた。

 

 まちがいない。校舎の外からヒソヒソとした声が聞こえてくる。

 そこは一年生校舎の裏手になる。

 そこから風に乗って男女二人の声が聞こえてくるのだった。

 はたして男のほうの声には聞き覚えがなかったが、女性の声のほうには聞き覚えがあった。そう、学級担任のジェシカ・エレミナ教諭の声である。なのでアンナは急いで魔術書を衣嚢にしまい込み、そっと窓の隙間から外の様子を窺ってみた。

 やはりジェシカ先生だった。そして、もう一人は知らない人物だった。

 立派な軍服を着ている。きっと軍部の中枢にいる関係者かなにかだろう。


「……召還魔法を得意とし、かつては数々の戦場で活躍したあなたが、まさかこんな所で教師をしていたとは驚きです。これでは情報部も形無しですな。

 でも、ちょうどよかった。今回の任務、私だけでは少し荷が重かったのです。できれば内部に協力者が欲しかったところです。少し協力してもらえると助かるのですが?」

「そうしたいのは山々ですが、しかし、私はもう現場を引退しています。そういう荒事とも縁が切れています。協力なんてムリですわ」

「そんな冷たいことを仰らないでくださいよ」

「でも、私は、ただの一介の教師ですよ。それにもう四年も現場からは遠ざかってます。いまさら使いものになるとは思えません」

「たった四年でしょ。大丈夫ですよ。私の手助けをしてくれればいいだけですから。今や、あなたが受け持つ生徒たちも無関係というわけではないのですから」

「確かに、そうではありますけど……」

「それに、ようやく見えざる敵が餌に食い付いてきた気配がするのです。この機会を逃すわけにはいきません。とにかく協力してもらいますからね。あなたの意志とは関係なく、事態は動こうとしています。どうか、ここはお願いします」

 男は何度も頭を下げ、ペコペコと揉み手までし、

「どうか、このとおりです」

と、言い残して遠ざかっていった。


 アンナはそーっと気づかれないように窓を閉めた。

 今の会話は何だったのだろう?

 ジェシカ先生……なんだか思いつめたような声色をしていたけど、なにか重大な秘密でも抱えているのだろうか?  

 いや、それよりも、あのいつもニコやかで、とても優しいジェシカ先生がかつては戦場で活躍していたなんて信じられない。

 まさに驚きの新事実発覚である。

 ……まぁ、大人の世界は色々と大変なのだろう。

 とりあえず、そう思うことにした。


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