疾風のシルフィス 第二話さみしがり屋の皇女さま
むっとした熱気をはらんだ空気を肌に感じながら、シルフィスはその広い円形広場の真ん中でしばらく呆然と立ちつくしてしまった。
「うわぁぁ、なんて大きな町なんだろう……」
この広場だけでも、ヘルムスタット城のある城下町の中心街に相当する。
昨晩、野営した山の麓から見下ろした時も、その夜景の美しさには思わず息を飲んだものだが、町の中に入って、さらにその感動はいやにも増していた。
山から海へと広がる扇型の都市。そこに建つ建物はみな白い月光石で造られていた。
月光石は闇の中で輝く性質を持っている。それゆえ、夜の闇に浮かぶ大都会の壮麗なる景観には、心底、驚かされたが、それにしても、この整然と整った町並はどうだ。
綺麗に舗装された道。建ち並ぶ商店のにぎわい。
陽の光を浴びて白く輝く建物。青々とした街路樹に行きかう人々の多さ。
それらが美しい町の風景にさらなる彩りを添えている。しかも、その大通りの最も奥にそびえ建っている王宮は大陸随一の規模を誇る、その名もカルデルナ宮殿だ。
その荘厳なたたずまいには、もはや目を瞠るしかない。
「北部辺境の地、ノランド地方の町とはまるでちがうね……」
はたして、そんな雑踏の中に立っていると心が躍り、なんだか気分もワクワクしてくる。
なのでシルフィスは、ちょっと寄り道をしてみたくなり、ちょうど目の前にあった店に立ち寄ることにした。そこは魔法贄物などの術具を取り扱う魔法具店だった。
さて入ってみて驚いたのは、まずはその品数の豊富さだ。ためしに、よく使う銅貨型の魔法贄物を手に取ってみた。丸い形の表面に創造神アルケミスの肖像が浮き彫りにされている。その上部には贄物投擲器に装着するための穴が開いていた。造りはかなり精巧でピカピカに輝いている。ヘルムスタットの町にある魔法具店ではなかなかこうはいかない。たいていが古びていて、色もくすんでおり、とても買う気にはなれないのだ。魔法贄物の質は魔法の威力にも関わるので、なるべくいい物を手に入れたいが、ノランドの田舎町ではあまり売れないのか、そんなどうしようもない品々が平気で店内に並んでいる。
やがてシルフィスは溜息を吐きながら店を後にした。
やはり南部は経済的にもかなり豊かなのだと思わざるをえなかった。
それだけに北の大地の香りが、ふと懐かしく思えてきた。どこまでも続く麦畑と、その中に点在する土壁の家々。そんな北の大地は貧しいけれど雄大な自然に恵まれている。
そう、煌めくナタリアの湖。その周囲に広がる原生林の森。大空をゆうゆうと舞う鳥や山野を駆けめぐる獣たち。今頃、ヘルムスタットの城下町では露天に市が並び、豊壌の女神ディアヌスを祝う春の精霊祭が行われていることだろう。
そんな故郷の町とくらべたら、ここはまるで別世界だ。
ヘルムスタットの町を後にして一月あまり。ようやくたどり着いた大都会――東の帝都ルミナリア。その町の情景にはすっかり度肝をぬかれてしまい、あちこちに目がいって仕方がない。そう、見るものすべてが珍しかった。
「うーん。だけど、この服装はちょっと目立っちゃってるかもしんない」
なのに再びこぼれた言葉がそれだった。
そんなシルフィスのすぐそばを豪華な馬車がゆっくりと通り過ぎていった。
白塗りに金箔の装飾が施された立派な四頭だてだった。そんな美事な馬車は今まで見たことがない。しかも、その周囲を固めている従者の数もものすごく多かった。中には自分と同じ年頃の女の子の姿もちらほら見える。あまりにも見慣れない光景だったのでシルフィスはすぐ近くを通りかかったおばさんに思わず訊ねてしまった。
「あのぅ、すみません。ちょっと、お訊ねしてもいいですか?」
「あら、なにかしら?」
「あの馬車って、お祭りのパレードかなにかですか?」
すると、おばさんは大きな声で笑いだした。
「あははは、ちがうわよ。お祭りがあるのはもう少し先ね。あれはルミナ皇女様の馬車。たくさんの従者を連れているから驚いたでしょう。さすがは『寂しがり屋の皇女様』だね。今日もいっぱいの人に囲まれちゃって」
それだけ言うと、おばさんはすぐ斜め向かいにある古着屋さんに入ってしまった。
「はぁ? 寂しがり屋の皇女様? なんだそりゃ? まぁいいか。それにしても、なんだか暑苦しいや。やはり南部はだいぶん気候的にも温暖なんだね」
しみじみとそう思う。故郷にいた時はまるで気にしなかった服装が、この町ではどうにも違和感がいなめない。周りを見れば、ほとんどの人が薄手の襯着一枚である。
一方、シルフィスは木綿の襯着に麻のズボン。牛皮をなめしたベストの上には継ぎ接ぎだらけの厚い革製の上着といった野暮ったい旅装姿で荷物は汚い背嚢が一つだけである。
そして、その背には大きな長剣を背負っていた。この立派な剣は旅立つ息子のためにと、養父であるオーエン将軍が旅費と一緒に持たせてくれたものだった。
「まぁね。でも、どこぞの田舎町から出てきた貧乏な少年兵って感じが、これまた逆に新鮮な感じでいいんじゃない? そんな恰好、ここらへんでは珍しいだろうから」
そんな風に、どこか無責任な口調を返してきたのは、どこからともなく飛んできてシルフィスの右肩に止まった奇妙な生き物だった。そいつは背中に翼のある青く煌めく蜥蜴のような姿をしていた。一見して精霊獣の一種である飛翼青竜のようにも見えなくはないが、その体格はあまりにも小さく、しかも人間の言葉を喋っているのが、これまた異様である。
シルフィスは、その奇妙な生き物と魔法で会話をしていたのである。
「え、ラピもそう思う。いやぁ、どこにいても自分らしさは大切にしないと」
「べつに誉めたわけじゃないんだけどね。それより急がないといけないんじゃないの?
普通なら駅馬車を乗り継いで十日ほどで到着できるのに、あなたったら、とことん徒歩で行くんだもの。旅費を節約するにもほどがあるわよ。おかげで入学式にギリギリじゃない」
「あっ、そうだった。急がないと……」
ラピと呼ばれた小さな飛翼青竜らしき生き物が、まるで人間のようにあきれかえる。
だが、それも当然のことだろう。なにしろ帝都ルミナリアは、このムーンランド大陸の南端に位置しており、ヘルムスタットの町からは四百キロメルト以上も離れているのだ。
その道のりを、なんとシルフィスはすべて徒歩だけで踏破してのけたのである。
おまけに、その旅の間じゅう山野で野宿するのもおかまいなしの強行軍だったので髪はボサボサ、肌も垢じみており、おせじにも綺麗な身形とは言えなかった。
……と、まぁ、そんな出で立ちである。
あちこちを迷ったあげくに、ようやくたどり着いた士官学校の門前で衛兵に見咎められ、怪しげな人物だと疑われてしまったのも当然の帰結であったろう。
「えーい、帰れ、帰れ。ここは、おまえさんみたいな浮浪者の来る場所じゃねーんだ。いいか、ここは国立士官学校だぞ。帝国中から才能のある方々が集まり、学業や訓練にいそしんでいなさるんだ。おまえさんみたいな奴の来る所じゃねーんだ」
衛兵はけんもほろろにシルフィスを追い返そうとした。
年齢の頃は二十代の半ばくらい。少し癖のある金髪に青い目をした青年だった。
「うーん、困ったなぁ。どうしたらいいんだろ?」
「ちゃんと身分を証明できる書類を見せればいいんじゃないの?」
ラピがやれやれとばかりに二足ある片方の足でシルフィスの頭をつつく。
「うわっ、なんだ、その奇妙な生き物は? ますます怪しげな奴だな!」
驚くのも無理はない。人間の言葉をあやつる精霊獣というだけでも珍しいのに、そいつはどう見ても精霊界へ帰る様子もなく、召還されたままの状態になっているのだ。
顔色を変えた衛兵は腰にある剣の柄に手をかけ、気味悪そうに後ずさった。
――と、その矢先である。
士官学校の門前がにわかに騒がしくなった。
「ちょっと、いい加減にしなさいよ。ルミナ皇女様の馬車の前に立つとは無礼にもほどがあるわよ。そこをおどきなさい、マーク・シルベスタ!」
先ほど見かけた豪華な馬車が、なぜか学校の門の前に停車していた。
「うるせぇ! アンナ・プラティヌス。今日こそ喫緊の重大問題に決着をつけさせてもらうぞ。このニンジン娘! これからは皇女様の護衛は我ら男子組が担当させてもらうからな。剣も満足に握れない深窓のお嬢様方には荷が重いだろうしよ」
「へぇぇ、私たちが剣も握れないただのお嬢様かどうか試してみたらどう?」
「ふん、望むところだ。女相手に剣を抜くのは不本意だがな!」
「よーし、今日こそやっちまえ!」
「剣の腕でマークに敵う奴なんているわけねーし」
見れば馬車の周囲で男子と女子とが二つの集団に分かれ、今にも激突しそうな剣呑な雰囲気になっている。といっても、よくよく見れば、その手にしているのは木で造られている模擬戦用の木剣だ。
それどころか、その馬車の周囲には、かなり屈強そうな護衛の兵士たちが十数名、つかず離れずの距離できちんと散開し、周囲に注意をはらっていた。
どう見ても、彼らはその仕事の邪魔をしているようにしか見えない。
「あちゃぁ、またかよ。たのむから仲よくやってくれよぉ……」
たちまち衛兵は毒気を抜かれたような顔になり、疲労感たっぷりに肩をすくめる。
「あのぅ、これはいったい何ごとですか?」
訊ねながらシルフィスは入学証明書と旅券証を、その衛兵に手渡した。そこにはちゃんとシルフィスがエルファイド伯爵家の公子であることが記されている。
衛兵はそれを見て一瞬ギョっとした顔をしたが、すぐにまた溜息をもらし、その騒動のほうへと面倒くさげに顎だけを突きだしながら先ほど手渡した書類を返却してくれた。
「あの子たちは君と同じで魔術騎士科の一年『月』組に入隊した新入生だよ。つまり名門貴族のお坊っちゃまや、お嬢様がただ。同じく『月』組に入隊したルミナ皇女様をめぐって、もっか、そのお気に入りになろうと、もう必死。……どっちが姫様の護衛役を担当するかで、ここ数日、ずっと男子組と女子組とに分かれて揉めあってんだよ。ちゃんと正規の護衛兵もいるってのに、まったくなにやってんだか……」
「へぇぇ……」
そう返事するしかなかった。まったく事情が飲み込めない。
「……っていうか、まさか皇女様も一緒に士官学校で勉強するの?」
ただ一つ、気になる疑問を素直に口にした。
「そのまさかだ。テレーズ女帝陛下様は万民に対してなるべく公平であることを望んでおられる。……ええっと、なんだっけ、確か男女雇用均等法とかなんか色々な。それでもって平民からも優秀な人材を発掘しては登用なさっておられるくらいだから、ご自分の娘だからといって特別扱いをするわけにもいかなかったんじゃないかな?」
「だからって、なにも士官学校に放り込まなくてもいいんじゃない?」
「まぁ、そこは、なにしろ世間では『寂しがり屋の皇女様』って、かなり有名だからな」
寂しがり屋の皇女様? そういや、さっきのおばさんも同じことを言っていたな。
「なんなのそれ?」
「……ん、知らんのか、おまえ、よっぽどの田舎者だな」
「確かに田舎者かもしんないけど、他人から言われると、なんか腹が立つよ」
「なんだ、田舎者ってのは否定しないのか。ともかくだ。噂によると皇女様はな、会う人会う人、誰彼なしに自分の友達になってほしいと懇願することで有名なんだ。だけど、その努力の甲斐もむなしく、いまだに友達は一人もいないらしい……」
「へぇぇ、それは、おかわいそうに……」
なんだか身につまされる心地がした。
とても他人事だとは思えなくて、シルフィスは少しばかり暗い顔をする。
「……うん、友達を作るのって、なかなか難しいんだよね」
「まぁ、相手は皇女様だからな。仕方がない。だが、世間で、そのような風評が立っているのはよろしくない。なので、そんな惰弱な精神を鍛えなおせと女帝陛下様から命じられての士官学校への入学だと言われている。……が、実際のところ、その真相は謎だ。しょせん、それも世間の噂にすぎない。なにしろ、ちょいと変わり者の皇女様なんだ。大学では医学を学んでいたそうだけど、そこでは怪しげな研究をしていたという噂もあるしな。
まぁ、大貴族の間じゃぁ四大魔法も使えぬ出来損ないと侮る声もあるんだが、う~ん、これがなかなかどうして、俺の見立てでは英明な方だと思うんだけどな……。今日も帝都内の視察に出かけておられたのだろう。……でもな、これがまた色々と揉めごとの種でな。じつに頭の痛いことだよ、まったく……」
「……でも、あれ、止めなくていいの?」
すでに男子集団と女子集団は互いに木剣をかまえ、いまや一触即発の状態だ。なかには魔法を喚起するための魔法贄物を手にしている者までいる。こんな街中で魔術戦が行われるような事にでもなれば大変な騒ぎになるだろう。このまま見過ごしていいものではない。
「あのねぇ、皇女様は女性なのよ。だったら女子が護衛するのが当然じゃないの!」
「何をぬかす。大切な姫君を、頼りないおまえらなんかにまかせておけるか!」
そんな諍いの声を聞きながら衛兵はすっかり苦りきった顔だ。
正規の護衛兵たちも皆、同じような表情をしている。
「ムリムリ。俺は平民出のしがない門番だぜ。多少は剣の腕に自信があるだけで、魔力適合者でもない。魔法を使える貴族の坊ちゃんや嬢ちゃんは止められないよ。しかも連中は幼年士官学校あがりの選り抜きどもだぜ。俺の言葉に耳なんか貸すかよ」
いささか無責任にも聞こえるが、それが当然の態度だろう。
それに、いくら女帝陛下が万民平等を声高に唱えようとも身分の差というものは確実に存在する。魔力に順応できる血筋は主に貴族階級に集中しているため、やはり国家の大事に関わる要職に就けるのは貴族の者が圧倒的に多いのもまた事実なのだ。
「だけど、このまま放置するのもまずいよね」
ところが、そんな心配は取り越し苦労に終わった。
「なにをしておるか、見苦しい。このような大通りで騒ぎを起こすなど貴族階級のすることではないぞ!」
そんな大喝とともに立派な軍服を身にまとった少女が白い馬車の中から現れた。
ゆったりと長いブロンドの巻き髪に、くっきりとした目鼻立ち。どこか勝ち気そうな雰囲気もあってか、その眩いばかりの美貌には、なんともいえない威圧感がともなっていた。
その威厳はとても同じ年頃の少女のものとは思えない。おかげで一瞬にして辺りは静まり、少年少女は慌てて剣を鞘にもどして「これは皇女様……」と、その場にひざまずく。
「……余の警護のことで心配してくれるそなたらの気持ちはありがたいが、それを理由に争うのは見当ちがいだぞ。今後、何か良き対策が取れるかどうか、学校側には申し入れておくゆえ、ひとまず双方おとなしくしておれ。それより今日は入学式であろうが、このような騒ぎを起こしてはならん」
最初の一声はともかく、その後はとくに怒るでもなく、また不愉快なそぶりを見せるのでもなく、ただ静かにその場を圧した少女にシルフィスは目を丸くした。
「どこが惰弱な皇女様だよ。ぜんぜん、そんな風には見えないけどな……」
その堂々とした態度には思わず舌を巻いてしまう。
いや、それよりも、さっきから、なんか妙な気配がするんだけど?
ひとしきり皇女様の言動に感心を寄せていたところでシルフィスは、なにやら不穏な空気を感じ取った。かすかに魔力の気配も感じる。
やがて、その気配はブィィンという不快な音にとって変わった。
なにか小さな蟲が翅を震わせている――そんな音だ。
シルフィスは辺りを警戒し、その音を耳で追いかけた。
すかさずラピに目で合図を送る。ラピはすぐさま空高く舞いあがる。
と同時に、シルフィスは魔法贄物を装着した小さな羽矢のような道具を、これまた腰のベルトに装着してある専用ホルダーの中から抜き取り、それを地面に向けて突き刺した。
そして、すばやく呪文を唱える。
「さぁ開け異界の扉。羽ばたくは精霊界の舞姫。散開せよ、青玉鳳蝶」
その羽矢ような物は贄物投擲器と呼ばれている。やがて贄物投擲器に装着している青玉石の欠片が砕け散るようにして消滅するや地面に魔法陣が展開した。その魔法陣から数匹の大きな蝶が召還され、辺り一面に飛びかった。その青く輝く蝶の翅から煌めく光のような鱗粉が周囲に撒き散らされていく。
「わぁぁ、なにこれ、すごく綺麗……」
「でも、なんか粉みたいなものを撒き散らしてるんだけど?」
しばし女子集団の中から感嘆の声がわき起こった。
いや粉ではない。鱗粉だと説明したかったが、その暇すら惜しいシルフィスは無言をつらぬいた。というのも、なんか嫌な予感がするのである。ともあれ、その鱗粉には特殊な魔力が備わっており、それを通じて、あらゆる情報が召還主のもとに送り届けられる。
それは大気魔法における第三級位の召還術だ。
索敵や通信能力に優れたその魔法は戦場においては偵察などによく用いられると聞き及んでいる。その能力がすぐさま危険を察知した。皇女様のすぐ近くに一匹の精霊生物が飛んでいたのだ。シルフィスは焦ることなく気配を消し、鞘から長剣を引き抜くや、まるで一陣の風のように跳躍して彼女のすぐそばへと移動した。
そして躊躇うことなく剣を真横に一閃する。
と、その刹那、シュッという風切り音とともに何か小さな物体が地面に転がった。
それは蜂のような形をしたすごく小さな精霊生物だった。赤と黒の毒々しい色あいが不気味である。やはり悪い予感は的中した。その名は紅毒針蟲。よく暗殺などに用いられることから大気魔法においては禁術認定を受けている第二級位の精霊生物だ。
こいつに刺されると高熱に苦しみ、やがては死に至る。そんな危険な精霊生物が機能を完全に停止している状態を確かめてからシルフィスはようやく安堵の息をもらした。
やがて役目を終えた青玉鳳蝶は空気に溶け込むようにして消え、真っ二つにされた紅毒針蟲も地面に吸い込まれるようにして消滅した。
そして、つんざく悲鳴が響きわたる。
「ぎゃぁぁぁぁぁ! あ、あんたねぇ。い、いきなり何すんのよ。もう少しで私の首がチョン切れるところだったじゃないのよっ!」
シルフィスが手にする剣の切っ先は一人の少女の眼前で止まっていた。
確か、名はニンジン娘……いや、それは渾名だろう。
なるほど、そういう渾名を付けられるのもうなずける。
あざやかな山吹色の長い髪を後ろ手にくくった快活そうな女の子だ。
猫のようにツンとした表情にキラキラした青い瞳。形のよい朱唇がやや吊りあがってはいるものの、皇女様にも負けずとも劣らない整った顔立ちに育ちのよさが窺える。
齢の頃は同じ十四歳だろう。士官学校の高等部は十四歳からの入学と決まっている。
「でも大丈夫。ちゃんと剣の長さは把握しているから」
「ぜんぜん大丈夫じゃないわよ! いきなり剣を抜くなんて、なに考えてんのよ!」
「自分たちの行いを棚にあげ、しかも木剣を手にして怒るのは理不尽だと思う」
「な~にが理不尽よ。こんな木剣なんて、なんの役にも立たないわよ」
「役に立たないのに、なぜ皇女様の警護役を……あ、痛いっ」
「あんたに言われる筋合なんかないわよ。――っていうか、あんた誰よ!」
淡々と応じるシルフィスにさらに怒気をにじませ、つかみかかってくる少女。
シルフィスはその木剣で頭をペシペシと叩かれた。そこへ凛とした声が割って入る。
「少し静まるがよいぞ、アンナ・プラティヌス。この者は我らの命を救ってくれたのだ。この者が今切り落としたのは紅毒針蟲という精霊生物だ。さては禁術認定を受けた精霊生物の中でも特に危険な一種であると余も認識しておる。咄嗟のことで余も最初は気づけなかったが……さても危ういところであったな。だが、しかし、これは事が事だけに大騒ぎをするのは得策ではない。皆のもの冷静に、これを受け止めよ」
と言われても辺りは騒然となる。なにしろ禁術認定を受けている第二級指定の精霊生物だ。もし誰かが刺されていたら大変なことになっていただろう。
いったい誰がそんな危険な精霊生物を召還したのか?
その目的は何なのか?
とても危うい想像が誰しもの頭の中を駆けめぐる。
しかも、この場には皇女様もいたのである。
もちろん彼女の警護にあたっていた兵士たちも大慌てである。
「ル、ルミナ皇女様、どこもお怪我はございませんか?」
「ぬぅぅぅ、紅毒針蟲とは卑劣な真似をしおってからに!」
「おい、君、お手柄だぞ。あとで近衛士官本部から感謝状を贈ろう」
そんななか、ただ一人、ルミナ皇女だけが慌てる様子もなく、まるで平然とした様子でシルフィスを見つめていた。
「――とはいえ、紅毒針蟲はあまりに小さく、それが飛ぶ時の音など、まるで蚊が飛んでいる程度のものであろう。それに気がつくとは、さすがというか、なんというか。うむ、なるほど。さては、おぬしがシルフィス・エルファイド伯爵公子だな」
「はい。お初にお目にかかり、たいへん光栄です。ルミナ・ルミナリエル皇女殿下」
ぶっきらぼうに挨拶をしながら剣を鞘にもどし、そこにひざまずく。
「ふむ、やはりそうか。その身に精霊を宿し、『魔人』となった逸話は母から聞いておる。咄嗟に青玉鳳蝶を召還する実戦なれた手際といい、……そして、そのような大長剣をあやつり、あのような小さな精霊生物を仕留める手腕といい、まことにみごとであるな」
皇女様の笑顔はまるで大輪の薔薇が咲いているかのような美しさだったが、シルフィスはあいかわらず茫洋としており、ただ「ご無事でなりより」と応じるのみだ。
その頭上高くを青い翼を広げたおかしな生物が旋回していた。ラピである。
皆の動揺をこれ以上大きくしないようにと気づかってくれているのだろう。
だが、騒ぎはそれだけでは終わらなかった。
「おい、なんか匂わないか?」
「そういや、なにやら獣臭のようなものがそこはかとなく……」
「ちょっと、あんた。どうでもいいけど、なんか、すんごく臭いわよ!」
見れば、先ほどの少女、アンナ・プラティヌスが鼻をつまみながら睨んでいた。
シルフィスは小首をかしげながら上着の内側をめくり、くんくんと匂いを嗅いでみた。
確かに、ちょっと臭うかもしれない。そういえばヘルムスタットの町を出てからはずっと野宿をしていたので風呂には一度も入っていない。
言われてみると、なんだか身体じゅうがムズムズと痒いような気もする。
「うん。だって一ヶ月ほど身体を洗っていないんだよね」
その瞬間、シルフィスの周囲にポッカリとした空白地帯が生まれたのだった。
「うーん。まいったな。初日から、けっこう目立っちゃったよね」
あれから入学式も予定どうり行われ、そのあと男子学生寮の風呂場に連行されたシルフィスは久しぶりに身体をすみずみまで綺麗にし、さっぱりとした気分になっていた。
服も士官学校の紺色の制服に着替え、さきほどまでとはまるで別人である。
「もうすんだことをクヨクヨしても、しょうがないんじゃない?」
ラピは我関せずといった様子である。もの珍しそうに窓の外を眺めている。
その窓からの眺望はとてもすばらしく帝都の町並が一望のもとに見渡せる。
ここは男子学生寮の四階。シルフィスにあてがわれた一室である。
「うーん。ちゃんと注意するようにって、将軍じゃないや、父上から言われたのに……」
シルフィスは眉間に皺を寄せ、ベッドが置いてあるほうの壁に目を向けた。
そこには一枚の羊皮紙が画鋲で止められている。
記してあるのは五つの注意事項だ。
一、あまり目立った行動はしないこと。
二、『魔人』であることは、なるべく人には知られないようにすること。
三、やたらと剣を抜いたり、ふりましたりしないこと。
四、魔法の使用はよくよく考えてから行うこと。
五、騎士たる者、つねに清潔であること。
それらの教訓は、心配した養父オーエンが息子のためにと書きしたためたものである。
「うん、みごとに全部守れてないね」
シルフィスはしょんぼりとうなだれつつ、その教訓の隣にもう一枚の紙を貼りつけた。
これは自分で書いたものである。そこには『常在戦場』と記されている。
「それより、さっきの紅毒針蟲だけど。あれはいったい何だったんだろうね。いきなり禁術が飛びだしてくるなんて、ほんとビックリだよね」
とは言っているが、まったく驚いている様子はない。禁術といっても、その使用が完全に禁じられているわけではないのである。なにしろ戦場においては、ごく普通に使われるし、むしろ命のやり取りをする場面では禁術に助けられることが大いにあると聞く。
なので、とくに使用における罰則規定があるわけでもない。ただ、かなり危険な術なので、あえて注意を喚起するため禁術に認定されているというのが実態である。
「まぁ、誰かが誰かを狙って召還したのは、まちがいないんだとは思うんだよね。暗殺を目的としているなら、まず真っ先に狙われるのはルミナ皇女様だろうけど」
とブツブツ呟きながら荷物の整理をする。
「そんなの分からないわよ。あの場には名門の坊ちゃん嬢ちゃんがたくさんいたし」
パタパタと飛びまわり、やがてラピは部屋の中にある勉強机の上に寝そべった。
「あのさぁ、それで……空から見て、なんか怪しい人とかいなかったの?」
荷物といっても背嚢一つと大きな長剣だけなので、すぐに片付けは終わる。
「うーん。それらしき人物はいなかったけど」
「そっかぁ、紅毒針蟲は危険だけど、魔法範囲の射程距離が短いから、すぐ近くに召還主がいると思ったんだけどな」
よく暗殺に用いられる紅毒針蟲だが、その魔法を召還する場合は暗殺の対象になっている人物のすぐ近くにいなければならない。つまり、あやつる魔法の有効範囲がかなり狭いということだ。なので術者は、すぐに発見されることも覚悟しておかなければならない。
「まぁ、皇女様はまったく動じてなかったけど警備は強化したほうがいいよね」
「それは、あんたが口を挟めるようなことじゃないわよ」
「うん。だよね。でもさ、もし西ルミナス側の暗殺者が学校内に潜んでいたらと思うと、なんか気分が落ちつかないよ。……あぁ、もうこの戦争、いつまで続くんだろ?」
「どちらかが滅びるまでずっとじゃないの?」
かつてムーンランド大陸のほぼ全域を支配していた大ルミナス帝国が東と西に分裂して争うようになってから、ほぼ百年が経過している。原因は皇帝の座を兄と弟が争ったことにある。その兄弟喧嘩が帝国を二分する大戦争を引き起こしたのだ。
つまり、東側の諸侯は兄を支持し、西側の諸侯は弟の味方についたというわけである。
それいらい東と西は、決着のつかない戦争をえんえんと続けている。
「まぁ、もう少し様子を見てみたら?」
「うん、そうだね。そのうち、なにか動きがあるかもしれないし」
そう言いながらシルフィスはベッドの上に横になる。
久しぶりのベッドはたいへん心地よく、すぐに眠気が襲ってきた。
やがてスースーと寝息をたて、シルフィスは気持ちよさそうに寝返りを打った。
剣のうなりが空気を切り裂き、薄闇の中にするどく煌めいていた。
そんな月明かりのもと、シルフィスは一心不乱に剣をふり続ける。
その動きはまるで流れる水のごとく止まることがない。上段から中段へ、中段から下段へ、そしてまた上段へと、微かに風を巻き込みながら激しく剣は舞い続ける。
そう、毎晩、こうして剣の素振りをするのがシルフィスの日課であった。
さても魔法を使う魔法騎士どうしの闘いは、必ずしも魔法の優劣だけで、その勝敗が決まるわけではない。なにしろ敵と味方が入りみだれる乱戦ともなれば、もちろん魔法は使えないし、時には魔法を喚起するための魔法贄物が尽きてしまうこともある。
また出会い頭の戦闘になれば、どうしても魔法を喚起する暇がなく、そういう時は手持ちの武器で決着がつけられる場合が多い。つまり、後方から支援をするだけの魔術士とはちがい、前戦に出て戦う魔法騎士にとって武器を扱う手腕は生死を分ける重要な鍵ともなりえるのだ。なので、その鍛錬を怠るわけにはいかないのである。
やがて、ひととおり稽古を終えると、身体全体にうっすらと汗がにじんでいた。
そこへ、いきなり声をかけられた。
「そなたの振る剣はとても美しいな。まるで祈りを捧げているかのようにも見えるぞ」
ふと見ると、垣根の植え込みを越えた向こう側の小さな庭にルミナ皇女が立っていた。
腰まである長い金髪が夜陰の中でも分かるくらいに明るく揺らめいていた。
そこはもう女子寮の敷地内である。
シルフィスは男子寮の外庭に出て、一人で剣の稽古をしていたのだ。
「邪魔でなければ、そちらに行ってもかまわぬか? 少し話がしたい」
そう言いながらも、すでに皇女様は男子寮と女子寮を隔てる植え込みの間を越えていた。
男子生徒のシルフィスがそちらへ行くのは問題だろうが、女性である皇女様がこちら側、つまり男子寮の庭に入ってくるのは問題がないのかもしれない。
と、そんなことを思っていると、なぜか何もない芝生の上で皇女様が転倒した。
「ふぎゃっ!」
シルフィスは慌てて手を差しのべる。
どちらにせよ、断るわけにもいかないので、シルフィスは庭に置いてある景観用の岩に腰を下ろし、その隣にルミナ皇女を座らせた。
今夜は月が明るいので、とくに蝋燭などの明かりは必要ないだろう。
「……そなたには、命を救ってもらった時の礼をまだ言っておらなんだな」
昼間の軍服姿とはちがい、白いドレスに身を包んだルミナ皇女はなんだか普段よりもさらに可憐に見えて、心臓の鼓動が否応もなく早められる。
あいかわらず十数名の兵士がすぐ近くに待機しているようだが、その姿は見えなかった。
ただ、その気配がするだけである。
やがてシルフィスは少し考えてから慎重に口を開いた。
「まだ皇女様が狙われたと決まったわけではないのでは……?」
「いや、東西の和睦がなろうとしているこの次期じゃ。まず狙われるとすれば余であろうな。戦争を継続させたいと思っている者が、どこぞで暗躍しているのかもしれん。まぁ、よくあることじゃ。もうすっかり慣れた。皇女ともなれば安穏と生きることは許されぬ。じゃが護衛役に囲まれての暮らしはいささか息苦しいのぉ……」
「ご心中、お察しいたします」
「うむ。しかし、余は帝位継承権第一位にある。これも、そのための試練じゃな。それに、これしきのこと、母上の抱える重責や孤独にくらべればなんのこともない」
「えっと、女帝陛下様は孤独でいらっしゃるのですか?」
「なにしろ国家運営の頂点に立っておられるからの。心許せる友などはおらぬであろう。しかし、そのことを考えると余は切なくなる。余もいずれ帝位に就かねばならぬからな。できれば今のうちに『青春』というものを謳歌しておきたいと思うのじゃが……」
そこで皇女様はいったん言葉を切り、唐突に口調をやわらげた。
「と、ところでだ。話は変わるが、シルフィスよ。学校が始まってそろそろ一週間が経つが、と、友達などはできたのかな?」
シルフィスは首をかしげた。
「……ト、トモダチ?」
「そう、ここには同じ年頃の者が大勢いよう。よ、余もふくめてな……」
そう言いながら皇女様は視線を彷徨わせるかのように、なぜか夜空を見あげていた。
同じようにシルフィスも夜空を見あげながら少しばかり過去をふり返ってみる。
そういや、まだ家族がいた頃は、同じ年頃の近習が一人だけいたっけな。
一緒に剣の修行をしたり、いろんな学問をしたりした思い出がある。
だけど、それは、どちらかというと家来のようなもので、心から友と呼べるような間柄ではなかった。もう少し長く付き合っていれば、そういう関係になれたかもしれないが、セメンテス子爵の反乱を期に生き別れてしまい、それいらい会っていない。その後すぐに、エルファイド伯爵家に引き取られてしまったからだ。それからはずっとヘルムスタットの城で暮らしている。とはいえ、その城下にも友と呼べる者など一人もいなかった。
街の人たちは、なにかと「若君様」とチヤホヤしてくれるが、とくに親しくしたいと思う者などついぞ現れなかった。かろうじて辺境の三強騎士と呼ばれる三人とは仲よくやっていたが、それは単なる剣や魔法の師と言ったほうが正解であろう。
そういえば、同じ年頃の少年や少女と接するのは久しぶりのことのように思える。
あえて意識はしていなかったが、そう言われると少し気にもなる。
となると、自分が学校の中でどのような存在なのか、にわかに心配にもなってきた。
ためしに今日の一日をふり返ってみる。
朝起きて歯を磨き、それから学生食堂にて一人で朝食。
午前の授業は呪文学、魔法学、帝国史、戦術論。すべてしっかり勉強した。
授業態度は皇女様も知ってのとおり、きわめて真面目であったはずだ。
そして学生食堂にて一人で昼食。
午後からの授業は数学、剣術、魔法実技。すべて完璧にこなした。
そして学生食堂にて一人で夕食。
さっさと部屋に帰って予習復習をし、そして一人で剣の稽古――……
――ん、んん、あれれ?
思わず愕然とした。
同じ学年の級友たち中に自分が解けこめているという実感がまるでわいてこない。
「………………………」
「ふふふふ……。そのぶんじゃと、まだ友達などはできておらぬようじゃな? といっても余も他人のことは言えぬな。シルフィスと同じくらい余もまたひとりぽっちじゃからの」
「え? いつも、あんなにたくさんの級友たちに囲まれているのにですか?」
それでも寂しいのだろうかと、少し不思議に思った。
さすがは『寂しがり屋の皇女様』である。
「うむ、余の場合は、ただ単に皇女という立場が、皆を寄せ集めておるだけであろうな。余はまずその垣根を越えねばならん。これは、なかなかの試練じゃぞ。シルフィスよ。友達が欲しければ、まずは自分から飛び込んでいかねばならん時もあるそうだ」
「えーと、こういう時、どうしたらよいのか、自分にはよく分かりません……」
「む、それは余に聞かれても困るぞ。なにしろ余にも友達はおらんのだ。余は今までほとんどカルデルナ宮殿から外に出たことがなかった。通っていた大学も宮殿の隣にあったし、そこにいた学生たちも年上ばかりじゃった。皆、余に遠慮もあってか、なかなか親しくはしてくれなかったしな……」
「それで、この士官学校に入学したと?」
「まさか、それだけの理由で入学したりするものか――ただし、女子寮に余の居室を造らせたりして、なるべく同じように過ごせる工夫はさせてもらったがな。いや、しかし、友を作るというのは、なかなか難しいな。それぞれの立場もあろうしの」
「立場ですか? そうですよね」
シルフィスの場合、立場というよりも自分が人とはちがうと思っている部分が大きいのかもしれなかった。その身に精霊を宿すシルフィスは、その身体そのものが魔法と化しており、それによって生命が維持されていると言われている。
精霊教会の祠祭士たちが、そう判断したのだからまちがいない。
すなわち、自分は今でも人間なんだろうかという疑問が、その事によって常につきまとうのである。そして、そういう不安の存在が、知らず知らずのうちに他者との間に距離や壁を作りだし、自分を孤独の檻に閉じこめてしまっているのだろう。
普段は人としてなんら異常のない姿をしているが、その身に宿る精霊と完全に融合すると、その姿は一変してしまう。
その姿を知っているのは辺境の三強騎士と、養父オーエンくらいのものである。
そんな異形の姿を、それ以外の人が見たらどう思うだろうか?
きっと恐れ、怖がるにちがいない。誰かと出会うたびに、そんな不安に悩まされる。
はたして、せっかく親しくなれたのに、自分のそういう姿を隠さなければならないのは辛いことだし、かといって異形の姿をさらし、奇異の目で見られるのはもっと辛い。
「ふむ……。さては、おぬし、もしかすると、『魔人』であること意識しすぎて、自分は人ではないと、そんな風に思っているのではないか?」
唐突にシルフィスの思考を中断させたのは、そんな皇女様の鋭い指摘だった。
「なんとなく、見ていてそう思ったぞ。……なにしろ、まるで魔法のように、そのうち消えてしまうのではないかと思うくらい、普段のそなたは気配が希薄なのじゃ。
そう、まるで命のない何かになってしまったかのように、ひっそりとそこにある。じゃがな、余の目には、どう見ても、そなたは人にしか見えぬぞ」
そう云いおき、ようやくシルフィスへと視線をもどした皇女様は、その表情にいささか憂いの色を浮かべていた。一方、その胸のど真ん中を言い当てられてしまったシルフィスは逆に心が少し軽くなったような気さえした。
「ぼくは自分がいったい何者であるのかが、よく分かっていません。分かりたくないのかもしれません。だから他者と深く関わることを、ひどく怖れているのかもしれません」
日頃、最も気にしている悩みを指摘されたことで、かえって吐露しやすくなったのかもしれない。思わずぽつりと正直な気持ちがあふれ出た。
「ふむ。じゃがな、シルフィスよ。自分が何者なのかを正確に分かっている者など、そういるものではないぞ。そもそも、そんな風に悩むことが、すでに立派に人間であろうが。
心配するな。おぬしはただ少しばかり魔法への順応力が高いというだけの人間じゃ。それを証拠に、そなたと余はこうして会話もできるし、手を握りあうこともできる。二人の間には何も問題はない。ということは、他の者との間にも問題はなかろう」
いきなり左の手に別人の手の感触がしてシルフィスは飛びあがりそうになった。
されど、そこにはもはや人としての手は付いていないのだ。血の通っていない魔法の手が付いているだけである。これも『魔人』になった影響だと言われているが、不思議なことに、ちゃんと熱や重さを感じることだってできるのだ。
今も黒い手袋をはめて隠しているのに、ちゃんと皇女様の指先を感じることもできる。
その絡まった指先はすぐにもほどけてしまったが、手にはまだその感触が残っているような気がしてならず、まるでそこに新たな血が通っていくかのように、なんとなく心が温かくなっていくのだった。そんなシルフィスの耳に思いもよらぬ言葉が飛びこんできた。
「うむ、そうじゃ。よいことを思いついたぞ。今日からおぬしは余の友達になるがよい。余の最初の友達はおぬしじゃ。余も、おぬしの最初の友達になろう」
「え、えぇぇっ!」
いきなり切り出された思いもよらぬ言葉にシルフィスは少しばかり狼狽えた。
「なんじゃ嫌か? 余とは友達になれぬと言うのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが……。友達関係って、そんな風にできあがるのかなって少し疑問に思ってしまって……」
「えーい、いちいち小難しい事を考えるでないわ。経緯などどうでもよいではないか。互いに互いのことを大事に思えるようになった瞬間から、その二人はもう友達であろうが!」
強引に言い切られてしまった。
でも、なんとなくだが納得させられてしまう。
「そ、そうですよね。そう言われると、なんか、すごく心強い気分になってきます」
「で、あろう。……ならば今日から、余と、おぬしは友達なのじゃ……。
いや、それだけでは生ぬるい。余は、この士官学校の生徒すべてと友達になる。そのくらいの高い目標を持たねばならんのだ。よいかシルフィスよ。聞いてあきれるなよ。余はの、いずれ戦場へ赴くであろう、そなたたち全員と友達になりたいと思っている。
不可能かもしれぬが、戦場で戦う者、すべてと友達になりたいと思っている。そして、ゆくゆくは国民のすべてと友達になり、その苦楽を共にしたいと願っている。
それが、どれほど辛い道のりであろうとも、そう願わずにはいられない」
「どうして、そんなことを願うのですか?」
「うむ、戦となれば戦死者も出よう。そして二度と帰って来ぬ父や兄や友を思い、多くの者が悲しむであろう。国民にそのような悲惨な思いをさせておいて余だけが心安らかに暮らせるものか。国家の頂点に立つ者こそ最も悲しまねばならんのだ。
だから、余は戦へ赴くすべての命に責任を持ちたいと思っている。その命のすべてを大切にしたいと思っている。その命のすべてとつながり、その命が失われることがあれば、その一つ一つに余は涙を流したい。長年の戦に疲弊したこの国の皇女であるがゆえ、余はそのような世界で最も悲しき女皇になりたいのじゃ」
その瞬間、シルフィスは、まるで全身の血が熱く滾るような、そんな心地がしたのだった。と同時に、皇女様とこうして話し合えた事に自然と喜びが感じられ、または自分の国の皇女様がそのような考え方を持っていた事に少なからずも驚かされた。その驚きは、やがて少なからぬ感動と、かすかな希望へとつながっていった。もしかすると、この皇女様なら、いつか、この世から戦争というものを無くしてくれるかもしれない。
いや、少なくとも、その努力を惜しまず平和への道筋を考えてくださるだろう。
きっと、そんな女帝陛下になってくださるにちがいない。
「……それにな。友達がたくさんできれば、それはやはり、とても幸せなことであろう。敵国の中にもそうやって友達が増えていけば、いずれ戦争など無くなるやもしれないな。
ん、どうしたシルフィスよ? なにをそんなにニコニコしておるのじゃ。なんか気持ちが悪いぞ。さては、おぬしも本当は友達がたくさん欲しいと思っているのではないのか?」
「はい。それはもう」
自分でも意外と思えるほど、それは屈託のない清々しい気分だった。
ずっと曇っていた心の中に一筋の晴れ間が現れたような、そんな気分である。
なのに、いきなり雲行きが怪しくなった。
「そうか。やはりそうか…。シルフィスも友達がたくさん欲しいか……」
低く唸るような皇女様の声になぜか鳥肌が立った。
「……は、はい?」
「ならば、ここは余にまかせておくがよい。我が友のために『友達獲得大作戦』なるものを作成立案してくれようぞ。友の友はすべからく余の友達である。これは余のためにもなることじゃ。うむ、ここはやはり大きな切っ掛けが必要であろうな」
口角を持ち上げた唇からそんな独白を紡ぎだし、嫣然と微笑む皇女様である。
「……あ、あのぅ『友達獲得大作戦』って、いったい何をなさるおつもりですか?」
恐る恐る訊いてみたが、興奮さめやらぬ皇女様は完全に自分の世界に突入していた。
「うむ、そうと決まれば善は急げじゃ!」
そして勢いよく立ちあがり、またしても何もないところで派手にすっ転んでしまう。
シルフィスは一抹の不安を抱えながら、そんな皇女様に手を差しのべたのだった。
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