疾風のシルフィス
大谷歩
プロローグ~第一話 魔法になった少年
プロローグ
北の大地の片田舎……そこに建っていた今はもう廃墟の古い城――……。
その城の中にあった小さな庭だけは今でも覚えている。
そこは蔦の這う石壁に囲まれた狭い中庭だったが様々な木々が植えられ、噴水のある小さな池も造られていた。その小さな世界が幼い二人の遊び場だった。
燦々とした夏の陽光が照りつけるなか、楡の木の木陰で剣の素振りをしていた少年のもとに幼い妹がそーっと近づいてきて、そのか細い中指をつきだ出した。
「ねぇ、見て、兄上、とても可愛らしい虫さんを発見しました」
「ん、それはテントウ虫だね」
見れば、妹の指先には黒地に赤い七つの星をあしらった小さな虫が止まっていた。
どこからともなく飛んできて、木の枝と間違えたのだろう。
『ここはいったいどこなんだろう?』と言いたげにモゾモゾしている。
「テントウムシ?」
妹が可愛らしく小首をかしげる。初めて目にした虫だったらしい。妹にとっては大発見だったのだろう。かなり興奮していた。
「こんなに小さいのに、すごく派手な恰好をしてるんだね。背中に赤い星が七つもある」
「うん、そうだね。でも、ほかにも色んな種類がいるんだよ」
「へぇ、たとえば?」
「こいつは七星テントウと言うけれど、二つ星のものや、三つ星や、七つよりも多くの星を背負っているテントウ虫もいるんだ。いろんな種類のテントウ虫を獲ってきて、たくさんの星を集めると、幸せが訪れるって聞いたことがある」
「ふーん、兄上はもの知りさんだね?」
「いや、これは母上に教えてもらったんだ。……そうだ、アリスのためにテントウ虫をいっぱい集めてあげよう」
妹の顔がぱーっと明るくなった。
きっと一緒に遊んでほしかったのだろう。このところ剣術の稽古ばかりしていたので、あまりかまってあげることができなかった。わざわざテントウ虫を見せに来たのも、そういう意思表示のあらわれだったにちがいない。
「わーい、ありがとう。じゃぁ、わたしも兄上のためにテンウムシを集める。兄上が幸せになれるようにと願いをかけて」
「じゃぁ、どっちが、どれだけたくさん集められるか競争だね」
少年は小さな木剣を木陰に起き、そのすぐ近くにあった柳の木の下へと向かった。
そこには、たくさんのテントウ虫がいる。きっと、いっぱい集められるにちがいない。
だって妹は、これからたくさんの幸せをつかむことになるのだから。
そう、その頃はまだ、そんな未来を疑いもせずに信じていた。
でも、もう、あの頃には決して戻れはしない。
異界と隣り合わせのこの世界は、今日も絶え間なく変化し続けている。
『第一話 魔法になった少年』
そこは粘つくような闇に閉ざされた狭い部屋だった。
地下に造られているせいか、時折、天井から湖水の滴が染みだし、したたり落ちる。
そこに七人の男が立っていた。
「皆のもの、分かっておるな。今こそ、これまでの成果を発揮する時ぞ。長年にわたる秘術の研究……決して敵方に渡してはならぬ」
ぶ厚い石に囲まれた壁と床に声が鈍く反響し、ほかの男たちを震わせた。
男たちは皆、暗い灰色の修道服を身につけていた。その背後にある燭台はわずかばかり。 微かな蝋燭の炎は室内のすべてを明るくするにはほど遠く、だからこそ異様な雰囲気に包まれているのは誰の目にも明らかだった。
そんな男たちの前には、なぜか金貨や銀貨や数多くの宝石類が山のように積まれていた。
その中心に一人の少年が横たわっている。
まばゆい金銀財宝とは対照的に、粗末な木製の寝台に寝かされた少年は血まみれだ。
左の腕はすでに手首から先がなく、その身を守る革製の軽鎧には数え切れないほどの弓矢が突き刺さっていた。他にもいくつかの刀傷があちこちに見られる。
まだ生きているのが不思議なくらいの状態だ。
「もう残された時間は少なく、ほかに取るべき道もない。このまま敵に包囲され、降伏すれば、待っているのは、はてなき拷問という地獄だけだ……」
悲痛な面持ちが部屋の中をぐるりと見まわした。
決然とした意志ともとれる声音である。
「そのとおりです。祠祭士長様……。このままでは、どのみち我々には死が待っておりましょう。そして多くの民には奴隷となる道しか残されておりません。瀕死の状態にある若君の命と避難した民を救うには、もはやこうするよりほかに道はないのです。敵方に寝返ったローヌ・セメンテス子爵をはじめ、西ルミナス帝国側の狙いは歴然。いまや西側は貪欲に魔法の秘術を研究し、大陸の再制覇を成し遂げようと躍起になっております。
たとえ精霊教会の教義に違反しようとも、魔法の秘奥に関わってしまった我らが取るべき道は、それに対抗しうる力を生みだすこと。我らの命と、そして、これら大量の魔法贄物があれば、きっと成功いたしましょう。その結末こそが我ら祠祭士の本懐であり、西ルミナス帝国軍に対する報復ともなりえるのです」
「うむ、おぬしの申すとおりじゃ。西側は魔術書の開発を強引に推し進めているとも聞く。なのに万民融和を標榜する我らが女帝陛下様はどこまでも平和主義を貫かれるおつもりだ。しかも、その娘、いや皇女殿下におかれては、これまた惰弱な精神の持ち主だという。聞けば四大魔法もろくに扱えぬそうな……。このままでは我が東ルミナス帝国は、いずれ西側に飲み込まれてしまうであろう。セメンテス子爵が反乱を起こしたのも無理はない。我らの死は、そのように安穏とかまえる陛下への警告ともなるであろう」
祠祭士長と呼ばれた男は、よほど口惜しいのであろう、その手に力が入り、握る短刀の先が小刻みに震えていた。
やがて先ほどの男が末期の言葉を口にし、呪文を唱えだす。
「では、ひと足先に精霊界へ参るといたしましょうか……はるか創世より万物流転の理を支配せし創造の神アルケミス。その秘されたる力を響かせよ。我らの思いに耳をかたむけ、ここに、その奇跡を顕現させよ。我らの命を糧とし、偉大にして常しえなる精霊界の門を開きたまえ。そして、その秘奥の力を、かの少年に与えたまえ。我らが魂を生け贄とし、そのすべてを捧げたてまつらん……」
そんな呪文を唱えながら男は手に持つ短剣を自分の胸に突き立てた。
激しく鮮血が舞いあがり、山と積まれた財宝を赤く染める。
しかし、そのほかの男たちに動揺の色はほとんど見られない。いや、それどころか、ほぼすべての男がそれにならい、それぞれが手にした短剣を自分の胸に突き立てていく。
それは凄惨な儀式の始まりだった。
「我らの命を捧げん……」「我らの命を捧げん……」
「我らの命を捧げん……」「我らの命を捧げん……」
「我らの命を捧げん…………」
それから、どれくらいの時間が経過したであろうか。
中央に置かれた寝台から、ゆっくりと少年が起きあがった。
そこに残されていたのは祠祭士たち六人の亡骸と彼らの流した血だけである。
その他には何もなく、ただ残酷な狂気だけが闇の中を支配していた。
やがて起きあがった少年は、その目を大きく見開いた。
「あぁぁぁぁぁ……」
脳裏によみがえる絶望に狂おしく叫び、体に突き刺さる弓矢を乱暴に引き抜いた。
両手で激しく髪をかきむしる。
不思議なことに、なかったはずの左手がそこにはちゃんと存在していた。
その、薄く輝く透明な左手を見つめ、それから少年は闇の中を凝視した。
そこに奇妙な生物がいた。蝙蝠のような翼を持つ蜥蜴のような姿をしていた。
その奇妙な生物が少年に語りかけた。
「そなたは今日より我のものだ……。すでに死にかけていたおぬしが、まだ生きていられるのは我が力のおかげである。その魂の半分は我がものとなった。すなわち、そなたの肉体は魔法となってしまったのだ」
少年は闇に閉ざされた世界の中で、その声を聞いた。
そして、その夜、一人の祠祭士が密かにその修道院から逃げだした。
さかまく波が湖面をゆらし、竜巻にも似た暴風が吹き荒れていた。ぐっと腰に力を入れ、地面に剣を突き立てていないと満足に立っていることもままならない。
「なんじゃ、どうなっておる? 西側の艦隊が次々と沈んでいくではないか!」
東ルミナス帝国と西ルミナス帝国の国境ぞい。
その国境線をまたいで広がる北部最大の湖――ナタリア湖。その岸辺から望遠鏡を使って、小島に建つ精霊修道院の様子をうかがっていたエルファイド伯オーエン将軍は太った体をワナワナと震わせながら大声を張りあげた。
湖面に浮かぶ小島。そこに建つ精霊修道院。それは修道院とは名ばかりの、れっきとした戦闘要塞である。
東ルミナス帝国において精霊教会の修道院とは、いざという時の避難場所を提供する施設のことを指し、すなわち民の命を守る城塞としての役割もはたしている。
それゆえか、かの軍勢が、あのちっぽけな修道院を襲撃するのは予想の範疇ではあったが、まさか、あのような大艦隊まで差し向けるとは思っていなかった。
しかも、今は、それ以上に驚くべきことが起きている。
なんと、その修道院の周囲は荒れ狂う暴風にすっぽりと包まれ、それによる大波のせいで西ルミナス帝国側の艦隊はすでに壊滅しようとしているのだ。
ただ、おかしなことに、その修道院以外の上空はすっきりと晴れわたり、いつもと変わらぬ静かな湖面をたたえている。いかに勇猛果敢な国境兵を指揮する将軍であろうとも、今、目の前で起きている異常な事態には驚きをかくせない。
「うむむ……これは、どう見ても魔法のなせる技じゃな。……いや、だとしても、この規模と威力は絶大すぎる。いったい何が起きているのだ?」
「もしや、進退きわまった祠祭士たちが、何かよからぬことをしでかしたのでは?」
驚くエルファイド将軍の背後には三人の副将がひかえていた。
その一人が、そっと耳打ちをした。
金髪に碧眼。端正な顔立ちをした青年将校である。さらに艶やかな黒い髪に白皙の容貌をもつ美しい女性将校が、その青年の疑問を引きついだ。
「――かのナタリア修道院では、過去の記憶に埋もれていた古の魔法を極秘に研究していたと聞いております。今回、敵の急襲を受けて討ち死にされたブレア子爵様は、確かそれを支援し、金銭的な援助も行っていたとか……」
「まさかセメンテス子爵が敵に寝返り、最終的にここを狙ったのも、それが狙いか!」
全身に怒気をにじませ、三人目の将校が語気を荒げる。
並々ならぬ体躯の持ち主である。二メルトを越す長身に燃えさかるような赤い髪。その全身をこれまた深紅の鎧でおおい、人の背丈ほどもある大きな長剣をかついでいる。
「えーい、なんと早まったことを! 裏切り者のローヌ・セメンテスはすでに討ち取っておる。あとは、この修道院を敵の手から開放すればよいだけであったものを……」
「ですが、すでに敵方は総崩れ。おかげで手間がはぶけてようござらぬか」
赤髪の男が大きな長剣を地面に突き立てた。
ドスンとした地響きを足の裏に感じたが、将軍は、その頼もしさに安堵することなく目を細め、再び修道院へと望遠鏡を向けなおした。
修道院へと続く大きな橋はすでに破壊されており、その残骸の向こう側には、なぜか十字架が立てられている。その十字架に一人の少年が貼りつけにされていた。
少年の体は頑丈な鎖で十字架に固定されており、その周囲からは異常なまでの魔力の輝きが確認できる。
「いや、それも、まだ確定とは言えぬな。じゃが、これほどまでに凄まじき大気魔法だ。もはや疑いようもあるまい。あの少年……ローエン・ブレア子爵殿の御子息が、その古の魔法とやらの正体なのやもしれぬ。
ここは一刻も早く助けにいかねばならんが、しかし、こうも修道院の周囲が荒れ狂っておるのでは手の出しようもないではないか……」
「いえ、きっと心配には及びますまい。包囲していた敵の艦隊はすでに壊滅しております。じきに魔法も終息を迎えることでしょう」
そう云いおき、黒髪の美女が湖に向かって大量の銀貨を投げ入れた。
「では私が魔法を喚起しますので、その後からついてきてください。
さぁ開け異界の扉。偉大なる氷雪の精霊よ。我が魂に魔力の恩恵を与えたまえ。その身が眠る凍てつく泉の深淵に、この世のすべてを閉ざしたまえ、氷結結界!」
と同時に燦然と輝く魔法陣がその水の中に浮かびあがった。
すると、どうしたことか、あれほど荒れ狂っていた湖面が瞬く間に凍りついていくではないか。吹き荒れていた風もじょじょに収まり、辺りは静寂に包まれる。
やがて全軍に命令が下り、凍てついた湖面へとオーエン将軍旗下の軍勢は修道院に向かってゆっくりと前進を開始するのだった。
氷のように冷たい風が、まるでカミソリの刃ごとく肌を刺していた。
――滅びろ。滅びろ。滅びろ。
寒さに震える歯の隙間から呪詛の言葉がもれ続ける。
荒れ狂う風と、さかまく波に翻弄され、西ルミナス帝国軍の軍艦は修道院に近づくことさえもできず、次から次に転覆し、荒れ狂う波間に消えていく。
――沈め。沈め。皆もろとも水底へ。
その惨劇を闇に沈みきった眼差でもって、その少年は見つめていた。
国境の守りを固め、補給線を維持する役目をになっていた父は、いきなり敵方に寝返ったローヌ・セメンテス子爵の襲撃を受け、その居城とともに討ち死にした。
父の部下からも敵方に寝返る将校が続出し、少年は妹とともに城から逃げだした。
母はその燃えさかる城と運命をともにした。そして、その逃げる途中で幼い妹も少年の馬から落ちてしまい、あっというまに敵の手につかまり殺害されてしまった。
少年は、護衛する兵もなく、ただ一人で落ちのび、生きているのも不思議なくらいの重傷を負いながら命からがら修道院に転がりこむこととなったのである。
いや、修道院の祠祭士たちが、その命を生け贄として捧げ、禁断の魔法を成功させていなければ、とっくに少年も死んでいたであろう。
その修道院には戦火から逃れてきた避難民が大勢集まっていた。
といっても、籠城するのに適した要塞とはいえ、さすがに十数隻もの軍艦に取り囲まれてはひとたまりもない。六門の大砲を備えた戦艦が多数――その攻撃に耐えられるだけの強固さを修道院は持ち得ていなかったのである。
おまけに満足に戦える兵士も少なく、避難民のほとんどが非力な民衆ばかりだった。
周りを湖に囲まれているために逃げ場もない。もはや敵の手に堕ちるのは時間の問題かと思われた。
だが、少年には、ある途轍もない魔法の力が与えられていたのである。
その託された力だけが敵に対抗しうる唯一の手段だった。
もう迷っている暇はなかった。
少年は、すぐさま修道院の前に十字架を立てさせ、その十字架に自分の体を縛りつけるよう幾人かの男たちに命じた。その何重もの鎖は、強力な大気魔法に吹き飛ばされてしまわないようにするためのものだった。
少年は、すでに理解していたのである。
自分の身体に、いったい何が宿ってしまったのかを――
その力をもてあますことなく使いきり、避難している人々を守るには修道院の外に出て敵を迎え撃たねばならなかった。
その試みは成功した。西ルミナス帝国の艦隊は、その攻撃力を発揮することなく大きな波に飲まれ、あっというまに全滅した。
その悲惨な結末を、少年はじっと暗い目で見つめていた。
その胸にあるのは恐怖と、切ない怒りと憎悪。
それ以外には何もない。心の中に闇がまた一つ増えただけである。
――滅びろ。滅びろ。滅びろ。
少年は呪詛の言葉を繰り返した。
そして四年の月日が流れた。
額に流れる汗、汗、汗。それを乱暴に拭いながらシルフィスは深い森の中を全力で疾走していた。ここはナタリア湖の東側に広がる原生林の森。そんな春先の森は青々とした木々におおわれ、そこかしこに涼しげな風を生みだしていた。その風を肌に感じながらシルフィスは魔力の気配を探ろうと意識をするどく拡散させた。
ふと、前方に気配を感じたシルフィスは、その勢いのまま右へと跳ね飛んだ。
そこにある太い木の枝に足をかけ、空中へと躍りでる。
「さぁ開け異界の扉。燦然と閃くは火神アグニウスの血より生まれし灼熱の申し子たち。弾けろ火焔砲弾!」
高らかな声――そんな呪文とともに赤髪の男が下草の茂みから現れ、その手に持つ長大な剣を薙ぎはらった。
見ると、先ほどまで走っていた地面に赤く輝く魔法陣が展開している。それが消えるまでのごくわずかの刹那にシルフィスは、その模様が示す内容と魔法の規模を見定めた。
「くそっ、やはりまたあれか。何発撃ったら気がすむんだ!」
心なしか、シルフィスの銀色の髪はところどころが焼け焦げ、チリチリになっていた。
やがて、その軌跡を追うように大きな火の玉がいくつも発生し、それらが深紅の輝きを放ちながら次々と襲いかかってきた。一方、シルフィスも青い宝石を装着した細長い羽矢のようなものを取りだし、それを地面に向けて投げつける。
矢のようなものが地面に突き刺さり、宝石は砕け散るようにして消滅した。
その宝石は精霊界に捧げる宝物で魔法贄物と呼ばれている。
そして呪文は、精霊界の扉を開くための呼びかけであり、魔力の属性や、その規模を読み解くこともできる魔法陣は、奇跡が具現化する時に現れる発光現象である。
その過程をえて、異界から不思議な力が供給されるのだ。
その力を人間界に出現させたものを魔法と呼ぶ。
「さぁ開け異界の扉。水神アクエリスが眠りたる泉を守護せし水龍の咆哮。うがて水燕斬!」
ひらたい形をした水流の刃が空中で火の玉と衝突し、そこに爆発をひき起こす。
その衝撃に抵抗することなくシルフィスは、さらに空たかく舞いあがった。
「むむ、まるで猿のごとき身の軽さじゃな!」
そんな声が微かに届いた。樹間の隙間からかいま見ると、深紅の鎧を身につけた男が燃えさかる炎のような形をした長大な剣をかまえていた。その得意とする魔法の属性を彷彿とさせる赤い髪に鋭い目つき。厳つい顔をしているが、どことなく愛嬌もある。
その男の名はデューク・バーンシュタイン。
北の国境を守る名将、オーエン・エルファイド伯爵の副将にして炎焼魔法の使い手だ。
そんな彼の勇名は帝国中に鳴り響いている。
「ふぅっ、あれは危なかったな。ここは距離をあけて、いったん仕切り直しといきたいとこだけど……うわわっ!」
しかし、そんな暇は与えてくれない。そこへ間髪入れず、鋭く尖った氷塊の弾丸がまるで乱れ撃ちのように襲いかかってきたからだ。シルフィスは上空で身をひねり、それを躱しながら手にする刀剣の刃に一枚の銅貨を滑らせた。そして慌てたように呪文を唱える。
「ひ、開け異界の扉。火神アグニウスの加護をもって撃破しろ――火燕斬!」
滑らせた銅貨が消滅すると、握る刀剣の周囲に魔法陣が浮かびあがる。それを振りぬくと、そこから火炎で構成された魔法の剣が出現し、氷塊の弾丸に向かって殺到した。
またもや大きな爆発が起きる。
その衝撃に颯爽と髪をなびかせる若い女がそこにいた。
白銀色の鎧を身につけ、悠然と立つその姿はとても美しい。
艶やかな黒髪に陶器のような白い肌。その瞳は南海の黒真珠ように輝いている。
彼女の名はミリア・ミスリル。水演魔法を得意とする魔術騎士だ。
彼女ほど水演魔法を自在に操る人物をシルフィスは他に知らない。
しかも先ほどの攻撃――氷槍連撃は水液魔法における第一級位の魔法だ。
大気中の水分を瞬時に凍らせ、とてつもなく危険な凶器を生みだし、それをまるで手加減なしに連続して乱射してくるとは、まったくとんでもない女騎士である。
シルフィスは冷や汗をかきながら跳躍をくり返した。
空中で一回転し、地面に着地する。
ところが、すでにそこには魔法贄物が仕込まれていたのだった。
まちがいなく先ほどの攻撃は、ここへ誘いこむための罠だったのだろう。
「……うわっ、まずいっ!」
「ふふふ、油断しましたな」
ふと見れば、すぐそばの木陰に金髪碧眼の男が立っていた。すごく端整な顔立ちをしているが、革製の軽鎧に深緑のローブをまとうその姿はなんとなく怪しげに見える。
名はエグセム・バハムート。辺境の三強騎士の一人にして大地魔法の使い手だ。
その口が余裕の微笑をたたえ、不気味な声で呪文を唱えだす。
「さぁ開け異界の扉。精霊たちの住まう聖なる地。そこに眠りし獣たち。古き森の賢者よ。異界より来たりて我が意に応えよ。召還、緑の賢者!」
すると、あちこちの地面から緑色した植物の塊のような怪物がはい出してきて取り囲み、すばやく、その蔦のような触手でシルフィスの身体を絡めとった。
「……ううっ、なにこれ? なんか、すごく気持ち悪いね……」
「気持ち悪いとは失敬な。緑の賢者は第三級位の精霊獣ですぞ」
しかも、その呪文にはまだ続きがあったのだ。新たに二枚の銀貨が魔法贄物として精霊界に与えられ、そこに二つの魔法陣が完成する。
「さぁ開け異界の扉。堅固なる大地の守護者よ、その雄々しき姿を見せよ。ここに来たりて我が意に応え、敵を迎え討て、召還、岩石巨兵!」
「うわっ、さらに巨岩兵を呼び出すなんて、かなりの無茶だよ。しかも二体も!」
エグセムの魔法陣から召還されたのは岩石を繋ぎ合わせたかのような巨人だった。その身の丈は三メルトはあるだろうか。人の倍を超す巨躯の上には岩石を荒く削ったような顔が乗っている。その両眼がギラリと光る。巨岩兵は大地魔法においては第二級位の精霊獣として位置づけられている。すなわち、かなり手強いということだ。
「魔術騎士の戦いに無茶もへったくれもありませんぞ、若君」
エグセムが勝ち誇ったように嗤う。
「くそぉ、そもそも凄腕の魔術騎士を三人も相手に戦えというのが無茶なんだよ」
それに、なんだか今日の訓練はいつになく厳しい。
「だったら、こちらも奥の手を使わせてもらうしかないね」
そう言うや、シルフィスは左手をおおう黒い手袋をはずした。その手袋には複雑な魔法陣が刺繍されていた。その中から出てきたのは薄く透明に輝く掌だ。その掌を無造作に空中へとさまよわせる。たったそれだけで、そこに幾つもの魔法陣が展開しだす。
「わ、若君……ま、『魔人』の力は使わないと約束したではありませんか!」
エグセムが慌てたように後ずさるが、もう遅い。
そこに捧げる魔法贄物は一つもない。唱える呪文も必要ない。
「ふん、そんな約束なんて、もー知らないね。それに『魔人』の力といっても、その一部じゃないか。ラピとは融合してないんだし」
シルフィスが手を振りかざすと、そこから突風が巻き起こり、目に見えない斬撃が飛びかった。体を拘束していた緑の賢者の触手はその瞬間に細切れとなり、今にも襲いかからんとする二体のゴーレムも、その近くにあった大木とともに切り裂かれた。
といっても、精霊獣に『死』という概念はない。破壊されたり、役目を終えると、さっさと精霊界へと帰ってしまうのだ。
とはいえ精霊獣の召還を成功させるには、かなり値の張る魔法贄物がそれなりに必要だ。おまけに、その魔法を操るには、かなりの精神力と集中力が必要になる。
なので、この結末はきっと割に合わないだろう。
だが、ここは相手に同情している場合じゃない。
さらに竜巻のような突風が荒れ狂い、緑の賢者を吹き飛ばす。
そして、その勢いのままシルフィスは再び大空へと舞いあがった。
思ったとおり、そこに追撃の魔法が殺到する。
――氷槍連撃と火焔砲弾だ。
シルフィスは空中を素早く移動し、その攻撃を躱す。
それはまるで空中を飛んでいるかのような身のこなしだった。
さてもエルファイド伯爵家の養子として迎えられてはや四年。魔法や剣技の修行に明け暮れてきたシルフィスは、すでに、その身に宿る力をいかんなく発揮できるくらいの体術は身につけている。その一つが大気魔法による飛翔術だ。
「さぁ開け、異界の扉。切り裂くは飛竜の牙と爪、竜牙爪撃!」
べつに呪文など必要としないので、これは、いわゆる気分的な問題である。
やがて、その目には見えない真空の刃が大地をとどろかせた。まさに会心の一撃だった。
そう、この四年間、ただひたすら技を磨いてきた日々。そのなかで行われてきた実戦なみの訓練だが、しかし、彼らに勝利できたためしは一度もない。なにしろ相手は辺境の三強騎士と謳われる帝国随一の戦士なのだ。それも当然のことだろう。
だが、今日は一味ちがう。訓練では初めて、その身に宿る力の一部を解き放ったのだ。
きっと、今日こそ一泡吹かせてやれるにちがいない。
そんな確信をもっての一撃だった。
ところがである。その凄まじき魔法の連撃はほぼ同時に喚起された大地魔法によって防ぎきられてしまったのだ。驚くシルフィスの眼前で大地が盛りあがり、その土砂の壁がすべての魔力を吸収する。
「――我らを守護せし大地の力。押し返せ、地殻返動!」
しかも、高らかな詠唱が魔法の完成を告げるや、先ほど放った魔法がすべてこちらに向かって殺到してきたのだ。もはや咄嗟のことで避けようがない。
なんとか魔力の暴風を引き起こし、それを防御に変えて威力を分散させたが、すべてを防ぎきることはできなかった。
無数の切り傷とともに全身に痛みが走った。
それでも、なんとか空中で姿勢をたてなおし、よろけるように地面に着地。
そこへ唸るような剣閃の輝きがかすめる。
まったく息つく暇もない。それを紙一重で躱す。だが、すかさず、また別の方向から槍の連撃か繰りだされる。その切っ先を弾き返すと、今度は細い刃筋の猛攻がくりだされた。
その打突が頬をかすめ、そこに血がにじむ。
一歩まちがえれば、命を落としかねないほどの激しい剣撃だ。
やがて訓練は、そのまま剣術の指南へと移行していく。
シルフィスは必死になってそれに耐えた。
波うつ刃形。フランベルジュと呼ばれる炎のような形状をしたデュークの長剣。
相手を突き殺すことを目的としているミリアの細い剣はエストックと呼ばれる。
そして、強烈なまでに鋼の重みを感じさせるエグセムの武器はハルベルト。それは槍と斧が一体化した形状をしており、切り裂き、薙ぎ払うといった多彩な攻撃が可能である。
それらの武器が息もつかせぬ早さで襲いかかってくる。
シルフィスが手にしている武器は武骨な刀剣がただ一本。
三人の連携攻撃に翻弄されて防戦一方である。
それからどのくらい剣撃の嵐が続いただろうか、やがて何十合目かの打ち合いののち、とうとうシルフィスは尻餅をついてしまった。
もう立っていることもできなかった。そんなシルフィスを見下ろす三人の騎士たちは、どこか満足げであり、それでいて、どこか寂しげな表情を浮かべていた。
「だいぶ、腕をあげられましたなぁ……」
「これなら、いつ戦場に出ても大丈夫。もう教えることも少ないですね」
しみじみ呟くエグセムの様子にシルフィスはどことなく違和感を覚えた。
ミリアの静かな声と無表情はいつものことだが、そこにも、どこか哀愁が漂っていた。
「いやぁ、それにしても、我らを相手に、ここまでの勇戦。さすがは若君でござるなぁ。あはははははははは……」
豪快な笑い声をあげるデュークだけは、いつもとなにも変わらなかったが、その笑顔もまた、いつもよりどこか精彩を欠いているような気がしてならなかった。
そのデュークがシルフィスを立たせようと手を差しのべてくれた。
思えば、その手を握り返すのは初めてのことなんじゃないだろうか。
大きくてゴツゴツとした男らしい手だった。
シルフィスは汗を拭い、その手を悔しげに握りかえした。
長い冬の終わりを告げる爽やかな風が木陰を吹き抜けていく。そんなシルフィスの頭上を飛翼青竜に似たおかしな生物がのんびりと飛翔していた。
そして、その夜のことである。
養父に呼ばれたシルフィスは疲れた顔にはっきりと戸惑いの色をにじませていた。
「あのぅ、今なんと、おっしゃいましたか、将軍……?」
ここはエルファイド将軍の私室である。
昼間に訓練をしていた原生林の森からさらに東へ十キロメルトほど離れた丘の上には堅固な要塞が建っている。その名はヘルムスタット城。
北部辺境の地ノランド地方を治めるエルファイド伯爵家の主城である。
その武骨な外観は華美とはほど遠く、要塞としての機能だけが際立っている。
それゆえか、その内部もまた想像にたがえることはなく、どこもかしこも質素である。部屋も廊下もすべてが石造りで、夜ともなるとかなり冷えこみが激しい。
だが、この私室だけはどこか異質だった。部屋の中にはたくさんの本棚が林立し、そこには大陸中から集められた書物が所せましと並んでいる。
魔術の研究書に戦術書。政治や歴史。哲学に文学。その数は数千冊にもおよぶ。シルフィスも、その中から取りだした書物を教科書にして色々と勉強させられたことがある。
その家庭教師は、あのいつも無口で無表情なミリアだったので、とても退屈だった。
ともかく部屋の奥にある簡素な机を前にして、その人物は座っていた。
名はオーエン・エルファイド。
東ルミナス帝国軍から中将の位を与えられ、伯爵として北部の国境を守る重大な責任を負わされた貴族軍人の一人である。
だが、その姿はどう見ても軍人らしくなかった。体格は少々肥満気味で、なにかと笑顔の絶えないふくよかな面持ちは武人と言うよりも、どこか学者めいた雰囲気がある。
いや、その見た目どおり彼は戦う事よりも学問をこよなく愛していた。
しかも、心の底から戦争を嫌っており、仕事だから仕方なく義務を果たしているという心情が、週に一、二度しか顔を合わせないシルフィスにも伝わってくるのだから、どれほど温厚な性格なのかは知れたものである。
だからであろう。とかく臆病者との誹りを受けることもままあるのだが、なぜか実際に戦となると必ずそれに勝利する。辺境の三強騎士が副将にいることも、その理由かもしれないが、きっと、それだけではないはずだ。
その勝利には、彼の知性と冷静さが大きく貢献しているにちがいない。
ただ、そのことを知る者が少ないというだけの話である。
「やれやれ、今日も、あの三人を相手に、そうとう厳しい訓練をしたようじゃな」
養父オーエンは深い溜息をついた。
シルフィスの顔や手足には、いたるところに擦り傷や切り傷があった。
あれだけ激しい訓練をしたのだから、それも当然のことだろう。
ただし、その傷はもうすでに回復しかけている。
「ま、それはそれとして、まだ父上と呼んでくれないところが、すーごーく悲しいぞ」
ローヌ・セメンテス子爵の裏切りで家族を失ったシルフィスは、跡継ぎのいなかったこの伯爵家に迎えられ、エルファイド将軍の養子になった。それから四年の月日が流れたものの、いまだに父上と呼ぶのには、ちょっとした抵抗感と遠慮があった。
なにしろ、もとの家格は子爵家だったし、いまだに武功の一つもあげていない。
それになにより、まだ、ちゃんとした初陣も果たしていないのだ。
「あの、すみません、ち、ち……」
そのうえで先ほど、とうてい受け入れられない話を耳にしたのである。
「ほれ、もう少しだ。ちち、ちち、ちち……ほれ、はよ言わぬか」
なんか心なしか、その口調がいやらしい。そう聞こえるのは気のせいか。……しかも、その両眼もどこか血走っていて、とてもじゃないが父上と呼べるような雰囲気ではない。
「いえ、それより先ほどの話ですが、将軍……」
「うわーん、いじわるっ!」
机につっぷしてこの世もなく嘆く養父だが、別にいじわるをした覚えはない。
とりあえず無視しておくとしよう。
「あのぅ、なにかの聞きまちがえでは?」
「いんや聞きまちがいでも冗談でもない。おまえは来月から帝都にある士官学校の生徒になるのだ。このエルファイド伯爵家の跡取りなのだからな、それも当然のことだ」
そう言いながら、養父オーエンは読みかけの本をパタンと閉じた。
ちらりと見えた本の題名は、『寒さにも負けず、すくすく育つ元気な穀物』
この北の大地はどこもかしこも痩せこけていて、作物の収穫高は決してよろしくない。
その問題に頭を悩ませているのだろう。とはいえ、もう少しましな書物はなかったのかと少しばかり養父の読書傾向が気にかかるところだ。
「ちょっと待ってください。いくらなんでも、いきなり士官学校の生徒になれだなんて、そんなの時間の無駄だと思います。ぼくは学問で学ぶより実戦で経験を積みたいのです。だから、申しあげているではありませんか、早く初陣に立たせてくださいと――」
すると、養父はまるで頭痛でも堪えるかのように、こめかみを揉んだ。
「まーた、その話か。いかんいかん。初陣なんぞ、もってのほかだ。だいたい今の時勢を考えてもみよ。我が東ルミナス帝国では、先年、大きな地震が起きたばかりだ。一方、西側も大干ばつで多くの餓死者が出たという。そのような天災続きで戦どころではないわ。もっか双方で話しあいがもたれ、和平の交渉が行われている最中なのだぞ。
それにな、初陣はなるべく十六歳以上という規則もあるのだぞ。おまえはまだ十四歳だ。なんでまた、そんなに急ぐのか。……まぁ、その気持ちも分からなくもないのだがな……。だが、言っておく。たとえ十六歳になっても、今のままでは戦場には連れてはいけぬ」
「どうしてです。ぼくは、そのために四年間、修行を続けてきたのに……」
家族を奪った西ルミナス帝国と、裏切り者のセメンテス子爵に対する憎悪はいまだ心の中でくすぶっている。そのセメンテス子爵は養父の手によって討たれ、すでに、この世にいない。おかげで、その闇は日を追うごとに薄れてはきているものの、その憎しみは心の中の刺となり、または熾火のような存在となって、シルフィスの心を炙り続けている。
その痛みが戦いへの渇望となって心を呪縛しているのだろう。それは自分でも自覚していることだ。実戦なみの激しい修練に身を置くのは、その行き場のない怒りが時折、爆発しそうになるからである。
「うむ、修行の成果は耳にしている。その点はよくやったと誉めておこう。剣術、馬術、体術、魔法――そのどれにおいても、おまえは優秀だろうな。なにしろ一流の家庭教師が三人もついているのだからな。今さら学校で学ぶことなど少なかろう。
だがな、人はそもそも戦いだけを求めて生きていけるものではないのだぞ。それは死へと向かう破滅の道ぞ。命の重みを知り、その生をまっとうするのが本来の人の道だ。だが、おまえを見ていると、戦いにのみ、その命を燃やそうとしているとしか思えん。本当に知るべきことは、ほかにもたくさんあるのだぞ。どう生きるかを学ぶことこそ大切なのだ」
「あのぅ…、すみません。仰っておられる言葉の意味がまるで分からないのですが……」
本当に分からなかった。
いや、命の重みという言葉なら、なんとなく理解できる。
戦争で家族を失った自分だからこそ理解できる。
なのに、自分はなぜか戦いを求めて心を彷徨わせている。
だが、そんな戦いへの渇望さえなくしたら、いったい、あとには何が残るのか?
きっと、多くの死と、胸にこびりつく闇色の憎悪しか残らないのではないだろうか?
「じつを言うとな、……わしはな。自らの命を犠牲に秘術に手をだし、おまえの中に精霊を宿して、その身体を魔法となさしめた祠祭士たちに対しては、今だに怒りを抱いている。
あの時、多くの者を救うには、そうするよりほかに方法がなかったのかもしれないが。いや、だからこそ。その犠牲の重みを、おまえがずっと抱えこむ必要などないのだぞ」
本当に、そうだろうか? ……いや、やはり失われた命の重みは、それを奪った者がずっと背負い続ける事になるのではないだろうか?
我知らずとシルフィスは重々しい表情を浮かべてしまう。
さても西ルミナス帝国軍は、その占領した土地の住民を本国へと連れ帰り、新たな労働力として利用するのだそうな。
つまり奴隷だ。その強制労働はかなり過酷で時には死者が出るほどだと聞いている。
だが、すぐに殺されたりはしないだろう。大切な労働力として扱われるのだから。
一方、四年前、祠祭士たちが行った古の魔法によって生き長らえた自分は、おそらく西ルミナス帝国側の軍勢よりも多くの命をその戦いの中で奪っている。そんなシルフィスを英雄視する人も中にはいるが、その行為をどれだけ正当化しようとも、しょせん人殺しは人殺しなのである。あの時、修道院を取り囲んでいた軍艦にはいったい何人の兵士が乗り込んでいたのだろうか? 少し考えれば分かることだ。しかも、あの時、自分は激しい憎悪に囚われ、敵の軍勢が滅びることだけを願い、それを魔法の力によって実行した。
それだけに心の中の闇は深く、そのことを思い出すだけで冷たい刃物で胸をえぐられるような、そんな痛みが心に鋭く突き刺さる。そして父も母も妹も、そんなくだらない戦争の犠牲になった。だからこそ戦争が憎い。だからこそ、これ以上、悲しい犠牲を出さないためにも、この国を守る戦いに少しでも役立ちたいとシルフィスは願っている。
それが自分の使命だと信じている。なのに、ここを離れて、しばらく士官学校で学んでこいと養父は言うのだ。一日でも早く強くなって、あの三人のように戦で活躍できるようになりたいと願っているのに……。
でも、これだけは確かだ。そう、たとえどこへ行こうとも、この心の痛みは決して消えはしないだろう。薄れはすれど消えることはない。忘れることもない。それは心と体に絡みつく堅固な鎖のような呪縛となって自分を闇の檻に閉じこめ続けることだろう。
やがて、そんなシルフィスの心情が分かるのか、いつしか養父までが沈鬱な面持ちを浮かべていた。
「まぁ、今のおまえに、戦い以外のことに目を向けろと言っても、それはなかなか難しいことだとは思うが……」
妙な静けさをもった声がぽつりと胸の中に落ちてきた。その諦念のような言葉が、もっと強くなりたいと願う心に、どこか不安にも似た焦燥感を募らせる。
「……だが、お前が背負うその十字架の……その半分くらいは、わしも一緒に背負わせてもらいたいと、そう願わずにはいられない。おまえは好きなように生きればいい。この家を継ぎたくなければそれもよい。魔法や戦術に没頭するもまたよし。
ただし、今のままでは、とうてい戦場では役にたたん。心に闇を抱いて戦場に立ち続ければ、まちがいなく、それはいつか命取りになるからだ」
「そんな事を言われたら、ぼくは、どうしたらいいのか分からなくなります……」
「まぁ、今はまだ分からなくともよい。焦る必要などないのだ。世界は、おまえが思っているよりも、ずっと広いのだぞ。おまえの心も、その世界と同じくらいの広さを持っているはずだ。闇に閉ざしたおまえの目が、それを知ろうとしないだけだ。
だから、シルフィスよ。いろんな世界を見てくるといい。
いろんな出会いを経験するといい。そこから学べることはたくさんある。
そうして、いつか、そなたの抱える闇が、その世界の広がりによって薄まり、少しでも心安らかになれたなら、きっと、この私の願いも分かってくれるだろう。
だがな、今のまま心に闇を抱き続けて生きていけば、その行き着く先も必ず闇しかない。
それはきっと世界一不幸なことだ。そんな事にはなってほしくはないのだよ。
おまえは、このエルファイド伯爵家の跡取りで、私の大切な息子なのだから」
やはり言ってることの半分も理解できなかった。
しかし、養父の自分に対する愛情だけは、なんとなく心の中に落ち着いた。
それだけに、また別の使命感のようなものが芽生えてくる。
そう、士官学校は別に強制的なものではない。貴族軍人のすべてが士官学校を卒業しているわけではないのだ。――とはいえ、その学校を卒業すれば武官としての未来は確実に保証される。きっと養父は戦場に立つ前に、自分をしっかり見つめ直してこいと、そんな想いも込めて今回の帝都行きを決断してくれたのだろう。
「分かりました将軍。ならば、その士官学校とやらで必ず立派な成績をおさめてみせます」
シルフィスは決然と言い切った。
なのに、なぜか養父は机につっぷして頭を抱えている。
あれ、何かまちがったことを言ったかな?
ようやく決心がついたというのに、なんで、そんな心配そうな顔をするのだろう?
シルフィスには、まったく理解ができなかった。
西ルミナス帝国の北境の都市、イアメルは物々しい城壁に囲まれた大きな町である。
その円形都市の中心には、さらにいくつもの水堀に囲まれた巨大な城が建っていた。 その名をイアメル城という。
それは西ルミナス帝国でも類をみない壮麗な建造物だ。白漆喰と銀箔におおわれたその姿は、さながら雪の結晶のような儚さがあり、時には白鳥のごとき美しさに喩えられる。
だが、その城門の一歩外に出てみると、城内とはまるで異なる別世界のごとき光景を目にすることになるだろう。
その町はどこもかしこも活気がなく、いたる所に重苦しい空気が漂っていた。
町の大通りですら貧民街かと思うような暗い雰囲気に包まれており、商店も数が少なく、行きかう人々に笑顔はない。
いや、まだ夜も更けて間もない頃だというのに人通りはすでになく、どの家からも明かりらしい明かりが漏れてこない。――というのも、この町に暮らす人々は皆、重い税に苦しめられており、そんな人生の苦しみを酒で紛らわせる余裕すら持ちあわせていないのだ。
その闇に沈む廃墟のような町の中央に、華美な城だけが月の光を浴びて輝いていた。
その城中の一室である。
「なにが和平だ! ふざけるな! 魔術書の開発に成功した今こそ攻め時ではないか!」
男の声が響いた。やけにかん高い怒声である。
声の主は、この北部一帯を治めている大領主、レイモンド・アスタロテ公爵だ。
公爵は怒りにまかせ、棚に飾ってある花瓶を床に叩きつけた。
パリンと乾いた音が一瞬の静寂を打ち破る。小さいながらも、それはかなり高価な花瓶だった。平民なら、その花瓶を売った金だけで半年ほどはゆうに暮らせるだろう。
それをただの癇癪で叩き壊せるのだから、よほど裕福なのである。
それも証拠に、その室内には数々の調度品が置かれ、おまけに天井にはガス灯のシャンデリアがいくつも吊されていた。おかげで部屋の中は煌々とした明かりに満ちている。
ほかにも獰猛な肉食獣の毛皮が絨毯がわりに敷き詰められており、古今東西の名画が四方の壁を彩っていた。
やがて、その部屋にあるソファーに公爵は憤懣やりきれぬといった顔でドカッと腰を下ろした。病的なまでに痩せた身体は不摂生な生活の賜物であり、決して清貧さのあらわれではない。おかげで、かなり老けて見える。年齢はまだ三十代の半ばなのに四十代後半か五十代にも見える。そんな公爵の前にフードつきのローブで全身をおおった魔術士の男が座っていた。その男がフードの下からくぐもった声を発した。
「公爵様、少しは落ち着かれるがよろしかろう」
「これが落ち着いていられるか! ようやく我がアスタロテ家が他家に先立ち魔術書の開発に成功したというのに、ここで和平の条約など締結されては元も子もないではないか。再三、攻戦あるのみだと皇帝陛下に上奏申しあげてきたが、聞き入れてはもらえぬようだ」
公爵はそう言いながら、先ほど届いた書簡をくしゃくしゃに丸め、砕け散った花瓶の残骸の上に放り捨てた。それは西の帝都ルナリエラから届いた皇帝陛下直々の書簡である。
「して、皇帝陛下はなんと?」
「今しばらく戦は控えろとの仰せである」
苦虫を噛みつぶしたように公爵は吐き捨てた。
魔術士のフードが少し持ち上がり、その口元があらわになる。
「ならば、この私に一計がございます」
「なに、一計とな?」
くっくっと、そのフードの下から咽をひっかくような笑い声が漏れた。
「はい、私が東ルミナス帝国へ赴き、その流れを変えてみせようというのです」
「はて、おぬし、何をするつもりだ? もうすでに双方の使者が集まり、和平交渉の会談が始まっているというぞ。今さら、この流れは変えられまい」
「ですが、東の姫君が暗殺されたとなればどうなりましょうや?」
「よもや、その東の姫君というのはルミナ・ルミナリエル皇女のことではあるまいな?」
「はい。その皇女様のことでございます。このたび士官学校へ入学するにあたりカルデルナ宮殿を出られたそうです」
「ほぉぉ……つまり暗殺しやすい状況にあるということか?」
「そのとおりでございます。警備の厳しい王宮内ではなかなか手が出せませんが、士官学校ならいくらでも、その機会はございましょう。異例とも言える今回の皇女様の士官学校への入学。なにやら、その裏には政治的な思惑も感じられます」
「うむ、そちの申すとおりじゃ。確かルミナ皇女は御歳十四歳。なぜか理由は分からぬが、やたらと友人を欲しがることから『寂しがり屋の皇女様』などと揶揄されておるらしい。
おまけに四大魔法もろくに使えぬ出来損ないと聞く。自らも戦場に立って兵を指揮し、勝利の女神と崇められた母とはえらい落差であるな。まぁ、その女帝陛下も今では万民融和を唱える平和主義者に落ちぶれているそうだが……。
それゆえか、いくら皇位継承権第一位であろうとも王宮内での扱いは、それこそ鼻つまみ者であったと聞く。しかも大学で医学を学んでいたというが、それも、よからぬ研究ばかりしていたせいで退学になってしまったとか……」
「どうも、そうとうな変わり者のようですな」
「だからであろう。ほかの皇族や大貴族からはあまりよく思われていないようだ。今回の士官学校への入学も、まちがいなく、そういった背景が関与しているのであろうな」
「そこで、ぜひ、私に、あの開発したばかりの魔術書を一冊お貸しくださいませぬか?」
「ふむ、それはかまわぬが。……そちは本気で皇女の暗殺を成し遂げるつもりか?」
「はい。命がけの任務になりましょうが必ず成功させてみせます。これは魔術書の力を実戦で試すよい機会かとも存じあげます」
「なるほど。そのような皇女なら暗殺するのも容易いかもしれんな。もし皇女が暗殺されたとなれば、もはや和平の会談どころではなくなるだろう。よし、この一件、おぬしの好きなようにやってみよ。お膳立てはしてやる。思う存分に魔術書の力を発揮するがよい」
ならば、この私に一計がございます」
「なに、一計とな?」
くっくっと、そのフードの下から咽をひっかくような笑い声が漏れた。
「はい、私が東ルミナス帝国へ赴き、その流れを変えてみせようというのです」
「はて、おぬし、何をするつもりだ? もうすでに双方の使者が集まり、和平交渉の会談が始まっているというぞ。今さら、この流れは変えられまい」
「ですが、東の姫君が暗殺されたとなればどうなりましょうや?」
「よもや、その東の姫君というのはルミナ・ルミナリエル皇女のことではあるまいな?」
「はい。その皇女様のことでございます。このたび士官学校へ入学するにあたりカルデルナ宮殿を出られたそうです」
「ほぉぉ……つまり暗殺しやすい状況にあるということか?」
「そのとおりでございます。警備の厳しい王宮内ではなかなか手が出せませんが、士官学校ならいくらでも、その機会はございましょう。異例とも言える今回の皇女様の士官学校への入学。なにやら、その裏には政治的な思惑も感じられます」
「うむ、そちの申すとおりじゃ。確かルミナ皇女は御歳十四歳。なぜか理由は分からぬが、やたらと友人を欲しがることから『寂しがり屋の皇女様』などと揶揄されておるらしい。
おまけに四大魔法もろくに使えぬ出来損ないと聞く。自らも戦場に立って兵を指揮し、勝利の女神と崇められた母とはえらい落差であるな。まぁ、その女帝陛下も今では万民融和を唱える平和主義者に落ちぶれているそうだが……。
それゆえか、いくら皇位継承権第一位であろうとも王宮内での扱いは、それこそ鼻つまみ者であったと聞く。しかも大学で医学を学んでいたというが、それも、よからぬ研究ばかりしていたせいで退学になってしまったとか……」
「どうも、そうとうな変わり者のようですな」
「だからであろう。ほかの皇族や大貴族からはあまりよく思われていないようだ。今回の士官学校への入学も、まちがいなく、そういった背景が関与しているのであろうな」
「そこで、ぜひ、私に、あの開発したばかりの魔術書を一冊お貸しくださいませぬか?」
「ふむ、それはかまわぬが。……そちは本気で皇女の暗殺を成し遂げるつもりか?」
「はい。命がけの任務になりましょうが必ず成功させてみせます。これは魔術書の力を実戦で試すよい機会かとも存じあげます」
「なるほど。そのような皇女なら暗殺するのも容易いかもしれんな。もし皇女が暗殺されたとなれば、もはや和平の会談どころではなくなるだろう。よし、この一件、おぬしの好きなようにやってみよ。お膳立てはしてやる。思う存分に魔術書の力を発揮するがよい」
『第三話 アンナの秘密』
春の陽気がポカポカと教室の中を満たしていた。
そんななか、アンナ・プラティヌスは今にも欠伸の出そうな眠気を堪えながら黒板の板書に意識を集中しようと必死になって目をこじあけていた。
なにしろ一年生の一学期である。授業の内容もごく初歩的なものだった。
なので、じつに退屈なことこの上ない。
なのに、隣の机からはカリカリカリカリと鉛筆を走らせる音が聞こえてくる。
見れば、ルミナ皇女殿下がこまめにノートをとっているのだった。
さらに、その隣……確か、シルフィスという名前だったか、その男子生徒も生真面目に鉛筆を走らせている。
ほかの生徒たちは皆、自分と似たりよったりである。誰もがしょぼしょぼとした目をしており、時折、その目を擦りながら授業の終了を待ちわびていた。
なかには立てた教科書の陰に隠れて完全に熟睡している大胆な生徒もいたりする。
「――さて、長年の研究により、魔法は大別して主に五つの系譜に分けられることが判明しております。ルミナ皇女様、お分かりになりますか?」
ここは士官学校の一年生校舎。その二階にある講義室である。
講義の内容は魔法における歴史的な背景とその変遷。
授業を担当しているのは学級担任のジェシカ・エレミナ女性教諭だ。
その声はとても穏やかで、たいへん耳に心地よい。まるで子守歌のようだった。
「うむ、この世の摂理に働きかける超自然的な魔法――大気魔法、炎焼魔法、水液魔法、大地魔法の四つと、魔法贄物の原料となる異界資源を精霊界から召還したりする異次元的な魔法――錬金魔法のことじゃな」
さすがは我らが皇女様。誰にでも分かる質問にもまじめに対応してくださる。
そんなルミナ皇女にアンナは授業もそっちのけでひたすら感動を覚えてしまった。
「はい。そのとおりです。そして、それらの魔法を駆使することで大ルミナス帝国はhttps://otaniayumu.livedoor.blog/
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