【短編】初めて出来た最愛の彼女が事故で記憶喪失。そして俺は振られたが……?

天道 源

【短編】初めて出来た最愛の彼女が事故で記憶喪失。そして俺は振られたが……?

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●登場人物

安藤海斗(あんどう・かいと) ┃主人公

西池野詩乃(にしちの・しの)┃一目惚れ相手

天川綺羅(てんかわ・きら) ┃詩乃の幼なじみ

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 俺、安藤海斗(あんどう・かいと)が告白を決意したのは、高校一年の夏の日だ。

 一目惚れの末の告白だった。


 相手の名前は、西池野詩乃(にしちの・しの)。

 緩やかにウェーブする色素の薄い髪は生まれつき。微笑む姿はまるで女神のよう。祖父が異国人ということもあってか、真っ白な肌は日本人離れしていた。

 西池野さんは小動物のように愛らしく、誰からも好かれていた。まるで異国のお姫様で、その評判は別の高校にまで及んでいた。


 彼女の隣にはいつも『天川綺羅(てんかわ・きら)』さんが立っていた。西池野さんとは幼なじみだという。

 天川さんは、モデルのようにすらりとした黒髪ロングの美人。運動部ではないようだけど、その体はしなやかで、健康的。まるで姫のよこに立つ騎士のようだった。


 二人は並んで立っているだけで、空気が変わるほどに現実離れした存在だった。

 

 西池野派だろうが、天川派だろうが、二人のどちらかを好きになるというのは大変なことである。

 当然、恋愛敵は多い。

 そして俺は一目惚れした結果、西池野派となっていた。

 

 恋愛レースの始まり? ――残念ながら、エントリーする気持ちすらわかなかった。遠くから見ているだけでもういいや、というのが至極まっとうな意見だった。


 正直なところ俺には勝ち目がなかった。

 なんの特徴もない。すべてが普通。勝ち目なんてない戦いをする気はない。


 けれども。

 人生というのは不思議なものだ。

 時間が巻き戻ってしまったら、二度と再現できないような偶然が俺と西池野さんとの間に幾度も発生した。


 奇跡は意図せずして起こる。

 だから奇跡という。

 俺はこれからそれを、身をもって知ることになる。


     ◆


 はじまりは大雨の日だった。


 西池野さんが不幸に見舞われた。

 傘をさして歩いていた道。

 歩道の脇を高速で走り抜けたトラックは路にたまった水を周囲に撒き散らした。

 結果、まるで大波のような水しぶきが美少女の頭から爪先までを襲った。一つ間違えればシュールなギャグにも見えた光景を、俺は曲がり角を曲がった瞬間、偶然に目撃した。


 普段ならば見て見ぬふりをしたものだけど、状況のひどさに思わず助けに入ってしまった。

 なにせ、美少女二人がビショビショなのだ。

 美女がびしょびしょ、なんて冗談を言ったら殴られそうなほどである。

 

 二人に話しかけるより先に、親からいわれてバッグにつっこんでいたスポーツタオルを差し出した。

 濡れた制服のシャツは透けていてみていられなかったので、西池野さんにはブレザーを貸して事なきを得る。天川さんには持ち帰っていたジャージの上を手渡す。

 西池野さんは非常に恐縮していたし、いつもクールな天川さんが慌てていたのが印象的だった。とくに天川さんの胸のあたりは大事故で、張り付きすぎて、ただの肌色だった。


 ひと段落つくと、西池野さんはペコリと頭を下げた。


「ありがとう、ございます……あの、同じ学校ですよね。お名前は……?」

「あ、えっと、安藤です。安藤海斗……」


 これが俺と西池野さんとの初めての会話だった。

 遠くで見ているだけだった彼女と急速に接近することになった一件。

 ピンク色の唇が俺の名前を紡いでくれただけで、もう十分だった。

 人生最良のときであり、最初で最後の幸運だろうと思った。


 なのに、それだけでは終わらなかったのだ。

 これを奇跡と呼ばずして、なんと呼ぶのだろうか。


 たとえば自動販売機で西池野さんが小銭が足りなかった時に俺が通りかかる。たった10円を貸す。すると翌日、別のクラスの西池野さんと天川さんが俺のクラスまでやってきて、小さな袋を差し出す。


「昨日のお礼に、クッキー焼いてきたんです。綺羅ちゃんと一緒に」


 夢みたいなイベントだった。

 校内でも屈指の人気を誇る二人からのお礼である。

 たった10円の助けが、とんでもない倍率で払い戻しされていることは奇跡以外のなにものでもなかった。


 橋の下に捨てられていた子犬を見つけてしまった西池野さんと天川さんが困っているところに通り掛かったのもやはり偶然だ。三人で里親を探すことになったのは必然。

 休日にチャラい大学生からナンパされて困っているのを助けたのも偶然だ。その後にお礼と称して三人でケーキバイキングでお茶をしたのは必然。


 本当にただただ運が良いだけだった。

 偶然が必然へと変わっていっただけだった。

 もしも俺に利点があったのだとしたら、それは奇跡的な運というだけである。


 天川さんから教えてもらったことだけど、正直なところ、俺という存在は西池野さんのタイプではないという。

 西池野さんは王子さまのようなタイプが好きだったようだ。身長が高くて、爽やかで、勉強もスポーツもできる少女漫画の登場人物みたいな男子だ。


 だから正直なところ、俺の告白はただの自己満足で終わるはずだった。

 勢いだけで行う度胸試しみたいなものだった。


「西池野さん。ずっと前から好きでした……! タイプじゃないのは知ってます。でも俺と付き合ってもらえませんか……!」


 失敗確定のダサい告白――でも、西池野さんは小さくうなずいてくれたのだ。


「タイプじゃない人、初めて好きになったんです。きっとこれが本当に好きになるってことなんだと思います」


 自分でも信じられない回答だったが、夢ではなかった。

 俺はそのころ、だいぶ仲良くなっていた天川さんにチャットアプリで報告をしたものだ。なにせ西池野さんに告白するまでに相談に乗ってもらった回数は両手の指だけじゃあ足りないほど。

 二人だけで休日に作戦会議なんかも組んでもらったりもした。

 でも一つだけ疑問もあった。

 なぜそんなにも親身に俺の相談に乗ってくれたんだろうって。

 西池野さんにとって俺がタイプでないことぐらい、幼なじみの天川さんなら知っていたはずなのに。

 わざわざ失敗するような告白に、どうして相談にのってくれて、ここまで付き合ってくれたのだろうか。


『カイト:天川さん! 告白成功した!』

『綺羅:知ってるよ笑 詩乃からも連絡あったからね』

『カイト:ほんとに、ありがとう! 天川さんが相談乗ってくれたおかげだ!』

『綺羅:そんなことないよ。わたしは何もしてない。安藤くんがこつこつと思いを重ねた結果』


 こつこつと思いを重ねる――やっぱりそういうことなんだろう。

 偶然の連続が必然となり、この告白は成功したのだ。

 逆に言えば、道を一本間違えただけで、西池野さんとの出会いは存在しなかったということになる。

 もしも時間が巻き戻ってしまったら、二度と同じ結果にはたどり着けないかもしれない。

 そう考えると、この結果は奇跡の連続によるものだったのだ。


 夏休み中に付き合い、夏休みが終わり学校が始まると、俺と西池野さんの関係は衝撃と共に校内に伝わった。

 うらみつらみの宿った視線を向けられたが、西池野さんの手作り弁当を食べればそんなものはすぐに消えた。

 当初こそ『安藤くん』『西池野さん』と呼び合っていたが、時期に『海斗くん』『詩乃』と呼び合うようになり、天川さんによく茶化された。


「詩乃をとられて寂しいなあ。どうせなら安藤くんには、わたしのことも『綺羅』ってよんでもらおうかな〜?」

 

 そういうときの詩乃は、いつも恥ずかしそうに頬を膨らませて、「こらっ。海斗くんはわたしの彼氏なんだから、ダメだよ……?」と嫉妬してくれた。

 それがひたすら嬉しくて、その度に俺は絶頂していたものだ。


 ただただ最高な日々だった。

 ただただ幸せな毎日だった。

 もう他には何もいらないと思った。


 でも、日常は一瞬で壊れる。

 俺はそれを身をもって知った。


 冬。

 クリスマスに街が染まる十二月。


 詩乃は――交通事故に遭い、ここ数ヶ月の記憶を失った。


     ◆


 記憶にはいくつかの種類があるという。

 無意識な記憶。

 体に染み込んでいる記憶。

 意図して覚えた記憶。


 その中でもエピソード記憶というものは、出来事の内容の記憶である。人生のイベントや、それに付随する感情なども含めた記憶ということだった。


 十二月初旬。

 粉雪が舞い散る夜半に、詩乃は車のひき逃げにあった。

 犯人はすぐに捕まったが、西池野さんは頭を強く打ち、四日間も意識が戻らなかった。

 俺は天川さんと、毎日病院へ足を向けた。


 天川さんは詩乃の手を握って、わんわんと泣いた。

 クールな彼女からは想像できないほどの取り乱しようだ。


「どうして、こんなことに……! 詩乃……! 目を覚ましてよぉ……!」


 俺はといえば、現実感がわかずにふわふわとした時間を過ごしていた。

 このまま涙なんて出ないまま、すべてが夢のように消えてしまうのではないかと思った。

 元々雲の上のような出来事の連続だった。その果ての結果だ。いつ消えても不思議ではなかった。


 しかし、現実は想像以上に残酷だった。


 事故から五日目の夕方。

 いつものように天川さんと病室に訪れると、詩乃はすでに目を覚まして、ベッドの上で上半身を起こしていた。

 不思議そうに俺たちを見た。


「詩乃!」


 天川さんがベッド側に駆け寄り、西池野さんを抱いた。


「目が覚めたんだね! よかった……! よかったぁ!」

「わわっ。綺羅ちゃん、苦しいよ……ねえ、それより、ここどこ? まさか病院? なんでわたし、こんなところにいるんだろう……?」

「何も覚えてないの? でも、よかったよ、目が覚めて……!」


 仲の良い姉妹のように顔を近づけ話す二人へ、俺は安堵と共に近寄り――そして絶望した。


 西池野さんは俺を見て、眉を顰めた。

 それはまるで不審者を認めたときのように、嫌悪感が滲み出ていた。


 俺は思わず足が止まる。

 西池野さんは口を開いた。


「あの、どなたですか……? 綺羅ちゃんのお友達……?」

「……え?」


 困惑の声は俺のものか。それとも天川さんのものか。

 正解は最後までわからなかった。


 わかったことと言えば一つ。

 精密検査の上での診断は『逆行性健忘症』。

 彼女は高校に入学した直後から今までのエピソード記憶を喪失していた。


 つまり。

 俺が積み上げてきた奇跡のような出来事の数々は。

 彼女にとっては存在しないことになったのだ。


     ◆


 地獄の日々だった。

 それは俺にとっても、西池野さんにとってもそうだろう。


 なにせ中学までの記憶はまったく問題なく存在している。

 高校に入ってから一ヶ月ほどの記憶もある。

 しかし俺と出会ってから数ヶ月の記憶がごっそり抜け落ちているのだ。


 自分の記憶に存在しない男子生徒――それもタイプでもなんでもない人間が『あなたの彼氏です』と名乗っている。俺との思い出をなくしてしまった彼女にとっては、ただの悪夢だろう。


 病室で二人きりになって話したかったが、西池野さんが極端にそれを嫌がった。

 天川さんが隣に立つ中、西池野さんは困惑したように、こんなことを俺に尋ねた。


「あの、本当に私たちは、付き合っていたんでしょうか……?」


 すると天川さんが口を挟む。


「何回聞くの、詩乃。わたしが嘘をつくわけないし、安藤くんだってそんなことする人じゃないよ……!」


 天川さんは俺の気持ちを思ってくれてなのか、随分と感情のこもった声をあげてくれる。しかしそれは逆効果なようで、西池野さんはいつも戸惑ったり、気分を害したりしていた。


「なんでそんなこというの。綺羅ちゃん怖いよ……」

「……ごめん。でも詩乃が安藤くんにひどいこというから」

「でも、覚えてないんだから仕方がないでしょ? わたしだって、困ってるんだよ。知らない人に、そんなこと言われても」

「だから知らない人じゃないんだってば……」


 そんな会話をそばで聞いていると、胃液が逆流してきそうになる。


 それでも俺は毎日、詩乃の病室へ足を向けた。

 退院はまだ先だが、冬休みに入る前ということもあり、年明けまで学校は休むことになっている。だから詩乃が俺のことを思い出すための時間はまだたくさんある――はずだった。


 明日はクリスマスイブ。

 俺は尋ねた。


「なにか欲しいものある? 詩乃が欲しいものがあれば、なんとしても手に入れてくるよ」


 そばで見ている天川さんは無言だ。

 日に日に天川さんと詩乃の仲はぎこちなくなっているように見えた。

 その全ては『記憶にない人間のせい』である。

 つまり俺が二人の仲を割いている。


 詩乃が恐る恐る言った。

 こちらは一切見ない。


「なんでも、いいんですか」

「うん。もちろん。何でも言ってくれていいよ」

「なら……もう来ないでほしいです」

「え?」

「――ちょっと詩乃!?」


 大きな声は天川さんのものだ。

 いつもなら二人の言い合いが始まるけれど、今日は違った。

 詩乃は天川さんの声が聞こえなかったかのように俺に語り続けた。


「ごめんなさい。正直に言います。記憶にない人にいきなり『彼氏です』って言われても、ただ怖いだけなんです……だから、ごめんなさい。私が悪いんです。それは認めます――だから、私と別れてください……」


 それから詩乃は泣いた。

 悲しみというより、恐怖による涙に見えた。


 俺は半笑いのまま固まっていた。

 だってそうしないと泣き叫んでしまいそうだったから。


 病室に、しくしくと詩乃の声だけが充満していく。

 酸素が消えていく。

 俺は呼吸を忘れているようだった。


 こうして俺と詩乃の関係は終わった。

 奇跡が繋いでくれた間柄は、元から存在しなかったかのように霞となって消えたのだ。


 俺はなんとかうなずいた。


「うん。わかった。もう明日から、こないよ」


 それから病室を飛び出した。

 それぐらいが俺にできる逃避行だった。


     ◆


 男だからというか、俺だからというか、それはわからないけれど――とにかく未練たらたらの俺は奇跡を待って生きていた。


 奇跡というのはつまり『記憶が戻る可能性』ということだ。

 インターネットや図書館で調べた限り、健忘症――いわゆる記憶障害は、ふとしたきっかけで正常に戻ることがあるという。


 もう一度頭に衝撃を受けるとか、そういうことが引き金になることもある。

 それどころか、何気ない日常で急に戻ることもあるという。

 

 もしもそういうことが起これば、俺と詩乃の間柄は当たり前のように戻るはずだった。

 だって俺たちは好きあっていたのだから。


     ◆

 

 光陰矢の如し。

 時はあっという間に過ぎていく。

 病室でフラれてからすでに数ヶ月が経っていた。


 学校が始まると詩乃は、当たり前のように俺のいない生活を再開した。

 どうやら記憶障害のことは公表しないようだ。

 高校に一ヶ月ほど通った記憶はあるため、クラスメイトとの関係もなんとかなっているらしい。


 しかし俺との関係はどうにもならない。どうしようもないため、距離を置き、あとは人の噂に任せるほかなかった。ほっといても『別れたらしい』ということは周知されるだろう。


 天川さんは病室で俺がフラれてからというもの、必要以上にかまってくれるようになった。

 たとえば落ち込んでいる時には、そばによってきて、背中を摩ってくれた。


「きっと大丈夫だよ。すぐに記憶は戻るから。そしたら詩乃と元どおりの関係になれるよ」


 たとえば学校の昼食時には、詩乃のかわりみたいにお弁当を作ってきてくれた。


「ご、ごめんね。詩乃みたいに上手くできなくて。おにぎりだけなんだけど……あしたは、がんばるから」


 たとえば学校の帰り道に家に帰りたくなくてブラブラしたくなったときも一緒に当て所もなく歩いてくれた。


「気が済むまで歩こうよ。きっとそのうちどこかにたどり着くから」


 これまでの天川さんはいつも詩乃の隣に立っていた。

 小動物みたいな詩乃の横に、従者のように寄り添っていた。

 それが今では俺の横で、俺を支えてくれている。


 すぐに終わる関係だと思っていたが、いつまでもいつまでも、天川さんは一緒に歩いてくれた。

 それはつまり『詩乃の記憶が戻らない』ということでもあった。


 詩乃の事故から、すでに半年が経っていた。

 その頃になると、詩乃の新しい記憶も十分に補完されており、消えた数ヶ月が戻らなくとも、当たり前のように人生を歩むことができるようだった。


 人生というものは不思議なものだが、人間というのも不思議なものである。


 あんなに辛かったはずなのに、秒針が一つ進むごとに痛みがゆっくりと消えていく。吐きそうなほどの強迫観念が、少しずつ瓦解していく。

 もちろん天川さんのおかげということもあるだろう。

 詩乃のいなくなった場所に天川さんが立ってくれている。

 三人が二人になってしまったけれど、それでも俺のことを支えてくれる。


 でも――それは俺が彼女を縛り付けていることでもある。


 だから俺は言ったのだ。


「天川さん。もう、大丈夫だよ。俺は平気だから――だから、もう、詩乃の隣に戻ってあげてよ」


 彼女は俺の提案に驚いていた。

 それから小さく首を振った。


「安藤くん、なにか勘違いしてる。別に無理なんてしてないよ、わたし。ずっと好きでそばにいるし、むしろこれからもこのままがいいの」

「……? それってどういう――」

「――こういうこと」


 唇が暖かくなった。

 天川さんの顔がすぐ目の前にあり、すぐに離れた。


 キスをされた――気がついたのは数秒後だった。

 詩乃ともしたことがない行為。

 全てがいっぺんに上書きされるような衝撃だった。


「あ、え……?」


 俺は困惑するだけだった。

 わかっているのは、天川さんの顔も真っ赤だということ。


 天川さんは、俺の目をまっすぐに見た。

 強く、ブレのない視線だった。

 クールな彼女に似合う切れ長の目が、俺の心を掴んで離さない。


「詩乃のことは忘れてよ――海斗くん」

「忘れてって……」


 詩乃は好きで俺を忘れたわけではない。

 でも偶然が起きて、俺との思い出は全て消えた。

 そして他人となった。


 俺は好きで詩乃を忘れるわけではない。

 でも偶然は消えて、詩乃との関係はすべて消えた。

 そして他人に戻った。


 何が正しいのかはわからない。

 けれど俺が待てば待つほど――詩乃の記憶が戻るように祈れば祈るほど、詩乃に迷惑をかけているのだということは、察していた。


 そもそも俺は知っていた。

 詩乃が一学年上の先輩に好意を持っていることを。

 俺に向けられていた親しみのある視線が、王子様みたいな男子生徒に向けられていることを。

 それを正面から受けていた人間からすれば、手に取るようにわかっていた。


 もういいかな、と思った。

 もういいよな、と思えた。


 それに本心を言えば、俺だって天川さんに惹かれていたのだ。

 詩乃とはまるでタイプの違う彼女。

 詩乃が犬なら、天川さんは猫だ。

 付かず離れずいつも側にいてくれる。

 それが心地よい。


 キスをしてから、どれくらいの時間が立ったのだろうか。

 記憶は年月を超えたが、秒針はただ前に進むのみ。

 俺は鎖を断ち切るように、ゆっくりと力を入れてうなずいた。


「いつも側にいてくれてありがとう……これからも一緒にいてくれたら、嬉しい」

「うん……!」


 妙に子供っぽい声を出して、天川さん――いや、綺羅がもう一度キスをしてきた。

 俺は何かを忘れるように必死に彼女を抱きしめた。


 人生とは不思議なものだ。

 

 何かを失っても、何かが舞い込んでくる。

 奇跡のような出会いが霧のように消えたと思ったが、奇跡のような出会いは一人だけではなかったのだ。


 そう。

 冷静に考えてみれば、詩乃だけではなく、俺は綺羅とも奇跡の時間を積み重ねていたのだ。


「ほんとうは、すこしずつすこしずつ好きになっていった。でも海斗くんが詩乃を好きだったのはわかったから――我慢して諦めたの」


 その言葉に救われた。

 これからはまた新しい人生が始まるのだ。


 周囲から『西池野詩乃から天川綺羅に乗り換えたクズ』とか『なんであんな奴が相手にされるんだ』とか『幼なじみをひきさいたゴミ』とか色々と言われたけれど、俺はそれでよかった。


 全てが事実だと思うし、全てが虚飾とも言える。

 大事なことは俺の側に綺羅が立っていてくれるということだけだ。


 その頃には俺にも余裕ができていた。

 なんなら『詩乃が幸せになれますように』なんて祈ってさえいた。


 祈り――それは都合の良い言葉だろうか。

 不安を消すための、魔法の言葉にしてはいけなかっただろうか。


 時間は早い。

 満たされていれば尚更だ。

 高校も三年になると、進路の問題が出てくる。

 

 放課後の屋上。

 人目を避けての逢瀬も慣れたものだった。

 綺羅は俺に寄りかかりながら言った。


「大学さ。同じところ、絶対受かろうね。地方だからね? それでここを出てさ、知らない土地に二人で一緒に住もうよ。それでその土地で結婚もして……えと、あと、子供、つくろ? 三人ね」


 恥ずかしいほどの提案。

 でも、それは裏を返せば、思い出を捨てるということだ。

 俺と詩乃と綺羅が出会った場所――それを捨てる。


 でもそれは俺たちの幸せのためには必須だったのだ。

 俺は頭の片隅で恐怖していたに違いないし、綺羅だって同じ気持ちだったに違いない。


 俺たちは幸せだった。

 出会いから数年。

 事故から数年。

 もう色々なことは過去になっていた。


 詩乃にも、新しい彼氏ができている。

 すべてはうまくいっているのだ。


 そう。


 だから早く高校を卒業して、俺たちはこの土地を離れる。

 そして遠くの知らない街の大学に二人で通って、卒業し、就職し、結婚をして、子供をつくる――そんな当たり前のような日々に幸せを見出すのだ。


 放課後のチャイムが鳴った。

 どこかで事故が起きたらしく、遠くから救急車の音が響いてくる。

 偶然は重なるものらしく、別の方角からの救急車が数台学校のそばを通ると、パトカーと消防車もけたたましい音をたてて走り去っていった。

 あまり良い気分ではなかった。色々なことを思い出す。

 

 綺羅も同じ思いだったようだ。


「ねえ、帰ろ? ……あと、今日、お部屋にいっていいかな?」と帰宅を促してきた。


 二人で下校するのももう当たり前となった。

 俺と綺羅はいつも、周囲に誰もいないことを確認してから指をからめて手をつなぐ。

 

 視線を合わせて微笑む。

 綺羅はクールだけど可愛い。

 二人きりになると、やけに子供っぽくなって、甘えてくる。

 俺はそんな綺羅が大好きだ。

 このまま世界が終わるまで、二人きりで過ごせたらいい。


 もう奇跡なんて、俺にはいらない。

 俺たちに必要なのは、ただひたすら当たり前のようにすぎていく時間だけ――その時だった。


 背後から。

 声がした。

 それは。

 とてもよく知っていて。

 随分となつかしい。

 彼女の声だった。


「――あの、綺羅ちゃん……だよね? なんで、海斗くんと手を繋いでるの……? 私、なんだか頭が重くて……救急車の音が頭に響いて……ねえ、それで、なんで二人は手を繋いでるの……?」


 奇跡は意図せずして起こる。

 俺はそれをよく知っていた。

 それが今発生しただけのこと。

 これは奇跡であり、偶然であり、そして必然だった。


「……っ」


 息を飲んだのはどちらか。

 俺たちは繋いだ手を震わせながら、ゆっくりと振り返った――。

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