狼は食べられたい

石山雄規

狼は食べられたい


 夜の路地裏だ。月明かりも出てやしない薄気味悪さだってのに普段は考えもしない近道に走ったのは単に早く帰りたかっただけ。帰って寝たかった。それもこれも年下の学生副店長に威張り散らされて鬱憤が溜まってたのが原因だ。畜生、殴ってやりゃよかった。

 だから通りかかったのは偶然だ。たまたま金髪の男たちと一人の女が言い争ってるのを見たとき、俺は心底うんざりしたね。引き返して大通りを練り歩く気分じゃないからな。ただでさえ狭くて汚い路地裏、分かれ道なんてありゃしない。だが俺は真っ直ぐ行くことにした。面倒くさいってのはなにより優先されるんだ。

 ところが少しばかし変だった。なにが奇妙かってその女。男たちの方じゃない、奴らはいかにもキメてそうな阿呆面のもやしみたいな体だったんで、別にどうってことはない。女だ、女。こんなホームレスの寝っ転がってそうなゴミ溜めには到底不釣り合いな感じ。美人ってのは前提だな。男たちも暗くて顔が見えづらいからってわざわざブスは選ばねえだろう、顔がいいのは当たり前だ。

上品なんだなこれが。雰囲気っていうか微妙な仕草がそこら辺の女と違うんだ。髪を触る瞬間の艶めきとかモナリザもひれ伏す完璧な姿勢とか、ありゃどっかのお嬢様か、なんて俺は思ったね。掃き溜めに鶴って言葉がよく似合ってた。俺だけじゃなくきっと一億人に聞いてもおんなじような感想が返ってくるに違いない。ともあれ変な女だったんだ。

 そしてそれだけじゃなかった。その女のもっと目を引くところは、呆れ返るほどに阿呆みたいな表情の変化と、唾飛ばしまくりの肥溜も真っ青な罵倒だった。ほんと、矛盾してたよ。月とスッポンが金もないのに同棲してるみたいで。あの女、自分から溝に足を突っ込んだんじゃないかって思ったな。でも、だったらほいほい付いていくだろうし、それもやっぱりおかしかった。

「――――――!!」

 あ、って内にその女、史上類を見ないであろう最悪の暴言を口走った。いやぁ、言葉にできないねありゃあ。それで俺、こいつ殴られるだろうなと思った。俺でなくたってそう思うに違いないね。それくらい酷かった。言葉の分からない類人猿だってニュアンスを理解してグーパンさ。そんなもんだから、俺はこの女はきっと人間じゃないんだろうなって思ったんだ。そうだろう、類人猿にだって分かることが分かってないんだから。そうじゃなきゃその女はきっと、殴られようとでもしたのかもしれないな。

 そういうわけで、俺は笑っちまったんだ。無理もないだろう、こんな頭の悪い現場を見ちまったら。だがそのせいで俺は奴らに気付かれちまった。別にどうせ奴らの間を突っ切るつもりだったから支障はないんだけどさ。いかんせん腹を抱えて悶絶してたもんで、ただでさえ罵倒に耳を真っ赤にしてる最中の奴らには、冷静な判断能力なんて人間らしいもんは欠片も残っちゃいなかったんだろう、俺を見るなり声を荒げて寄ってきたよ。

「――――――!!」

 奴らの言葉は丸っきり猿の鳴き声に瓜二つで、正直に申し上げると人間の俺には何を言ってるのか聞き取れなかったんだ。やんのかてめえとかころされてえのかとか、恐らくそう言ったニュアンスらしきは辛うじて感じ取れたけどさ。

 否定しておくけど、俺はこのときまでこれっぽっちも、本当に一ミクロンだって、嫌がる女を助けてやろうなんて考えはなかった。思いもつかなかったんだ。そりゃあ彼らは猿みたいだけど、だからこそ猿並みには性欲もあるだろうし、そんな湧き上がる本能を目に見えない道徳なんかで押さえつけようなんてのは、むしろよくないことだとさえ思っていたんだ。俺が思っていたのは、さっさと帰りたいってことなんだ。

 そうなんだ、俺は帰りたかっただけなんだ。でも、目の前の猿の群れは俺を睨んで離そうとしない。けれど走るのもそれはそれで疲れそうだった。

 ふと、俺は女の方に目をやった。なんとなくイカれ女が今どんな顔をしているのか気になっただけで、その視線に意味はなかった。ないはずだったんだ。

 その女、笑ってやがった。

 そっから先は俺もお笑いだね。猿どもには目もくれず、俺はその女の前まで走っていく。後ろからは猿の鳴き声がわーわー聞こえたんだろうけど、そんなことはこの際どうでもよかったんだ。多分奴ら、俺が女を連れて逃げるつもりなんだと思ったんだろうな。女の方も似たようなことを考えたに違いない。

 でも違うんだ。俺はその気違いじみた美人の顔面を、ただ思いっきり殴りつけただけなんだ。一発で充分だったかもしれないけど、癪だったんで顔が潰れるくらい殴る、拳を握ってるから両手を使ったって数えられやしないな。とにかく女の顔を殴った。

 俺にしちゃ結構整合性の取れた行動だったかな。でも奴らはそうじゃないみたいだった。理解が追いついてないんだ、知能が低いから。ちょっとの間固まって、その間も俺は殴ってた。ナンパ相手の顔が膨れ上がる頃になって、舐められてると勘違いした奴らは俺をリンチにかかる。俺は全力で走って逃げたね。脱兎のごとく風を切って帰宅したさ。だって俺は早く帰りたかったんだから。多少疲れたし手には赤黒い血がついてて気持ち悪かったけど、不思議にも面倒って感情はなかったんだ。むしろやってよかったと清々しささえあったね。

 そういう経緯で、俺はバイトの鬱憤を晴らすことに成功し、気持ちの良い眠りにつけた。もし今度あの女に会うことがあれば感謝したいもんだ。ほんと、嘘じゃない。そう思った。

 だからこそ、まさか本当に感謝する機会があるとは思わなかったばかりか、むしろ困惑させられるハメになるとは、いやはや流石に思わないだろうさ。


   *


 翌週の朝だ。仕事がなさすぎて音の出し方を忘れたであろう我が家のインターホンが唐突に鳴り響いた。夢だなって確信があったんだけど、連打されちゃ二度寝もできない。

 出るとあの女が立っていた。顔に包帯グルグル巻いてさ。

「お久しぶりですね」

 俺は驚いたね。なにがってその女、どういうわけか手土産持ってきてやがった。

「先日はどうもありがとうございました」

 皮肉たっぷりだって思って、すぐ思い直した。一片の曇りもない満面の笑みをされちゃ、彼女が本気でお礼に来てるんだと思わないのは逆に失礼だろう。おかしなことだ。後ろに警官でもいりゃもうちょっと分かりやすかったんだけどな。一人だった。

 俺の家を探し当てて来たってのは、つまりあの後俺のことを調べたんだ。美人が顔面を殴られたんだから、そりゃ躍起になって捜索するのはいいんだけど、それにしちゃあ、やはり変だった。そういうマイナスの感情が全然伝わってこない。

 それでも当然のことながら、俺はその女が復讐に来たんだと確信していたんだな。元々外れてたネジが殴った衝撃でもう何本か吹っ飛んでったんだろうけど、それくらいの人間らしさは残っていそうだと踏んだんだ。

 だから今さら変に取り繕う必要性を感じず、俺は率直にお礼を言うことにした。

「やぁ俺の方こそ、こないだは助かりましたよ。五つも下のガキに叱られて溜まってたんですけどね、いいストレス解消になりましたよ」

「そうですか。えぇ、私なんかがお役に立てて、よかったです」

 ……理解できなかったね。まじで、同じ人間と話してる気じゃなかった。七十億人もいる人類から唯一除外されてるんじゃないかと勘ぐるくらいにはクレイジーな女だった。とりあえず心の病を発症してるんだろうとは思えたかな。だとしても怖かった、未知のオカルトが具現化して目の前に立ってる気分だった。幽霊なんかよりはずっと恐ろしかったさ。

「私、白瀬アヤメって言います。先日のお礼に参りました」

「中身はプラスチック爆弾ですか」

「カステラです」

「……立ち話もなんだし、上がります?」

「喜んで」

 喜んでときたもんだ。そりゃお茶くらい出さなきゃ失礼に値するだろう、いいとこのお嬢様みたいなんだし、なおさらだ。

 白瀬と名乗るイカれ女は足の踏み場もない四畳半のゴミ箱を一瞥し、嫌な顔をするでもなく和やかに正座で座った。何年前に買ったかも定かでないティーパックでお茶を淹れてやると、彼女は丁寧な所作で、そりゃもうヴィクトリア朝の没落貴族がやるみたいにそっと飲みやがった。綺麗だと思ったね。ただ唇のあたりの傷がまだあんまり塞がってなかったんで染みたんだろうね、一瞬目元が歪んだんだ。その綻びを見て、俺はやっぱりこないだのことを思い出したんだ。

 何から話したもんかほんのばかし考えてる内に、白瀬の方から話し始めた。助かるね。

「私のことから話しましょう。と言っても、あまり話すこともないのですが」

 白瀬の話を纏めると、彼女はどこか遠い街の大きな家に生まれたらしい。年齢は二十一歳でここから三駅先の大学で英文学部を勉強中、その大学は高卒の俺でも知ってる頭のおかしい天才奇人が集まるところだった。高校時代は長距離でデカイ大会も優勝したようだ。趣味でピアノと茶道も嗜んでいるとのこと。参ったね、ちぐはぐだ。

 路地裏での顛末も話し始めた。よるとこの女、ナンパされやすいようわざと一人で深夜の繁華街を練り歩いたって。そのくせ実際にナンパされると、最初はチョロい女に見せかけておいて、後から段々相手を罵倒した、らしい。

「もう少しだったんですよ。でも、あなたが来た」

「抜群のタイミングですね」

「笑い声は想定してませんでしたからね」

「一つ聞かせてもらえるかな」

「ええ」

「君は、男が通りすがりに女の顔を殴るのが悪いことって認識ある?」

「もちろん、道徳的に許されないことです」

「じゃあ何かい、君はわざと自分を殴らせることで相手を陥れようとしたわけだ」

「それは違います」

 自分で言っといて何だけど、これは違うと分かっていたさ。だってそうなら、彼女は俺の家に一人でやって来て呑気に茶なんて飲みはしないだろうからね。だからこそ俺は、この女が今何をしているのか理解しているだろうってことに頭がガンガン痛んだんだ。

「狼と子羊という寓話をご存知でしょうか」

「七匹の子ヤギなら」

「あれは道徳です。ヤギがいくら群れても一匹の狼には敵いません」

「文学部のくせしてガキみたいに無粋なことを言うもんだね」

「まだ扶養所得のお子様ですから」

「続けて」

「……ある朝、迷子の子羊が小川の岸で水を飲んでいました。そこにお腹を空かせた狼がやって来て子羊を食べようとするのですが、あんまりその子羊が弱々しいので、狼は食べるのに戸惑います。そこで食べる口実を探すのですが、どうも子羊は頭がよくって、狼は子羊を言い負かすことができません」

「それで狼はすごすご逃げ帰ったわけだ」

「いいえ、狼は羊を食べるのに理由なんていらないと気付いて、空腹を満たすのです」

「なんだ、賢い狼じゃないか。ただちょっぴり気付くのが遅いかな」

「その通りです。この寓話が私たちに教えてくれるのは、弱い羊はどうあっても強い狼に食べられてしまうという、とてもとても残酷な不条理だけなんです」

「で、絵のない絵本を読み聞かせてくれるのは助かるんだけど、それが何なの」

 俺が詰まらな気にため息をつくと、白瀬は笑って言った。

「私はあなたのことが好きなんですよ」

「はぁ」

「気の抜けた返事ですね」

「君に興味がないんでね。警官を連れてこなかった理由はなんとなく分かったよ」

「受け入れてはいただけないですか」

「そうは思ってないんだろうけど、君は羊ほど弱くないよ。立派さ」

「肩書きだけです」

「見た目がよければ食べられやしないさ」

「ぷくぷく太った羊の方が食べるに相応しいとは思わないですか」

「……君も俺も人間だろう。着飾った羊なら狼にだって成り代われる」

 下らない会話に飽きて立ち上がると、白瀬は靴下を脱ぎ始めた。艶やかな黒のニーソックスだった。太陽を見たことがないんじゃないかって真っ白な指先を這わせてスルスルと。陸上やってたんだから、この白さは丸っきりインチキに映ったね。この女の言うこともやることもどこまで本当なんだか、それとも全部が全部嘘っぱちにしか思えないな。それくらい彼女は行ったり来たりしてるんだ。きっと自分でも何をやってるのか理解してないんだろうな。そうとしか思えなかった。でもその確信は間違っていたんだな。いつもそうなんだ。

 踵には傷があった。縦にかけて、生まれた瞬間からそういう模様が刻まれてたんじゃないかって自然な手術痕。痛そうじゃなかったね、もう終わった、化石みたいだった。

「この傷は、狼の噛み傷です」

「食べられてよかったじゃないか」

「味見ですよ」

 そう言って、彼女はそっと指を上らせていく。

「帰れ。さっきも言ったけど、君に興味がないんだ」

「ではそうします」

 白瀬は俺の言葉に素直に従って、靴下をまた履き直して、名刺を置いて、帰っていった。お笑いだったね。なんたって、彼女は俺よりずっと強い牙を持ってたのに、それが牙だと認めたがらないんだから。この世で最も唾棄すべき毛皮にでも見えてるんだろうね。それとも正しく言い換えるなら、彼女はどうしても自分が狼だとは思いたくないんだろう、かな。その思考そのものが、彼女の嫌悪する感情そのものだって言うのに。ほんと、笑えるよ。


   *


 一ヶ月して、また白瀬がインターホンを鳴らしやがった。ただでさえ不眠気味だってのに、殴ってやるか。でも癪だな。でも殴りてえ。面倒くせえからとりあえず殴ってやろう。

 久しぶりに会う白瀬は、ようやく包帯も取れて、路地裏で見たみたいに綺麗な顔をしていた。すっかり化粧までしてきて、あんなに殴ったのに傷跡はまるで残っちゃいなかったんだ。

「灰原くん」

 白瀬は、とっくに死んだ奴の名前を口にした。けどちょっとの間誰の名前か思い出せなかったね。随分昔のことだからさ、中学の一クラスメイトのことなんて、そうそう覚えていられるもんじゃないからね。だから正直、顔もよく覚えちゃいなかったんだ。

「懐かしい名前だね」

「彼もあなたを見て笑いましたか? 私みたいに」

「馬鹿言え。知ってるんだろ」

「顔も知りませんよ。あなたが殺したってこと以外は他に何も」

「勝手に死んだんだよ」

 ちょいとばかし、殴ったくらいさ。その頃は俺も知恵が回ってなかったからね、他の奴には見えないよう腹とか腕とか、そういう隠しやすいところを殴ってたな。今だったらむしろ分かりやすいように顔をやるだろうけど、とにかくその頃の俺は若かったんだ。灰原の奴が遺書を書くまで、全然気付かれやしなかったね。多少は聡い奴もいたんだろうけどさ、そういう奴に限って関わろうとはしないんだなこれが。いや、一人だけ食って掛かった奴がいたかな、どうだっけ。そいつがまたとびきりの馬鹿なんだな。考えなしのノータリンさ。あうあう唾を吐くしかできないんだ。そのくせ誰にも言いやしねえ。どこまでも中途半端な『正義の味方』、『悪者』を倒したいんなら群れるしかないってのにな。結局痛いのが怖いのさ。

「転校さえしなかったんでしょう。立派です」

「おかげさまで冬だってのに足裏が凍えたよ。靴下も汚れたね」

「みんなあなたが怖いんですよ」

 誰も彼も経験から学びやしないんだよ。賢い奴ほど自分で見たこともない歴史に頼りたがる。阿呆な奴はどうひっくり返したって阿呆だからね、勝てるゲームに挑もうともしないんだ。弱い奴ほどよく吠えるんだな。一発ビンタ食らわされたんだけど、そいつは確か委員長だったかな、女だよ。合唱祭の練習で、ちょっと男子真面目にやりなさいよーなんて言いやがるタイプの。ブッサイクだったんで距離を置いたよ。視界に入れたくもないからね。唯一頑張ったのはそいつくらいなもんさ。

 そんで、白瀬がポケットから封筒を取り出して、俺に渡す。中身を覗いてみると、結構な厚みの金が入っていた。ふぐ鍋をたらふく食っても五劫の擦り切れほども減らないだろう額さ。大学生が持ってちゃ駄目になるね。

「毎月貢がせていただきます。親からの仕送りに加えてバイトも始めました」

 意図は分かったんだけどさ、意味は分からなかったね。ここまでするってのが、どうにもきな臭いんだ。人を殴ったら金が貰えるのはボクサーだけだと思ってたよ。

「これで私に価値を感じていただけましたか」

「とても。ありがたく受け取るけど、君は病気みたいだからね。ちょっと勘弁願いたいな」

「病気なんかありませんよ」

「自分じゃ気付けないもんさ。そりゃ誰だってそうなんだよ。ことさら狂ってる奴ほどね」

「そうですか。それより映画観たくないですか」

 彼女は意味のない会話に無理をして意味を見出さないタイプみたいだった。

「別に」

「なら美味しいものでも食べに行きましょう」

「昼飯にはちょっとばかし早いんじゃないかな」

「街を歩きましょう。そのうち食べたくなりますよ」

 彼女の言う通りにするのはね、正直言ってちょっと癪だったんだ。でも実際のところ、彼女の提案はそこまで悪いもんじゃなかった。金もあるしね。ここんとこカップ麺ばかりで舌が麻痺って飽々してたんだ。あぶく金の使い道なんざ、いやぁ飯くらいしか思いつかないな。

 ところが奴さん、俺の後ろに付いてきやがるんだ。ちょこちょこてくてく、三歩下がって男の影を踏まずって調子に奥ゆかしいんだか図々しいんだか、邪魔にはならないんだけど、どうにも気になって仕方ないんだ。どんな顔して歩いてるかも気になったんだけど、振り返ったりはしなかったね。俺がこの女に興味を持ったなんて思われたら面倒だからね。根比べのつもりで、俺はひたすら歩き続けたんだ。走りはしないね、そんなこと普通はしないし、だとしたら白瀬を意識してるってことになっちまいかねない。どれくらい歩いたかな、昼飯の時間帯はとっくに過ぎてたのは間違いないね。腹の音が鳴り出して足が棒みたいになって、俺はやっとこさいつもより値の張る居酒屋に入ったんだ。

 ところがね、ほんと参ったね。給仕の野郎、二名様入りますなんて言いやがんだ。訂正の余地もなく席に連れてかれたさ。向かいに座る白瀬は汗までかいてやがった。

「たくさん歩いたから、お腹空きましたね」

「……そうだな」

 こうまでされると、認めないわけにはいかないね。俺はこの頭のおかしい女の狂行に目を引かれていた。どこまでやるのか気になったのさ。どこまでやったら泣いて逃げ出すのか、いやぁ興味が沸いたね。

 飯を食い終わって、足の疲れも随分和らいだわけだ。そんなのは白瀬も同じだろうね。

「君のせいで疲れたな。もっとゆっくり座れるところに行こう」

「フランスで凄い賞を取ったラブロマンスがやってるんですよ」

「B級アクションでいいね」

 その日は全然寝れなかったね。でっかいベッドに包まりはしたんだけどさ。


   *


 何ヶ月か経った頃の話さ。白瀬の腹がでっぷり太りやがった。白瀬の奴、なんにも言わないで隠してやがる。俺は別にどうだって構いやしなかったんだけど、白瀬がどうしますって聞くもんだから、俺は正直に、産みたきゃ産めばいいって言ったんだ。間違ってるかね。

 白瀬は、呆れ返るくらいすぐ、じゃあ堕ろしますって答えやがった。

 ただ、殴られるのには慣れても、殺すのには慣れないんだろうね、多少の心境の変化があったみたいで、届けの帰り道、白瀬が親に会ってくれなんて言い出した。

 この頃はずっと従順だったのに、俺も困ったよ。

「そうすると、最悪仕送りがなくなるな」

「私を信用してください。絶対にありえません。むしろ増えるかもしれないですよ」

 金が増えればバイトを減らせる。甘言に誘われて、俺たちは週末に白瀬の実家へ向かった。

 この目で見るまでは何事も信じない質なんだけどさ、事実白瀬の実家はデカかった。四畳半の何百倍あるんだってくらいさ。とりあえず家のアパートよりはずっと広かったね。

 ほどなく、白瀬の両親に会って話をした。傷のことは白瀬が適当に言い繕って、中絶なんて話題にも上がりはしなかったんだ。俺なんか殆ど茶を飲んでるだけだった。喋ることなんてありゃしない。変てこだったのは両親の方さ。ちょっと目が良けりゃ気付くだろうに、奴ら俺たちの違和感にてんで気付かないでいやがる。お笑いさ。白瀬がああ断言するのも納得だね。可愛がってるようにみえて、実のところ娘のことなんて見ちゃいないのさ。

「不出来な娘ですが、どうぞよろしくお願いします」

 いやぁ、笑いを堪えるので大変だったね。実際ちょっぴし漏れてたかもしれない。

 そしてね、まったく本当の感情なんだけど、俺は白瀬に初めて同情したんだ。これは本当のことなんだ。可哀想って思ってしまったよ。随分恵まれてるように見えるのが彼女にとって耐え難いことなんだろうって、手に取るように分かったよ。ちょうど理解不能な破滅思考は、丸っきりコンプレックスの裏返しだってね。

 マッチ箱ほどの狭苦しい四畳半に戻ってからさ。白瀬は唐突に泣き始めたんだ。

 俺は構わず問い詰める。

「なぁ、どうして走るのやめたんだ」

「噛み傷、見たじゃないですか」

「アキレス腱が切れたって、一年二年もリハビリすれば治るじゃないか」

 白瀬はまだ泣いてたね。それまで妊娠してたから情緒不安定なんだ。

「……音が鳴ったんです。かーんって。それから、新雪を踏む音が響くんです。真っ白な雪原を土足で汚していくみたいに、どうしようもない運命が、私を奪っていきました」

 抗えない羊の証明、不条理な狼の噛み傷。そのときまで白瀬は狼になれたのかもしれない。

「陸上だけだったんです。誰からも反対されて、それでも自分から選んで。楽しかったんです。すごく楽しかったんです。他のなにより、それだけでよかったんです」

「つまりあれか、君は怪我で自己価値を喪失してしまったわけだ。だったらなおさら、君はまた走らないといけないんじゃないかな」

「言ったじゃないですか。この傷は、狼の噛み傷だって」

 そう言って、白瀬は靴下を脱ぎ、その傷を見せつけた。

「音が鳴って、私痛くって悲しくって、でもどうしてかその瞬間、これまでの風を切る楽しみよりずっと、ずっと、ずっと、嬉しかったんです。笑っちゃうくらい、喜んじゃいました」

「どうして泣いてるんだ」

「赤ちゃん、殺しちゃったから」

 俺は、また殴った。愛おしいくらい、狂おしいくらい、泣き喚く彼女を殴っていた。


   *


 ある日のことだった。これと言ったこともない、普通の日なんだけどさ。

 白瀬が俺を殴ったんだ。理由としちゃ阿呆みたいなんだけど、俺が珍しくも、泣いてる彼女を抱きしめちまったんだな。逆鱗に触れたってところかな、これまでの全部が無に帰すのに耐えられないって風で、彼女はつい俺を殴ったんだ。

 実際のところ、痛みはてんでなかったんだ。白瀬の奴、殴られすぎて視力も低下してたし握力も弱くなって、最近は箸もぽろぽろ落とすくらいだから、当然なんだけどさ。

 でも俺としちゃ、そんな彼女を見てるのが辛くなるくらいに、彼女のことが大切に思うようになってたんだ。自分でやったのが信じられないんだ。どんな悪魔がこんなに可愛らしい彼女を痛めつけるんだって、本気で思っちまったんだな。彼女の言う羊と狼に喩えるんなら、狼は羊に恋をしちまったのさ。言い負かすんじゃなく惚れさせちまえば、羊は不条理に食べられることはないんだろうね。ところが問題なのは、俺の大好きな子羊は食べられるために狼に近付いてきたってところなんだな。そんな狼が牙を立てるんじゃなく毛繕いまでしてくるんだから、怒っちまったんだろうね。彼女にとって、食べられることだけが、自分の存在価値になってたのさ。俺の方も、そんなことは分かってたんだけどさ、でも俺は彼女を食べるよりずっと、彼女に隣にいて欲しいって思っちまったんだ。

「――ごめんなさい、ごめんなさい……」

 はっとして、彼女は俺に謝るんだ。しおらしく殴ったところを撫でるんだな。その仕草がまた可愛らしいんだ。でもよく考えてみると、彼女が俺に優しくするのは、俺が好きだからなんて理由じゃなくて、単に自分の価値を保証するだけのアクセサリーだからってんだ。

 ――もし、俺が彼女を殴らないでいたら、彼女はどうするんだろうな。

 そう思った。きっと新しい狼を探してどこかへ行ってしまうんだろうな。

 彼女を引き止めるには、殴らないといけない。なのに、俺にはもう殴れない。

 行って欲しくない。俺は、行って欲しくないと思った。どうにか彼女を引き止められないかと思ったんだ。

 そうやって色々思ってるうちに、また思ったんだ。この関係を支配してるのは、殴ってる俺なんかじゃなくて、殴られてるはずの彼女なんだって。支配されているのは狼の俺で、支配されてる羊の方は、いつだってどこかに消えちまえるんだって。

 そんな関係に、俺はどういうわけか、奇妙な喜びさえ感じていた。

 ちょうどあのとき、灰原が死んだときみたいな笑いが込み上げてきたよ。笑いすぎて涙がちょちょぎれちまうくらいに。ほんと、泣いちまったんだ。

 あぁ、白瀬の奴、泣きながら俺のこと殴りやがるんだ。段々強くなっていってさ、物まで投げやがる。置いてあるもん全部放りやがって。泣きながらさ、本当だよ。

 嬉しいことに、彼女、笑ってたんだな。ほんと、これまでで一番の微笑みだったね。

 俺の方も、これまで彼女が味わってきた喜びをこれから知れるんだと思うと、笑えたね。

 この笑いは間違ってたりするんだろうかね、もしそうでも、どうだっていいけどさ。

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狼は食べられたい 石山雄規 @Capelove

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