家庭狂師のヒミツ

矢野

家庭狂師のヒミツ

「最高だ!! お父さんもお母さんも、夜中まで帰ってこない!!」

リビングのカレンダーに書かれた家族の共有スケジュールを見て、僕は心の中でそう叫んだ。

 それはつまり、マリコ先生と何時間も二人っきりになれるってことだ。二人っきり。なんて良い響きなんだ。

 期待に胸を膨らませて、二階の部屋へと全速力で駆け上がった。体よりも大きいリュックサックが背中で弾んでいる。部屋に入った僕は真っ先に、100点と書かれたテストを堂々と机の真ん中に置いた。

「先生、ビックリするだろうなぁ」

マリコ先生が来るまでに、まだ1時間ぐらいある。その間僕は、二つある椅子の内の一つに座って、じーっと待っていることにした。

静かな風の音だけが耳に入って来る。これから先生が座る予定の、隣の椅子を眺めた。僕が座ると足が床に届かない椅子。空気圧で沈む椅子。キャスターが四つ付いている椅子。オレンジ色の椅子。ホームセンターで5000円ぐらいする椅子。先生がいつも座ってる椅子。メッシュの布に先生のお尻が当たっている椅子。

先生が……。先生が……来る。段々頭がボーッとして来た。でも、不思議と眠たくはならない。

ようやく下の玄関のドアが開いた。時計の針はちょうど5時を指している。

「すいませーん。お邪魔しまーす」

 透き通った声。間違いなく先生だ。

カッカッ。これはヒールを脱いでいる音。

 カツンカツン。これはヒールを揃えている音。

ごそごそごそごそごそごそ。壁と服とが擦れる音は、虫が葉っぱを這ってるみたいに聞こえる。誰もいない家では、細かい音までしっかりと響く。

ドン、ドン!! ドンドンドンドンドンドン!!! 階段を上がって来る音がいつもよりも大きく感じる。先生も僕と同じで、ワクワクしてるのかな。早く先生に会いたい。どうしよう、ああ、来ちゃう来ちゃう来てしまう。

あれ……静かだ。

 バンッ!!

「うっううわっ! せっ先生おはよう……」

凄い勢いで部屋の扉が開いたせいで、僕は思わず驚いてしまった。椅子を回転させ、ドアの方へと振り向く。

「あーらマサル君。おはようじゃなくてこ・ん・ば・ん・わだよ?」

 座ってる僕のために、膝を曲げて目線を合わせた先生。綺麗な首筋には汗が流れている。

「はっ、はい。こんばんわ」

「ふふふふふ。そうです。よろしい」

 僕の挨拶を確認した先生は、後ろ手にドアの鍵を閉めた。いつも鍵は開けっ放しなのに。先生は二人の邪魔をする人が誰もいないことを、アイコンタクトで伝えてきた。溢れそうな唾をグッと飲み込む。それでも上手く呼吸が出来ない。先生の目線は僕から机の上の紙へと移っていた。

「ってマサルく〜〜ん!! うわ、100点じゃん。すごいねー! 偉いねー! 先生との約束、守ってくれたんだね〜!!」

そう言って、僕に思いっきり抱き着く先生。柔軟剤とトリートメントの匂いが漂う。ふわふわした服が肌に擦れてくすぐったい。

これは、腰に手を回しても良いのだろうか? いや、落ち着けよマサル。こういうのは順序があるんだ。インターネットで見た。それに今日はたっぷりと時間がある。慎重に行動しろ。僕は腕をピンと伸ばして、ただそれを受け入れた。

しばらくして、先生は強めのハグをやめ、深く息を吸い込んだ。そして、手でスカートを押さえてゆっくりと椅子に腰掛けた。さっきまで笑ってた先生の顔が急にシリアスになる。窓の向こうの風が木々を揺らす音が聞こえた。

「あのぉ、マサル君? その、一ヶ月前の約束って……覚えてるよ……ね?」

もちろんだ。僕はそれだけを目標に今まで努力してきたんだ。

「ひゃっ、100点ととと取ったら、せっせ、せ先生に、何でもめっめ命令していっいいんだよね?」

心臓が物凄い速さで脈動しているせいで、声が小刻みに震えてしまう。

「ちゃんと覚えてたんだー! 先生嬉しいなー!」

 先生はいつも褒めちぎる時、わざとらしく髪をくしゃくしゃと撫でる。先生との距離がどんどん縮まっていく。座ってる椅子のキャスターが転がって、僕の膝と先生のふくらはぎがぶつかった。柔らかい感触。僕の心臓はまた加速を始める。

「でーも? その前にちょっとだけお勉強。ね?」

 先生は慣れた手付きでカバンの中から問題集を取り出した。笑顔がズルい。完全に僕のことを焦らすつもりでいる。あー楽しみで仕方ない。期待と不安で心臓が窮屈になってる。

「はい、じゃあマサル君に漢字の問題でーす、"くるう"っていう字はどうやって書くんでしょうか? はい、速かったマサル君」

いや、急に何。そんなの中学三年生に出すレベルじゃない。それに、そんな漢字は問題集にないはずだ。

僕は完全にその意図に気付いた。先生には全く勉強する気なんて無くて、単に時間を稼ぐつもりなんだ。

「そんなの簡単だよ。けものへんに、王でしょ?」

空中に指で"狂"と書いて説明した。先生は、僕の指を首で追ってる。めっちゃ可愛い。

「ピンポーンピンポーン! そうだねー獣の王様でー、"狂う"って書くよね。よし!! じゃ〜あ、今日の授業はここで終了!! です!!!! おつかれさま!!!!!」

 ドサドサドサドサドサ。

 出した問題集を無造作に手で払った。目線は落ちた問題集じゃなくて、僕の顔の方をじっと見つめている。目にかかった前髪を後ろにかき上げた。また、いい匂いがする。

「もう…さっきから、マサル君が何を先生に求めてるのか……全部お見通しだよ?」

ハァハァハァ。呼吸が尋常じゃないぐらい速くなって、先生の顔に息がかかりそうだ。口を閉じて、鼻で息をする。フーッフーッフーッ。うるさくて他のことが考えられない。頭にどんどん血が溜まって、目の奥が熱くなっている。

「こーこ? でしょ?」

唇に人差し指を当て、試すような目付きでこっちを見ている。それから、先生はすぐに両目を閉じた。無防備だ。何をしてもいいんだ。どうしよう。想像してたまんまだ。

「次はー。こ・こ・で、オトナの問題を解いてみて?」

人差し指で、唇をトントンしてる。よしっ、ゴーサインだ! 周りの動きがスローモーションになった。首を伸ばす。届け、あと少しだ。先生の優しい鼻息がおでこに当たる。僕の唇は、そっと先生のに触れた。先生の柔らかい唇がむにゅっと弾んだ。赤い口が開いて、僕の閉じた唇を挟む。僕は耐えきれなくなって、口を少し開けた。自分の口に別の何かが入っていく。味わった事のない温かい感触。先生の熱くて濡れた舌が、口の中で僕の舌へと巻き付いている。固くて物凄いスピードで回転してる。僕と先生の体は今一つになってる。その事実が何よりも僕を興奮させる。

お互いの顔の向きを変えて、甘い蜜をじっくり味わっていく。何度も唾液が二人の間を行き来する。周りの時間がゆっくりと流れる。さっきまでは緊張してたけど、不思議と安心する。先生の匂いも体温も、全てを自分の中に閉じ込めて、僕だけのものにしたい。体中が先生を受け入れるために、落ち着いている。

ん? あれ? おかしいな。

僕はキスしてから少し経って、異変に気付く。人間の舌ってこんな形じゃない。そんな気がする。僕は急いで腰から回していた腕を外す。そして、先生の両肩を押し退けて離れた。やっぱり変だ。巻き付いた熱いものは、先生から離れても取れない。何か違う物がずっと口の中に入ったままだ。長くて柔らかい塊が、ずっとうねうねと動いている。変なギザギザみたいなのも、ほっぺたの裏に当たってる。僕は思い切って、それを口から吐き出した。

「うううわ!! うわあ!!! うええええキモチワルイ」

 吐き出したものは、大きなヤスデだった。僕の唾液でべっとりと濡れたそれが、床の問題集の上で、体をうねらせて這いずり回っている。黒と白の模様が螺旋を描いている。なんだこれ。汚いから、口の中の唾液もペッと一緒に吐いた。

「マサル君、急にどうしたの?」

 先生は下のヤスデに全く気付いてないみたいだ。ずっと、うっとりした目でこっちを見続けている。いやいやいや、待てよ。僕の勘違いなのか? 初めてのことだから頭がおかしくなっちゃったのか? そもそも先生の口に虫がいるわけないじゃないか。せっかくのチャンスなんだぞ。早くヤスデのことを忘れて、目の前に集中しろ。

「ていうかー、先生熱くなっちゃったなー。もしかしてー。先生のカラダ…見たい?」

 上目遣いでブラウスのボタンに手をかけた。先生の吐息が口の間からわずかに漏れ出している。僕はメガネの奥の奥を覗いた。潤んだ黒い瞳が夕焼けに反射してキラキラしている。こんなのを見て、断れる人間がこの世にいるんだろうか。僕はゆっくりと頷いて見せた。

「それじゃあダメ。ちゃんと先生に命令して?」

 また先生の意地悪が始まった。

「せっ先生のカラダ…みみみみ見して…」

「先生のことぉ、今日はマリコって呼んでほしいな?」

「ママママママ、マリコ?」

 それじゃ僕が先生の彼女になったみたいじゃん。

「そう、マリコって」

 先生は大切なものをプレゼントする時の口調で、僕にお願いした。

「マリコ、ああああの、カッカカッカカラダ。見して。見してよ!」

「はい、よく言えました。でも……お父さんとお母さんには、絶対ぜーったいナイショね?」

声を落として話す先生。僕は何回も何回も頷いた。もう、待ってられない。

ブラウスのボタンが一つ、二つ、三つと外れていく。最後のボタンを外した。服のスキマから、全部が見えてしまいそうだけど、影になっていて中々覗けない。僕は先生の白い肌を想像した。透き通った腕も太ももも全部思い描く。他の誰にも見せたくない。僕だけが独り占めしたい。

心臓が重くなって息がしづらい。肩が震えてる。ダメだ、落ち着いていられない。とうとう、先生の裸を見てしまうんだ。しかも、僕は偉そうにそれを命令してしまった。いけない。何だか見てはいけない気がする。

 先生が上の服を脱ごうとしたその瞬間、僕は恥ずかしくなって目線を下へ逸らしてしまった。さっきのヤスデが問題集の上で体をよじらせて動いている。やっぱり見間違いじゃなかったのか?

「ちょっと! マサル君? ねえ、ちゃんと見てよ!」

先生は両手で僕の顔をグッと挟んで持ち上げた。すると、そこには目を疑いたくなる光景が広がっていた。

「うえええ!! ぎぃぎゃああああ!!!!」

 先生の体は、びっしり虫で包まれていた。服の下が真っ黒になってる。蛾や羽の付いた甲虫。肌を覆う何十匹もの虫達は、前や後ろに行ったり来たり。自由に先生の体の上を歩き回っている。

「せっ先生!! 虫! 虫! 虫がいっぱい!」

 僕は思わず椅子から崩れ落ちて尻餅を付いた。先生は薄っすらと笑みを浮かべて、こっちを見下ろしている。そっとメガネを外し、丁寧に机の上に置いた。それから、後ろに逃げられないように、腕をグッと掴まれる。先生の暗い顔が徐々に近づいて来た。さっきの笑みが消えて、何故か怒りの表情を浮かべている。

「マサル君? これが見たかったんでしょ? これが大人のハダカだよ? ねえ、マサル君? マサル君が命令したんだよ? マサル君が見たいって!! そう言ったんだよ!!!! 現実を見てよ? あのね、マサル君? もしかして、これが何か悪夢だと思ってるんじゃない? 違うよ。ずっとホントの事しか起こってないよ? ホントの事っていうのはね、マサル君? 目立つ所にあるんじゃなくて、排水溝の奥の方とか!!! 暗い下水道の中にあるんだよ? でもね、マサル君? どんな綺麗な家にも、排水溝はあるし、どんな綺麗な町にも、下水道はあるの。だからねマサル君? そこから目を背けちゃダメなの? 分かったかな? 返事は?」

「……」

「返事は!!!」

「ははは、はい!!」

 怖くなって、目を閉じ顔を背けた。いつもの先生はどこにもいない。もう早くここから逃げたい。

「おいおい、ちゃんと見てってばー。ねえ!!!」

仕方なく目を開いた。体に纏わりついている虫達の動きは、先生が早口になるに従って、動きを速めている気がする。

虫の量はさっきよりどんどん増え続けてて、もう先生の体には収まってない。ぼとぼと溢れ落ちたものが、壁をつたって部屋中を蠢いている。先生は腕の中から一匹のカナブンを掴んだ。すると、僕の口へと無理矢理押し込んだ。舌の上にカナブンがちょこんと座った。

「んんんんんんんん」

「これあげる。よーく味わって噛んで?」

噛むの? これを? もし、言うことを聞かなかったらどうなるんだろう。でも、今更悩んでも、しょうがないのかもしれない。そもそも、先生がボタンに手をかけた時にちゃんと止めてたら、こんなことにはなってなかったんだ。これは僕の責任だ。

僕は仕方なく噛むことに決めた。狭い口の中で暴れて飛ぼうとしているカナブン。羽が大きく広がって足がバタバタ動いた。それを無視して、硬い羽根を奥歯で噛み砕いた。耳の奥でバキバキと音がする。動きが止まる。死んだみたい。

はあ、よし噛めた。どことなく、先生の味がした。でも、流石に飲み込むのは出来ない。それに、ギザギザの足が歯に挟まってる。カナブンだったものが口で溜まっている。困った僕の姿を見た先生の口角は、徐々に上がっている。

「ここで復習問題ですっ、デーデン」

「へっ?」

「"くるう"はどうやって書くんだっけ?」

 3秒ぐらいの沈黙。先生のつぶらな瞳は、じーっと真っ直ぐ僕を見つめたままだ。

「へっへ、へもののほう?」

「せいかい!! マサル君、やっぱ天才だねー」

 いつもと同じで、髪をくしゃくしゃ撫でている先生。今までで一番嬉しそう。

「それじゃ、先生と二人で獣の王様になっちゃおっか?」

不敵な笑みを浮かべた。背中に冷たい汗がツーっと伝う。開いたブラウスから見えるのは、毛虫やバッタだけで、肌の色は一切見えてこない。膨らんだ二つ山の上を、黒い虫たちが占領している。今日の予定はこんな筈じゃなかったのに。

 僕はようやく諦めて、カナブンの苦い汁を飲み込んだ。嚙み切れていない固い皮が喉の奥で引っ掛かった。それも唾と一緒にどうにか押し込む。

それを見た先生が、小さくて名前の分からない幼虫を背中からもぎ取って、僕の口へ再び押し込もうとしている。人差し指と親指の間で、自分の居場所を求め、白い体をうねらせているのが分かる。

窓の夕陽が地平線の向こうへ沈んでいった。闇が蠢く部屋。そこで恍惚の表情を浮かべる先生を前に、僕は心の中でこう叫んだ。

「最悪だ!! お父さんもお母さんも、夜中まで帰ってこない!!」


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家庭狂師のヒミツ 矢野 @yanorock

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