二、「私、グレン様の秘書になります!」
その村の北のはずれには、隠された道がある。普段は藪が茂り、その向こうは暗い森だ。
だが二十年に一度、藪は踏み分けられ、禁足地とされる森へ繋がる。森には、草に覆われ気付きにくいが、よく見れば北へと伸びる、石が敷かれた細い道があった。その道は二十年間意図的に忘れ去られ、そしてその日に否応なく思い出されるのだ。忌まわしき行いのために。
その夜は雨だった。いや、その行いはおおよそ雨の日が選ばれるのだった。月を隠して何者にも見られぬために。
そんな闇が落ちる雨の中を、足下だけを照らした松明が鬼火のように禁忌の道を進んでいる。列をなして歩いているのは八名の、おそらく男たち。誰も口を利くものはいない。ただ雨が身を打つのと草を擦る音だけが、松明と共に北へ動いている。男たちは輿を担いでいた。乗せているのは、闇夜ではそうとわからない色鮮やかな花々、熟れた果実、新鮮な家畜の肉、そして一人の若い娘だった。
娘は頭から花を飾った白い布を被っていたが、雨をしのぐには至らず、髪も簡素な白い服も濡れそぼっている。自分の運命を知っているその娘の顔には悲しみも怒りも恨みも浮かんでいない。ただ疲れ、倦み、諦め、虚ろだった。
数多いる若い娘の中から彼女がどのような形で選ばれたのか、村のほとんどの者は知らない。ただ娘は身寄りがなく、亡くなった父は村を捨てた者で、娘自身も少し前に他所からやって来た。そういうことだった。
輿はやがて森を抜け、崩れかけた石積みの巨大な門を抜ける。そこからさらに行くと、忌まわしき岩山へと至るのだった。
切り立った断崖に、巨大な洞穴が叫び声を上げているかのように大口を開いてる。その威容を見て男たちは震えあがった。だがまだ引き返す訳には行かない。怯えながらも大口から伸びる舌の如き石段を上ってその咢の中に入っていく。中は闇夜よりも暗く、雨の降る外よりも冷たい。どこまでも続いているような広間に数歩だけ踏み入ると、男たちは音を立てぬように輿を起くや、一目散に逃げ帰っていった。
そして、輿と娘だけが残された。
しばらくは音もない。娘も息を殺して身動きもせず、ただ外の雨音だけが聞こえる。
唐突に広間の奥から気配して、娘はびくりと身を強張らせた。
気配は一つではない。濃い気配が無数に湧いている。そしてぞろぞろと輿に近づいてくる。
しかし気配は、あと少しでシルエットぐらいは確認できそうな距離まで近づくと、ぴたりと止まった。気配の主たちはざわざわと何やら小声で話している。
「あれから二十年。やはりまた来たか」
「愚かな。誰も頼んではおらぬのに」
「我らへの恐れがそうさせるのよ」
「哀れな子……」
「いずれにせよ、グレン様への捧げもの。我らの勝手にはできん」
そうして何やら人選に揉めたあと、不意に気配が二つに割れた。
その間を抜けて一つの足音が近づいてきた。そのリズムから娘は足音の主が女だと察した。しかし一歩ごとに伝わってくる響きは重く、どっしりとしている。
足音は輿のすぐ前で止まり、娘は恐る恐る顔を上げた。
村人が残していった二本の松明に照らされたそれは、人のようにも見えた。
ただ、大きい。おそらくは立ち上がった娘の背丈は、その鳩尾に達するか否かといったところだろう。肩から伸びる腕は身体全体のバランスからいえば太くは見えないが、筋肉の隆起がその力強さを予見させた。そのがっしりとした体の上に乗る、意外にも小柄な顔は、目鼻立ちははっきりとしていて、顔料で縁取った切れ長の目は金色の瞳と相まって意志の強さを感じさせた。濃い色の髪は長く、後ろで一つに縛られていた。
これは人ではないと娘が確信したのは、その額を見上げた時だった。二つの角が弓なりになって天を向いていたのだ。
「立てるかい、生贄の子」
女の魔物は低く凛とした声で言った。
「古竜王様のところへ行くよ」
娘は言われるまま立ち上がり、長身の魔物の後をついていった。
魔物が拾い上げた松明に照らされた床の他は真っ暗で、どこをどう進んでいるのかわからない。ただその闇の周囲にはやはり無数の気配があって、時にはぼそぼそとその会話が聞こえた。
「毎度毎度難儀なことだ」
「持て余すなら、捨てるなり食うなりすればいいだけでは?」
「可哀そうなこと言うなよ」
「はっきりいらねえって言ってやればいいのに」
「昔それをやって、十倍の生贄が届いたことがある」
「うへえ」
それらの会話は娘には理解できない言葉でされていた。
ただ一つだけ気づいたのは、松明を下に向けたまま持っている女の魔物自身は、明かりなど無くても闇を見通すことができて、ただ娘のためだけに床を照らしているのだということだけだった。
そうしてどれほど歩いたのか、自分が今どこにいるのか曖昧になりかけたあたりで、巨大な扉の前に行き着いた。
扉は音もなく開き、娘はあまりの眩しさに目を細めた。先ほどまでの闇の世界とは打って変わって、そこはやわらかなオレンジの光に満ちていた。奥行きも天井もスケール感を失う程に広い。その広い空間の隅々まで、壁面の燭台が、床のランプが、天井の灯りが、光を届けていた。さらに部屋を囲うように様々な金銀製品、宝石が無造作に積まれて、光を乱反射させている。
突然の光の洪水に、娘は立場を忘れてうっとりとなりかけたが、部屋の中央に鎮座するそれに気づくや一気に血の気が引いて自分の運命を思い出した。
小山のような巨体、光を照り返す黄金色のウロコ、折りたたまれてもなお天井に触れんばかりの翼、大樹も貧弱に見える太い手足、黒曜石のような爪、太く長い首、一つ一つが大剣に比する頭部の棘、艶めく尖塔のような角、紅玉の目、何物も噛み砕く牙。
かの魔領の覇者にしてダンジョンの主、金の古竜王グレン=メギドーザの威容がそこにあった。
古竜王の視線が娘を貫く。娘は射すくめられ息をすることもできない。濡れた髪から雫が床に落ちた。
「メガエラ」
古竜王が静かに口を開いた。それだけで娘は卒倒しそうになる。
「は」
名を呼ばれた女の魔物が返事をするや、娘の頭に何か軟らかいものが被せられた。
太陽のような匂いがすると娘が思う間もなく、それで髪と体を拭われ、いつの間にか真新しいふわふわとした服に着替えさせられていた。娘がそのことに気づいた頃には、床に敷き布と大きなクッションが置かれてそこに座らせられていて、そのうえ幾つかの料理が湯気を立てて目の前にあった。
「人間相手に作ったのは二十年ぶりだから、口合わなかったらごめんよ」
女の魔物はにっと笑った。
「? ? ?」
娘は何が起こっているのか理解が追い付かず、ただぽかんとした。
「生贄の娘よ、名は?」
古竜王が再び口を開き、娘は再び竦んだ。
「シ、シエラ……」
うつむいてそれだけ言うのが精いっぱいだった。
「シエラ……此度は災難であったな」
古竜王は確かにそう言った。
思わず顔を上げて、金色の巨竜を驚きの目で見る娘・シエラ。
「安心するがいい。ここでお前を脅かすものは何もない」
竜は目を細め、微笑んだ。
シエラはしばらく呆けたように見上げていたが、金色の竜の言葉と笑みの意味を理解した途端、突然堰を切ったように大粒の涙があふれだし、生贄に決まった日からはじめて、声をあげて泣いた。
竜と魔物の女は何も言わず、人間の娘が泣き止むまで、ただ見守っていた。
「ぐすっ……すいません。でも」
やっと落ち着いて鼻をすするシエラ。
「私、これからどうしたら……。もう村へは帰れないし、故郷ももう……」
シエラの言葉に、メガエラは少し困った顔になる。
「そうさね。あたしたちも人界に繋がりがないからねえ。昔はね、ダンジョンに乗り込んでくる人間の中で、グレン様がこれはと見込んだ者に「救わせて」いたんだけど」
「救わせて?」
シエラがきょとんとした顔になる。
「ああ、ちょっとした茶番劇を演じてね」
「茶番劇と言うな。相手に疑われずに怯む演技をするのは意外と大変なんだぞ」
魔物を統べる、ダンジョンに主たる竜の王が、少し口をとがらせて心外そうに抗議した。
その意外な素振りに、シエラからふふっと笑みがこぼれた。
それを見たグレンとメガエラは、嬉しそうに目くばせをする。
「だけども、最近は人間なんかほとんど来ないからねえ。来てもロクデナシばかりで」
メガエラは肩をすくめる。
シエラの笑顔が消えてうつむく。
「……すいません。私、ここでもお邪魔なんですね」
「え?」
グレンとメガエラは同時に言った。
「何言ってるんだい。ここは二十を超える種族の大所帯だよ。あんた一人増えた所で何が邪魔なものか。むしろあんたがこんな魔物だらけのダンジョンにいて構わないって言うのなら」
メガエラがグレンを見る。「うむ」と頷くグレン。
「好きなだけここにいるがいい」
生贄からダンジョンの住人になった人間の娘は、また泣いて、笑った。
「――とまあそんなことがあって、あの子はあたしたちの中で暮らすことになったのさ」
ダンジョンの食堂「竜の胃袋」オーナー兼、古竜王グレンの食事係のオーガ、メガエラは、古竜王討伐に来たはずがダンジョンの受付兼秘書に連れられて魔物の中で戸惑いながら食事中の騎士、ヴォルケインに、その受付兼秘書の人間、シエラの過去を語った。
「人界で行き場がない分、腹も座ってたこともあるだろうけど、あの子は魔物にも怖じ気ず好奇心旺盛で、ダンジョンのいろんなものをよく見よく聞く、そんな風変わりな子だった。そんなふうに見て聞いて過ごして、何を思ったのか、ある日グレン様のところに乗り込むなり言ったのさ」
「『私、グレン様の秘書になります!』」
割り込むように声をあげたのは、戻ってきていたシエラ本人だった。
「――って。へへへ」
「なんと、そんなことが……」
想像だにしてなかったシエラの素性に、ヴォルケインは純粋に感心した。
「しかしそれにしてもだ。受付もそうだが『竜の秘書』とはいったいなんなのだ? そんなもの見たことも聞いたこともない。先程見た限りでもダンジョンにあるようなものとは思えないのだが」
「それはそうですよ。私が作った役職ですから」
シエラはあっけらかんと言った。
「ずっとぼんやりしてたのに、急に食いついてきましたね。興味ありますか?」
そう聞かれて、ヴォルケインは天を仰ぎ、深い息をついた。
「今日はワケのわからないことばかりで、頭がどうにかなりそうだ。……だからまず知らなくてはならん。考えるのはその後にするしかない」
ヴォルケインのやや諦め気味にも見えるその言葉に、シエラはニッと笑う。
「いいご姿勢だと思いますよ。それでは――」
そこで眼鏡をクイと上げ、
「ご説明いたします」
シエラは秘書の顔となり、身を乗り出した。反射的にヴォルケインは背筋を正す。
「ああ、頼む」
「まず初めに申しておかなければならないのは、ボスを始め、グレン領やこのダンジョンの方々はとても優秀だということです」
おためごかしやハッタリではなく、心からそう思っていると目が語っている。
「特に魔領の南域を占めるグレン領の政務・軍務は人界のどこよりもハイスペックです。でなければ恐るべき力を備えた魔物たちが群雄割拠する魔領の一角を支配することなど不可能ですから当然のことですが。そしてもちろん、その領域に私は完全ノータッチです。政治軍事はド素人ですし、百戦錬磨の幹部の方たちに口を挟むなど、考えただけでも……怖つ!」
素に戻って大げさに身震いしてみせた。
「そしてグレン領の王城たるこの古竜城内も、高い職能持つ人材に恵まれています。……しかしながら、こちらに関しては少々業務に混乱がありました」
ヴォルケインには、ダンジョンに「業務」という言葉を使うのがまず引っ掛かるのだが、そこは胸におさめて黙っていた。
「ここには様々な業務があります。王城としての政務や軍務の中枢機能のほか、領内からの陳情や領外からの来客対応、またダンジョンとして攻略者への対応や保守整備、財宝の管理などなど……。前者はともかく、後者はとても非効率な運営がされていたんです。原因は、業務の切り分けや相互連絡、中間管理の不在・不足です。簡単に言うと、なりゆきでやっていたんです」
さすがにヴォルケインは気になって「いやいや」と、つい口を挟んだ。
「そもそもダンジョンというものは、昔からそういうものなのではないのか? ただそこにあって、宝を守り、罠を張り、侵入者が来たらその場にいる魔物が襲う。効率的に管理運営されているダンジョンなど、聞いたことがない」
言葉は選んだものの、ヴォルケインに限らず人間にとってのダンジョンは、野蛮で暴力的で危険な場所の極致だ。管理運営とは程遠い。
「そうなんですよね」
シエラは意外にも同意した。
「だから、皆そのことに問題意識も疑問も抱いていませんでした。それに、それでも問題なく運営されていました。皆さん優秀だったからです。能力頼みで破綻することなく、充分回ってはいたんです……ですが」
「ですが?」
「優秀なのに非効率なために無駄に多忙になっていたんです。皆さん昼も夜もなくダンジョンを右往左往して、働き詰めだったんです。特に最も忙殺されていたのは、グレン領の支配者であり、古竜城の王であり、ダンジョンの主である――ボスでした」
シエラは眉を寄せ当時を思い浮かべるように、天井を見上げた。
「それで、少しでもボスの負担を減らしたくって……」
そのために、それまでダンジョンになかったポジションを作ったのだった。
「とはいっても、そんな大したことはしていないんですよ。私の仕事は――」
シエラは指を一本立てた。
「まず受付としてフロントに立ち、ダンジョンの外から持ち込まれる用件をしかるべきところに繋げます。政治軍事関連は各担当幹部様方に、治安に関するものは警備部に……といったように。ダンジョンの主業務である冒険者や勇者への対応は、状況別にマニュアル化して、一斉連絡で即応できるようにもしました」
要するに単なる交通整理ですね、と付け足す。
「こうして捌いた後の私の手元には、ボスがすべきダンジョン業務が残ります。それをボスの秘書として、お付きの方や幹部様方と情報を共有し連携して他業務と調整しながら管理するのが、もう一つの私の仕事なんです」
二本目の指を立てながらそう言った。
「これだけで、グレン領の根幹をなす部分には触れず、既存の部署や職種も侵害せずに、ダンジョンの運営をスムーズにすることができました」
これだけ、というには多すぎる内容にヴォルケインは「な、なるほど……」とだけ言うほかなかった。もちろん半分もわかっていない。
だが、これで終わりではなかった。
「そのうえで」
シエラは続ける。
「ダンジョン従事者の部署ごとの名簿を作り、人員管理を正確にし、無理のない就業シフトを組み、褒賞・昇進制度を明文化して、福利厚生も充実させました」
「お?……おう」
「さらに」
「え?」
「外部からのダンジョンへのルートの整備を進言しました。人界からの道を街道と繋いだうえ、エトラ村を経由させることで比較的安全に往来しやすくしたのはこの一環です。宿泊施設やこの食堂も、福利と来訪者のサービスを兼ねて提案しました――たったそのくらいですね」
「そ、そのくらい……か」
一気にまくしたてられてヴォルケインはたじたじとなるしかなかった。
その様子を見ていたメガエラが吹き出した。
「懐かしいね、その口ぶり。あの時も、たくさんの紙束抱えてそんなプレゼンを皆の前でしたっけ。最初はあたしらもグレン様も、今のあんたみたいな顔してたよ」
そう言われて、ヴォルケインも笑うほかなかった。
「ええー、私の説明、わかりにくかったですかあ?」
二人の様子に不服そうなシエラ。オフのモードに戻っている。
「全部を理解できたわけではないが。たいしたものだとは思う。……だがなぜそこまで?」
シエラは簡単に言うが、人外の土地で、それだけのことをやり通すのはよほどの意思がないとできないだろうことは、ヴォルケインにもわかる。
しかしシエラは、その意図をつかみかねて首を傾げた後、素直に答えた。
「私は、とにかく皆に余裕を持って楽しく働いてほしかったんです」
それが彼女の行動の全てだった。
「そしてその通りになったわけさね」
メガエラが言う。
「ああ、遅くまで働いてヘトヘトになることはなくなったし、ゆっくり寝られるし」
そう言ったのは、いつの間にか話を聞いていた隣のテーブルの獣人だ。
「イライラしないから喧嘩も減って、治安もよくなったね」
後ろの単眼の魔物も身を乗り出して頷く。
「こうしてうまいものも食べられるようになったし!」
太った竜頭の男が遠くから声をかける。
「ほんと秘書様お陰だねえ」
「もー、やめてくださいよお!」
メガエラのダメ押しに、たまりかねたシエラが顔を赤くして叫んだ。
ヴォルケインは、そのやりとりを微笑ましく思った。それだけに、戸惑いは消えぬばかりか、いっそう増していくのだった。
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