8811
バブみ道日丿宮組
お題:楽観的ないたずら 制限時間:15分
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いたずらがいたずらと認識されないのならば、犯罪も犯罪ではない。
とはいえ、死体が転がる街というのはおかしさに溢れてる。見渡すかぎり、死、死、死が転がってる。其の一つは今しがた増えたものだが誰が殺したのか、あるいは事故が起こったのか。結果だけが残されてるだけでは同じ死であり、意味を持たない。つまり私が殺したという事実は事実として認識されない。
仮に死体の真似をしたとしても死体をいじくり回そうとしても、誰も止めない。むろん人を殺そうとしても干渉されない。
死というのは固定された概念であり、人であるならば必ず到達するものだから。
「……」
そう認識して一人殺した。
裁かれる法はない。
生きる必要があるのと同時に、死ぬ必要がある。
消費されるのは物資だけではない。人もまた使われる。
狂気とかつての人はこの風景をおそらく定義づける。
『自由に生きれないのはおかしい』と。
まさにその自由のせいでかつての国が滅んだのだと知れないからこその言葉だったのだろうが、現実人が多すぎて滅びかけたのは事実である。
そのために必要最低限まで削除するという回避方法をとった。むろん反対に反対が生まれ、いたるところでデモが勃発したようだが無意味。
人を殺していいという呪縛がとれた獣はためらいもなく引き金をひき、肉をきりさく。反対派は同じことをできない。よって、人は減りこの風景が固定化した。
わたしは、頼まれた人を殺す仕事人。無駄に文句ばかりを口にする不出来な人を削除する。
その中にはいたずらで行ったと否定するものもいたが、殺せという指令が出たときすでに死んでる。わたしが殺さなくても他のものが殺す。誤報であっても命令は命令である。
今はいたずらが自由にできる時代ではない。無意味でおろかな行為は許されない。きちんと生を使いこなす。それが現実の正しさである。
わたしが一番反してるのではないかと。
だがわたしを殺すという命令は降りてこない。利用できる道具として使われ続けてる。
誰かが誰かを使う。それは当たり前のことでふつうのこと。ならば、わたしは道具であるべきなのだろう。
8811 バブみ道日丿宮組 @hinomiyariri
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