第13話 耳を潜めて
「これが温泉、か……」
くつくつと沸騰したように湯気のあがる乳白色の泉を覗き込んで、俺は喉を鳴らす。
野営地から少し離れた場所、岩場の隙間にそれはあった。
「いい湯加減なのです」
「お、おいおい。大丈夫なのか、リズ」
あろうことか、リズが沸騰する泉に手を突っ込んでいる。
熱くないのだろうか。
「勇者のくせにビビりすぎなのです」
「いや、これは怖いだろ……本当にこれに入るのか?」
「なのです。きっと疲労が吹っ飛ぶのです」
確かに、サルナーンに入ってからのしばらくでやや疲労がたまっている。
それを回復するできるなら願ったりかなったりだが、魔法の泉でもないのに本当にそんな効果があるのだろうか。
「入ってみればわかるのです」
「……ふうむ」
ほかならぬリズがここまで言うのだから、噓や冗談のたぐいでないだろう。
そもそも、あのアシュレイが地図にわざわざ記載したのだから、無意味ということもないはずだ。
で、あれば、試してみるのもやぶさかではない。
「どうやって入るんだ?」
「温かいだけで水浴びと変わらないのです。ほらほら、脱ぐのです」
言うが早いか、冒険装束を脱ぎ始めるリズ。
それから体ごと顔をそらして、後ろを向く。
「お、おい、待て。それなら、俺はあとでいい」
「何を恥ずかしがってるのです?」
首をかしげるリズ。
「お前も年頃なんだから、少しは恥じらえよ」
「こんなことで恥ずかしがっていたら冒険者は務まらないのです。だいたい、一緒に水浴びなんて何度もしたのですから、いまさらなのです」
「それは子供のころの話だろ?」
俺と会話をしながらも衣擦れの音は続き、視線の端に映るむき出しの岩の上には、リズの脱ぎ捨てた冒険装束が折り重なっていく。
最後に、下着がぱさりと投げられたところで俺は目を閉じてため息をついた。
いくら何でも、自由すぎる。
まるで兄妹のように育ったとはいえ、こうも警戒心がないのは年頃の女性としてはどうなんだ。
冒険者としてちゃんとやれていたのか、いささか不安すら感じる。
「ヨシュ兄。ほら、怖くないのです」
呼ばれて振り向くと、乳白色の泉に浸かったリズがこちらに手を振っていた。
その様子に俺は、脱力する。
逆に考えよう。子供のころからそう変わってやしないのだ、リズは。
「ヘイヘイ、ビビってるのです? 勇者様は、玉無しなのです?」
口はいささか悪くなったようだが。
まったく。まるで俺の独り相撲だ。
「わかったよ。でも、脱ぐときは向こうを向いてろ」
「おぼこの村娘もびっくりな初心なのです! ちゃんと玉がついてるのか確認してやるのです」
「言ったな、泣き虫リズめ!」
けらけらとからかうリズに、少しばかりカチンときた俺は、男らしく冒険装束を脱ぎ散らかし、一息に温泉へと飛び込んだ。
◆
夜半、目が覚めた俺は簡易テントから這い出して、大きくあくびをする。
空はまだ暗いが、地平の端はやや明るい。夜明け前の、静かな時間だ。
以前はこの時間に起きて馬の世話をしていたので、旅に出てずいぶん経った今も時折こうして目を覚ましてしまう。
あの頃は、こんな旅に出ることになるなんて考えもしなかったな。
「ん?」
いつもなら、俺がこうして起きてくると「お目覚めか、勇者殿」とアシュレイ
が声をかけてくるものだが、今日はそれがない。
魔物を寄せ付けぬための魔法の焚火には火が入っているので特に問題はないが、こうなると少しばかり調子が狂う。
少し考えた俺は、温泉に向かう。
昨日初めて入った温泉というものは、リズが言っていた通りの効果があり、かなりリラックスすることができた。
浸かっていると、凝り固まった尽きぬ悩みもふやかすようで、つまるところ俺はすっかりこの『温泉』を気に入ってしまったのだ。
皆を起こさぬよう、足音を消して温泉へと向かう。
湯気がわかる位置まで移動したところで、水音と気配。
アシュレイかもしれないと声をかけようとしたが、これが魔物であったならと思い直して、俺は息をひそめる。
「……体調はどうなんだい?」
「問題ない。おかげさまでね」
小さく漏れ聞こえる声は、ティナとアシュレイのものだ。
魔物ではなかったことに胸をなでおろすが、それよりも俺をこわばらせたのは、どうして二人がここに……ということである。
「本当かな?」
「今すぐ証明して見せようか?」
「ぇ? ん……っ」
会話が途切れ、小さな水音がして、静寂が満ちる。
……いや、耳をすませば、そうではなかった。
ティナの押し殺すような息遣いが耳へと届く。
それは少しずつ荒くなり、やがて甘い声を伴ったものへと変わっていった。
(……うそ、だろ。そんなのって……!)
押し込めていたラバーナのあの夜の記憶が湧きあがって、俺の臓腑を冷たく焼く。
吐き気と寒気が同時に襲い来る中、俺はなおも耳を澄まし続けた。
何かの間違いかもしれない。
ここから顔をのぞかせてみれば、俺の想像とは全く違う状況なのかもしれない。
そう考えながらも、俺はそれができなかった。
身じろぎ一つできずに、俺はただただその場にとどまる。
「……っ。……ッ。……──!」
徐々に激しくなる水音と、ティナが蕩けいく甘い声を聴きながら、走馬灯のように流れゆくのは彼女との記憶。
苦笑するティナ。
微笑むティナ。
得意げな顔のティナ。
──俺を優しく抱擁するティナ。
それらが、塗りつぶされていくのに耐えられなくなった俺は……あの日と同じに、静かに岩陰を逃げ去った。
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