リヒト
@bu-chika
第1話 僕の知らない物語
重い瞼を無意識なのか意識的なのか開いたことで、物語が始まった。
かすれた光が目に入ってくる。目を凝らしても視界が白飛びして何も見えない。きつい視線が肌を刺激していたのだけは分かった。
「大丈夫ですか?」
きつい視線を向けていた割には、優しい言葉をかけられたことに少し驚いてしまった。僕に向けられた視線のほかに、マザーテレサのような女神さまがいるのかと思ったが、残念ながら声は、女性が目をハートにしてしまいそうなダンディな声だった。そんな考察をしていたら少しずつ視界が鮮明になってきた。
「君はどこにいたか覚えているか?」
さっきと同じ声だった。体を覆う薄汚れたカーキのコートに、おしゃれな髭にしては整っておらず、髪は整えてはいるが少し乱れていた。女神さまではなかったが、ダンディではあったので、考察が当たり少しうれしかった。
「……わからない」
久々に声を出した気がした。そのせいかうまく発声ができず、声が壊れかけのスピーカーみたいだった。
完璧に景色を視認できるようになったころ、僕が置かれた状況に気づいた。周りは、埃のかぶった作業部屋あるいは倉庫のような場所に生活できるスペースを作った場所だった。視線を下に送ると、さびれたパイプ椅子に腰を掛け、自由を剥奪させるように手と足が拘束されていた。どうやら僕はここで危険分子として扱われているようだ。
「違う、私たちはそういうつもりじゃない」
ダンディな声で焦りながらはっした。どうして怯えた声をかけられたのか分からなかった。しかし、目の周りの筋肉が筋肉痛になるほどに鋭く、僕がにらみつけていたので恐れているのが分かった。
「話が終われば解放する。話をしよう」
この状況で話なんかできるかとつっこみたかったが、僕が置かれている立場を考えてゆっくりとうなずいた。
「もう一度聞く、君はどこにいたか覚えているか?」
「わからない……」
「名前は?」
「奏斗 カエデ……」
「職業は?」
「病気の研究……」
「じゃあ今西暦何年かわかるか?」
「二〇……二五」
「……」
僕は、頭の中にある記憶をすべて広げて、相手が求めていそうな答えを無理やり作り上げた。けれど、僕の記憶は全部つなぎ合わせても、僕が生きた証を表すことができない。さらに、その記憶のすべてが夢のようにあいまいなもので、目覚めてしまったら、誰かに話してしまったら、消えてなくなりそうだった。
質問が終わると、環境音が聞こえるほどの静寂に包みこまれた。外からは動物にしてはあまりにも無秩序な鳴き声が聞こえる。日本はここまで無法地帯だったのかと疑問を浮かべていたが、新たな疑問が、湖の奥底から水面に向かって浮かび上がった。
どうして僕はここにいる?
僕は誰だ?
状況は?
そんな疑問を頭に浮かべていたら、ダンディな男がセンター分けの男に耳打ちをしていた。これから理科室の骸骨になってしまうのかと面白くない冗談を、僕はうわの空で考えていた。
センター分けの男が不服そうに近づいてくる。
これから被告人の僕に判決が下される。有罪か、無罪か。生きるか、死ぬか。男は、僕の不自由をもみほぐすように手と足の拘束具を鋭利な刃物で破壊した。結果は、無罪。
神様は僕が生きることを許してくれたようだ。
座りながら、腕と足を大きく伸ばした。最初は関節が言うことを聞いてくれなかったが、徐々に関節も素直になり、ここでの自由を手に入れることを実感した。
喜びのあまり空も飛べそうな気がしたが、周りの目を気にして、もう少しパイプ椅子と仲良くすることにした。
大きく深呼吸をした。息を大きく吐いて、大きく吸う。
口臭の混じった息を送り出して、帰ってきたのは、埃のかぶった血生臭い匂いを乗せた空気だった。空気に口が臭いと馬鹿にされているようで腹を立てていたが、何度吸っても答えは同じだった。
周りを見渡す。さっきまできつい視線を送っていた奴らも、もう人生の終わりを知っているような表情をしていた。埃のかぶった部屋に大人がそろいもそろってぶち込まれている。きつい視線とさっきの匂い、どうして僕はここにいるのか早く答え合わせがしたい。
「私の名前は、永井。職業は警察官。奏斗君の横にいるのが、三河。私の部下。あそこのソファに座っている水色のカーディガン着ているのが、渚さん。横のショートカットの子が、海原さん。ここにはいないけど、バリケードの見回りをしているのが、吉平君。私たちは、ある目的地を目指しているが、今はここに滞在している」
唐突な自己紹介が始まった。
顔と名前を一致させるために、全員の顔を見回した。
海原と三河からは、僕をあからさまによく思っていないという態度をとっている。特に海原は酷かった。何かしたかと聞きたくなるほどだ。
三河は僕を自由にしてくれた人間。彼からそんな態度をとられたのには、腹の中をかき回された気分だった。
それに比べ渚からは、表も裏もなく、優しさが満ち溢れている。しかも、おしとやかでかわいい。育ちがとてもよさそうだ。
「奏斗君。これを返しておくよ」
返されたのは、白くてプラスチックでできたカードだった。こんなものを持っていた覚えはなかった。目新しいものを見たせいでカードの表と裏を穴ができるまで見入ってしまった。
名前 :奏斗 カエデ
所属 :感染症対策機構防衛課
あとはチップのような堅いものが中に入っているだけで、情報はそれだけだった。
カードに書かれているのだから、僕の名前はこれであっているのだけれど、なんだか今名付けられたような気がした。
それにしてもこれを名付けた人物はどういう神経をしているのだろうか、両方名前のように聞こえる。全くナンセンスだ。
感染症対策機構防衛課という名前は自分の仕事であっても、嘘くさくて嫌いだ。
「ちなみに、これを見て何か思い出すことはあるか?」
そう聞かれても困る。なにせ僕の頭はまだ正常に機能していない。旧式の分厚いパソコンのように頭の回転が遅い。記憶の書き出しの最中に、一つ思い出したことがある。
「金曜の夜は早く帰って、一人でビールをたしなむくらいですかね」
場が凍り付いた。ここはスケート場かと思ったほどだ。
笑わせようとしたつもりはない。多分。
海原と三河は眉間にしわをよせた。永井さんは少し戸惑っている。
少し笑ってくれたのは、渚だった。笑い声は周りを見て控えていたが、顔が笑っていた。
僕は感謝の言葉を目で送った。
「他には何か?」
「何も思い出せません。長いこと眠っていたような感じで、全然記憶がないです」
「じゃあ、さっきの質問に答えられたのは?」
「頭の中で頑張って答えを作りました」
凍っていた場にさらに重い空気になっていった。場は凍るし、空気は重いし、息を吸ったら血なまぐさい。ここは地獄か。
「二〇二〇年のパンデミックは覚えている?」
「覚えていないです」
永井さんは少し驚いた顔をした。世間知らずな男だと思ったのだろう。ここで知っているようなそぶりをすれば常識人になれただろうが、そんな見栄を張るほどの虚勢はない。
パンデミックという聞きなれない言葉に、無邪気な子供のような好奇心が体のどこからか溢れ出してきた。
「できたら教えてくれませんか。パンデミックも今起きている出来事も」
「ああ、 二〇二〇年に、ある感染症が世界に広まってパンデミックを起こした。世界は機能不全を起こした。国として維持するのが厳しくなるところも出てくるぐらいだ。パンデミックを終わらすためにアメリカなどの先進国がワクチンを作った。それでも収まることはなかった。ウイルスがまるで生きているかのように成長や変異を繰り返したからだ。ワクチンはどれだけ作っても無駄になった。その間に、感染者も増えた。ウイルスと攻防を続ける中、更なるパンデミックが起きた。いや、今までが普通の日常でこれが本当のパンデミックだと思うよ」
優しいしわを見していたのに、会話ととともに光が当たらなくなったような顔に変わっていく。
聞かないほうがよかったと後悔はしなかった。
心臓のあたりが熱くなる。求めていた。何かを知ることを。
「二〇二五年九月二〇日今から約一か月前、地球上に生きている約半数の人間が退化した」
「た、退化?」
「ああ、そうだ。正確には脳が退化しているのだが」
その言葉を伝え終わると、汚れたコートの袖をめくって、腕時計を見つめた。
「そろそろ五時ぐらいだな。奏斗君、少し窓の方に来てくれるか」
いわれたままに行動した。歩きにくかった。久々に動いたらしい。
外の景色を見ていると、誰も生きることを望んでいないと目に書き込まれた気分になった。視界の隅に動く群れを察知した。注意深くのぞいてみると、二本の脚で立ち、二本の腕で僕たちに向かって精一杯腕を伸ばしていた。言葉としては認知することのできない音を発していた。人間に向けていい目つきではなかった。最初は数を数えていたが、途中で数えるのをやめた。建物の五階ほどに位置するここがいつでも安全であるとは限らないと感じ始めたからだ。
「あそこの歩道を見てごらん」
指で刺された仕事をすることを放棄した信号機のある道を見つめた。
すると、四十代ぐらいの女性が歩いているのが見えた。何も荷物を持っておらず、服は所々がほころんでいたり、破れていたり、さらに赤く染められていた跡があった。
足を引きずるような不自由な歩き方をしていた。さらには、車道と反対側の腕をあからさまに下げていた。何かを強調するかのように、下がった腕を少し伸ばして広げていた。
顔からは幸せがあふれていた。時々腕のほうを見つめていた。
興味本位からもう少し見ていたかったが、フレームの外を消えていった。
視界の中で、二つの出来事があった。これはどういうことなのか僕の頭で処理することはできなかった。考えた結果、この疑問を目で強く訴えることにした。
「さっき言ったように、彼らの脳が退化したことによって、この現象が起きている。彼らを私たちは退化種と呼んでいる。退化することによって、思考が簡素化され、三大欲求を満たすために行動すると考えられている。下にいる退化種の群れは、おなかをすかせているか誰かを犯したいかの二つで行動していると思うよ。さっきの声も脳からの命令が正常に送られていないのか、もしくは言葉を忘れているのか、どちらにせよ叫ぶことしかできなくなったと考えている。」
「じゃあ、あの女性は?」
「脳の退化に個人差があるというような感じかな。最初は人間としての記憶があったが、退化していくにつれ、記憶がどんどんなくなっていく。記憶がなくなるまでは、人間としての記憶の中で、大事な思い出を行動として繰り返すらしい。あの女性は、いつも五時にあの道を歩く。嬉しそうに。おそらくあの腕の先に大切な人がいたのだろう。他にも家族や恋人と幸せに暮らしているものだっている。今日か明日、それより先は、記憶を忘れ、私たちを食べに来ると思うよ」
記憶のほとんどがかけている僕は、すぐに退化種になってしまうのか。脳でそんなことを考えていたら、人間であると示すように強く心臓がうなりかえしてきた。
「ねえ、もうやめない? 退化種とか呼ぶの。だってあんなの人間じゃないでしょ。生きていても意味の無い害虫と同じ。それとも映画みたいにゾンビって呼ぶのはどう? フィクションの気分になれてよくない?」
突然かけられた海原の言葉は重く、冷たかった。一人だけ現実から戦っていながら、逃げているかのように。
「それはだめだ」
三河が強く否定した。僕にあんな視線を送っておきながら、退化種を擁護したのが腹立たしかった。
「三河に私も賛成だ。彼らの生きている意味は少なくなっているが、生きるために人間としての行動をとっている。ゾンビではない。二〇二〇年からこの戦いは続いている。あの頃、感染者を人間でないと誰が言っていた」
海原は何か言いたそうにしていたが、言葉を口の中で消化するだけして、不完全燃焼してソファに重くのしかかった。
床が抜けるほどの重い空気だったが、まだ知りたいことがあったから話をつづけた。
「あの、僕はどうしてここにいるのですか?」
「ああ、私たちがここにとどまってから三日目だ。ここにつく前、路上に君は倒れこんでいた。最初は死体だと思い、通り過ぎるはずだった。けれど君は横たわったまま僕たちに向かって、話しかけてきた。楽しいかって。その言葉聞いて、私は駆け寄った。私たち以外の言葉を聞いたのが久々だったからだ。外傷はなく、持ち物を探すと、そのカードがあった。耐感染症機構の人間だと知って、君を助けることに決めた。何かを変えてくれると思ったからだ」
近寄り、腕をちぎるかのような強い握力で腕を握ってきた。
「何も思い出せないか?」
握力同様に強い声だった。
「ごめんなさい、何も思い出せないです」
期待に答えられないことが悔しかった。
その言葉を聞くと悲しそうに、僕の腕を離した。
「僕はここに来る前は、退化種の研究をしている人たちの護衛をしていた。時には、危険を冒すような研究を一緒にしてきた。危険だったが、誰も解き明かすことのできなかった世界の謎が少しずつ分かったような気がして、生きていて楽しかった。けど、そんな時間はすぐに終わった。退化種が発生した二週間後、私と三河以外の仲間は全員死んだ。私たちはちょうど居合わせていなかった。現場に戻ると、活気にあふれた研究室は血みどろになっていた。かみ殺されたもの、自ら命を絶ったもの、生きようとあらがったもの、死体は三者三様だった。今でも彼らに付けられた傷跡がどうやってできたのか考えてしまうよ。君を見つけて楽しいかって聞かれたとき、あの頃を思い出した」
後悔した声で一人話した。誰も声をかけられなかった。僕たちに何を求めている。
永井さんの姿になつかしさを感じた。
重苦しい空気はもう床から滑り落ち、退化種の群れに向かって飛び込もうとしているように感じた。
「すまない、暗い話をしてしまって。他に聞きたいことはあるか?」
「退化種の特徴とかはあるんですか?」
「そうだな。一つは脳の退化によって、複雑な動きができなくなったこと。もう一つは、退化種が生まれる前、ウイルスは飛沫感染や空気感染でも感染が見られていたが、生まれた後は、直接体内に唾液や血液が入り込まないと感染しなくなった。それに症状も早い。一時間ほどで初期症状が見られる」
「初期症状?」
「はじめは物忘れとかのちょっとした記憶がかける。次に言葉がうまく出てこなくなるとかかな。」
言葉に明るみが出てきた。この際だから聞けることは聞いておこう。
「どうして二〇二〇年のパンデミックと二〇二五年のパンデミックを同じ出来事として捉えているのですか」
「確かに、症状で言えば全く違う。けれど、共通点もある。最初に退化の症状が見られたのが、二〇二〇年のパンデミックからの感染者や回復者、それにかかわる人間だからだ。そのせいで病院は魔窟と化し、全世界で一気に医療崩壊が起こった。彼らは無秩序ながらも人間として生きている感染者だから、むやみに殺すこともできなかった。殺すことも施すこともできない結果、一か月で人類は絶滅のふちに立たされている。」
「じゃあ、僕たちはこれからどうするんですか」
「私たちも安全な場所を探して、徘徊していた。五日前、無線からある情報を手に入れた。自衛隊基地に生存者を保護する施設があるらしい。私たちは基地に行くと決めた。途中で君を見つけ、物資の補給がてら、ここに滞在している。私たちの計画では、休憩を入れてあと二日でつく予定だ。早朝、ここを出発する。奏斗君、君も来てくれるか」
子供のころに見つけた流れ星のような言葉が耳を刺激してきた。
「もちろんです」
うれしさのあまり即答してしまった。
「晩御飯までは自由だから、屋上に行くといいよ。空気がうまい。体が喜ぶよ。」
じっとしていられなかったからすぐ立ち上がった。
体が軽い。飛んでいきそうだ。
ドアを開け、さびれた廊下を舞台に耳を澄まして歩く。
感情はよどんだ空気から新鮮な空気になることを喜んでいたが、体は怯えていた。
この建物は七階建てで一本長い廊下があり、垂直に交わるように短い廊下がある。それに合わせて部屋がくっついているような作りだった。所々に家具や荷物が置かれているが手入れはされておらず、あまり使われていないようだった。エレベーターはなく、中央の大きな階段一つと外階段でしか階を行き来することはできない。
階段を二階分駆け上がり、重い扉を開けた。
ニ、三歩前に歩き、大きく深呼吸をした。
地上から最も遠い味がした。
太陽が夕焼けを見せてくれた。空に赤いアクセントをついている。
僕の体も赤く染まった。特徴のない灰色の上下スウェットと黒のパーカーを太陽が赤く染め、僕はわざと影を作って遊んだ。それをあざ笑うように風が吹いてくる。
そのたびに、視界に黒い檻が出来てはなくなった。髪の毛が全方位肩につくくらいの長さがあった。うっとうしさを心の中に閉じ込めながら、何も知らないむなしさを感じた。
しかし、太陽はちっぽけな僕を温めてくれた。太陽のやさしさに恩を返すために、僕は太陽が沈むのを見守ることにした。
屋上のさびた鉄製の柵に肘を乗せた。
時々、風で暴れる髪の毛を抑えるように耳にかける。
まぶしいと感じることはなかった。何者でもない太陽にあこがれていた。
太陽が姿を完全に隠そうとしたとき、屋上の扉が開いた。
最初は退化種が入ってきたかと考えたが、あの扉は引き戸だ。開けることは不可能だろう。バリケードが突破されたのなら、下は慌ただしいだろうし。
予想とは裏腹に、規則正しい足音だった。
足音に少し安堵を浮かべていたが、一緒にいるのは少し気まずい。考察の末、太陽が沈んだら出ていこうという決断にいたった。
相手も柵に肘を乗せた。
距離は無視しようにも視界にほんのわずか入ってしまい、少し気を使ってしまう。太陽を見ていたままでは、誰かわからない。相手にばれないように顔を動かさずに、目だけを動かして相手を視認することにした。
渚だった。
僕と変わらないくらいの長さをしたこげ茶色の髪の毛を風でたなびかせて、夕焼けを見ていた。
「何見てるの?」
なれなれしいため口に気づくよりも先に、心がひやりとした。
優しい声からため口が聞こえるのはたまらないものだとくだらない考察よりも前に、考えなければならないことがある。
どう返事をするかだ。
ここで困るのが、何という単語が入っていることだ。
僕が何を見ていたかというと太陽と渚だった。
僕が渚を見ていたことに気づいていないなら夕焼けを見ていたと答えたらいいが、見ていたことに気づいているのなら、話は変わってくる。
こちらに軽蔑や嫌悪感を示しているのかもしれない。
出会って十分程度で嫌われるとは、人と仲良くなる才能の無さに落胆した。
残念ながら、声ではどちらの意味か判断しきれなかった。ここはどちらの場合であっても大丈夫な返答で茶を濁すことにした。
「きれいだな、と思って」
「ありがとう」
少し間をおいて照れながら答えた。
答えは後者のほうだった。返答の仕方から嫌われてはいない。必死に考えたのがばかばかしく感じた。ここから逃げ出したいほど恥ずかしい。
変な空気を払拭すべく、ここはしっかりと否定しておこう。
「夕焼けがきれいだなって話で」
「何それ。上げてから落とすの、やめてよね」
少し怒った口調だった。きれいで優しい見た目のわりに、言葉遣いは少し雑だ。さらには照れたり、怒ったり感情豊かな女性だと気づかされる。
想定外のギャップで心の整理がつかない。
「ごめんなさい。渚さんもきれいですよ」
「ありがとう」
照れながらこちら側に顔を向けて答えた。
渚が頬を赤くしているのをかわいいと感じると同時に、心をもてあそんだことに少し謝罪の念を感じていた。
「渚さんとか堅苦しいからシヲリでいいよ。それよりもカエデって髪長いね。私と同じくらい? それよりも長そう。身長もすごく高いよね。一八〇くらい? 目もすごく綺麗な色だね。エメラルドみたい。堀も深い、もしかしてどこかのハーフ?」
照れながら感謝された後に、まさかの質問攻め。
何から答えたらいいかわからず、駅前に展示されているオブジェクトみたいにただ突っ立ってしまった。
「もしかして私の事も忘れたの? 私、渚シヲリ。大学生でカエデの一応、彼女だけど」
恥ずかしそうに髪を親指と人差し指でつかみまわしながら話してくれた。
不覚にも、夕焼けに照らされたその絵がかわいいと思ってしまった。
彼女という聞きなれない言葉にまだ頭の整理が追い付かない。
「忘れても無理ないよ。だって、私たちネット上のカップルだもん。チャットでしか話したことなくて、まだリアルであったことも話したこともなかったから」
付け足された説明はうれしさと残念の感情が同じくらい混ざって、少し気持ち悪かった。
「ごめん。彼女がいるなんて知らなかった。なぎ……、シヲリは優しくてかわいいから僕にはもったいないよ」
何も覚えていないから、今思ったことを口に出した。
今までは顔を少し相手のほうに向けていただけだが、謝罪の念も込めて、体全身を相手のほうに向けた。
「謝らないでよ。悲しくなるから」
「変な話だけど本当に記憶がなくて、自分の名前思い出すのでギリギリで」
僕とシヲリの間に壁を作るように、髪の毛が邪魔をしてくる。
そのたびに髪の毛を振り払った。
「髪の毛伸ばしているのに、邪魔そう」
少し笑って話してくれた。怒ってなさそうでうれしかった。
「気づいたらこんな髪型だっただけで、伸ばしているわけではないけど、すごく邪魔」
彼女の言葉につられ、笑いながら話した。
「ちょっと待って」
手首から何かを出しながら、僕の背中の方に回った。
「届かないから、しゃがんでよ」
命令のままに行動した。声が弾んでいた。
寸法を測るように髪を触ってきた。
少し恥ずかしく、嬉しい。初めての経験だ。
どうやら髪を結んでくれるようだ。
静かな空気に照れくささを感じ、そこから逃げ出すように言葉をかけた。
「どうして僕が、彼氏だってわかったの?」
その言葉を聞くと、髪を強く引っ張った。聞いてはいけなかったのかもしれない。
あまりの痛さにリアクションを取ってしまった。
「ごめん。ほら、奏斗カエデとか苗字も珍しいし、両方名前みたいになってる人って、なかなかいないでしょ。それに仕事も正式な名前とかは教えてくれなかったけど、護衛とか防衛みたいなことしているって言ってたから。それだけじゃないよ。金曜は早く帰ってビールを飲むのが楽しみって言ったから」
謝ってからは、恥ずかしさからか声が時々高く震えていた。
それが楽器の音みたいで少し面白かった。
「ごめんね、覚えてなくて」
「ほんとそれ、人がどんくらい緊張したかも知らないくせに」
吹っ切れたように真の通った声だった。
「どんくらい?」
「聞かないでよ」
意味の無い談笑に場はほぐれていった。
「ちなみに僕って何歳?」
カードにも生年月日は書いておらず、少し気になっていた。
「三十二歳だけど、全然見えないよね。私、大学生で二十だけど同い年くらいに見える。あ、ちなみに、心から出た誉め言葉だからね。怒らないでね。」
歳を聞いて驚愕した。肌を見るからに三十路は越えていないと思っていた。
思いのほか歳をとっていたことに少し傷ついたが、シヲリがくれた擁護の言葉らしきものもあって心が和らいだ。
それにしても、学生と社会人のカップルって倫理的に大丈夫か?
さらに、相手は成人に成り立て、犯罪の匂いがする。
今までしてきたことなのに、他人のように否定した。シヲリは魅力的であるのに、僕はどこの馬の骨かもわからないからだと思う。
しかし、彼女はこの事実を容認しているようだ。ここで、この問題を打ち明けても意味はないことは分かった。彼女は問題として感じていない。これは僕の倫理観の問題だ。
だから、今は問題として考えるのをやめた。
普通の生活が戻るなら、関係を一度見直すことにした。
僕の結論として、シヲリは期限付きの彼女となった。
「終わったよ」
シヲリの知らない決断を終えると、髪の毛を結び終わっていた。
すべての髪の毛を後頭部に集め、団子にしてくれた。首を振ってもほどけることはなく、頑丈だった。
「ありがとう」
シヲリのほうを向きながら立ち上がり、感謝を伝えた。少しの間しゃがんでいたせいか体が少ししびれた。
シヲリの体は暗かった。
太陽はもう沈んでいた。
太陽が沈んでいたのを確認し、彼女に視線を戻した。
目が合った。黒を基調とした瞳に茶色の斑点が入っている。ダイヤモンドの原石みたいな輝きを見せる。整った顔に柔らかそうな唇、上目遣いから見える瞳、あまりにも美しい姿から立ち眩みが起きそうだった。
見つめあう。
彼女はそらさなかった。
何かを求めるかのように。
心にブレーキがかかった。
考えた末、申し訳ない程度に優しく抱きしめた。
離すと、彼女は何もしゃべらず静かに屋上を去っていった。
彼女の求めるものに答えることはできなかった。求めていることは大体わかっていた。
けれど、できなかった。いや、しなかった。
そういうことは恋人同士でするのが大事だと思ったからだ。
気にしない人もいれば、ありがたくする人もいるだろう。
彼女はとても魅力的で、僕は惚れていると思う。しかし、彼女を愛しているという確信はまだなかった。
彼女が去っていった道を目で追いながら、心が正直に答えてくれた。
失敗を隠すように空を眺めた。
星を眺めるにはまだ明るすぎて、星はきれいに見えなくて、見るのをやめた。
目のやり場に困ったから、目を閉じた。
彼女に悪いことをさせたと思いながら、本音では間違っていないと思っている自分勝手な心が嫌いだった。嫌いという僕も上澄み液みたいだった。
冷たい風が肌を触った。風が吹く音、その後ろからかすかに奴らの呻き声が聞こえる。
それをかき消すように、大きな悲鳴が聞こえた。
シヲリの声だった。
目を開き、全速力で駆け、扉を軽々と開けた。
勢いよく階段を下りると、立ちすくむシヲリの姿が見えた。
シヲリに駆け寄ると、ニ、三メートル前方に奴の姿が見えた。
退化種だ。
髪は乱れ、目は血走っており、焦点があっていない。背骨が取られているかのように体が安定していない。いたるところに小さな傷があるのを確認できた。
これが人間を絶滅の危機に合わせている諸悪の根源だ。地球の法則を無視したような姿だった。肌の細部まで見つめたのは初めてだった。
体が命の危険を感じたのか鳥肌が立った。それに合わせて呼吸が荒くなる。
退化種と出くわしてから十秒ほどが経った。
奴は小刻みに揺れながら、よだれを垂らしている。
おなかが空いているのかもしれないが、こちらを襲ってくる気配はない。
嫌な汗をじわじわとかきながら、呼吸を整える。
こちらに興味を示していない間に、一度ここから離れないと。
シヲリの体をゆすり、ここから逃げようと目でメッセージを送った。
しかし、過呼吸気味で物事を考えることは不可能だった。
一刻も早くここから逃げ出すためシヲリの体担ぎ、奴のいない方向へ、外階段に向かって一直線に逃げた。
何も栄養補給していない体で女性一人を担ぐのはきつく、小走りほどの速さしか出なかった。
逃げてから数秒後だった。
鼓膜を直接揺らしているかのような大きな叫び声だった。それに合わせ不規則な足音を鳴らしながらこちらに迫ってきた。
操り人形のように四肢が互いに意識を持っている走り方をして、とてつもない速さで駆けてくる。
このまま逃げ切ることは不可能だ。
前方右側に部屋のドアが開いていたので、飛び込むように入った。
急な方向転換に体がついていかず、部屋につくと倒れこんでしまい、その反動でシヲリの体も投げ飛ばされた。シヲリに気を使うよりもドアを閉めることを優先した。
退化種は僕らの動きに対応できず、壁にぶつかった音が聞こえた。
恐怖からの解放されたせいか、全身の力が抜けドアに持たれかけながら座り込んだ。
仮初の安全地帯に入ることはできたが、乗り越えなければならない試練があった。
ここからどうやって脱出するか?
他の仲間はどうなっているのか?
退化種が七階まで来ていたということは、僕たちがいた五階にもいる可能性は高い。
不幸中の幸いにも今回はいないと考えたほうが、可能性が高い。
壁にぶつかってしまうほど、奴らの動きは精度が高くない。おそらく、階段を器用に上るほどの能力はない。五階で遭遇したとしても、武器も持っていたようだし、上に逃げてこれば十分に助かる。さすがに仲間を見捨てるほどの非人道的行為をすることはないだろう。五階から窓を開ければ聞こえるほどの大きな鳴き声を持っている。それなら、ここから何かしらの音が聞こえてもおかしくないが、なにも聞き取ることはできない。
以上のことから他の仲間たちはまだ生きているだろう。
その筋が正しいのなら、なぜ七階に退化種がいるのかという問題も上がってくる。
どちらかを肯定するなら、もう片方は否定しなければならない。
僕は身勝手に両方とも肯定した。
「……どうするの?」
床と激しくぶつけたところを抑えながら弱弱しく話しかけてきた。
今の状況が分かるほどに落ち着いてはいるようだ。
「……とりあえず、皆と合流しよう」
どうやって合流するのか、聞いてくることはなかった。
シヲリは、体を小さく体育座りをして震えていた。
「バコッ」
音とともに強い衝撃が伝わった。
ドアに目を向けるとドア越しに奴がいるのが分かった。相手を威嚇するような鳴き声をさせながら僕らを狙っている。
連続して強い衝撃を送ってくる。
負けないように押し返した。
その抵抗もむなしくドアはドアとしての形を忘れ、ただの木片へと形を変えていく。
ドアからは傷まみれの腕が絶望とともに生えてきた。
刻々と絶望が押し寄せてくる。
ここで死ねば地獄から逃げ出せるかもしれない。
シヲリは、顔を伏せて先ほどよりも小さく見えた。
体が壊れるような嗚咽をし、全身の細胞が破天荒に生きているように体が揺れていた。
彼女の姿は死に対して抗っているように見えた。
どうせ死ぬのだからいつ死んだっていいだろう、むしろ死ぬよりもこっちのほうがつらいのではないかと思っていた。
彼女は違った。生きようとしている、そこが地獄でも。
自分よりも年下で、小さな体で、戦っている。
僕はどうする?
体に鞭を入れて、考える。
出てきた答えは簡単だった。
シヲリを守ること。そして、どうしてこんな世界になったのか世界の真実を知ること。
それを叶えるためにも、奴を殺すしかない。
目の前にある片方が尖った三十センチくらいの金属片を見つけた。
見つけた瞬間、行動に移した。
金属片に向かって飛び込み、確実に取りこぼさないように握りしめた。武器を持ち振り返ると、ドアは完全に壊れ、体勢を崩し倒れこんだ奴の姿が見えた。よだれを垂らしながらゆっくりと立ち上がろうとしていた。
生きるためだから、躊躇することはなかった。
互いに大きな叫び声をあげ、生死をかけた戦いを始める。
足で地面を強く踏み、一気に距離を縮める。
左の眼球をつぶし、そこから脳天めがけて突き刺した。
金属片を抜き取ると、眼球がもともとあった方からは、蛇口から出てくる水みたいに血が混じった何かが流れてくる。全身の力が抜けていき、僕の体から逃げるように倒れこんだ。
動くことはなく、時間とともに、断定することのできない液体で染められる面積が増えていく。
手を見ると赤黒く染まっていた。
気づくと、大きな何かに体が押しつぶされそうだった。事実から逃れるように言い訳を考えた。正当防衛とか手が滑ったとか殺すつもりはなかったとか。平然と事実を嘘で塗り固め、他の物にしようとする自分が嫌いだった。
たとえ退化種であろうと人間。その言葉が脳の中を巡り歩き、事実を伝える。
人が死ぬ瞬間、殺した時の感触、血混じった生臭い匂い。
五感に残る感触で、僕の写像を作る。ようやく自覚することができた。
人を殺したことに。
人殺しの称号を手にし、その場に立ち上がった。
シヲリに見せる顔がなかったから、背を向けて言葉を告げた。
「終わったから、行こう」
振り返ることはせず、ゆっくり外階段へ向かって歩き出した。
右手に血が滴り落ちる金属片を持ち、服にも赤色のアクセントが付けられた。この姿を見たシヲリはどう思っただろうか。往生際の悪い妄想をして殺害現場を出た。
自分が犯した罪に押しつぶされそうだった。どうやら僕はこの世に死んでもいい人間はいないと考えるほど道徳心のある人間だった。
このドアを開ければ、誰かが罪を裁いてくれるのではないかと思った。
僕が殺した人間のせいで建付けが悪くなったドアに手を伸ばした。
「殺したの?」
「殺したよ」
彼女の言葉に優しく答えた。
「ありがとう」
「何言っているの?」
「カエデがいなければ私は今頃死んでいた。助けてくれた。」
振り向くことはせず、背中で聞いた。
「カエデは優しい。私を守るために行動した。自分を捨ててまで、そこまで行動できる人間はそういないよ。そして今、殺したことに後悔している。殺さなければカエデは死んでいたんだよ。」
何もかも見透かされていた。
変わってしまった自分に心が追い付かず、今にも空中分解してしまいそうだった。
そんなときに、優しい言葉をかけないでくれ。
今までは、ただ世界を知りたかっただけだった。それなのに、シヲリと出会って変わってしまった。急に彼女と言われてどうすればいいんだ。心がもやもやして気持ち悪い。誰かを殺してまで生きようとするまでの強欲な人間に代わってしまった。経験したことない出来事に、別人に代わってしまったような気がしたが、本当はそんな人間な気がした。
「そっちの階段から降りて、みんなと一緒に逃げてくれ」
シヲリの懇願を押し返すように言った。
いろんな感情がひしめき合い、渦を作る。
「お願い、一緒に来て」
声から涙を流すシヲリの顔が想像できた。
僕と出会ってから彼女は苦しんでばっかりだった。僕は彼氏としてふさわしくない。
彼女に背を向けたままドアを開けた。
別れの言葉は伝えなかった。
ドアを勢いよく閉めると、退化種が出迎えてくれた。
役目を終えた物体や同類を踏みつけながら階段を上がってくる。
身体はふらつきながらも、器用に上がってくる姿にイラつきを覚えた。
自分が何者かもわからない姿で、相手の眼球を突き刺し、そのまま階段を転がり落ちる。動かなくなったのを確認すると、武器を抜き取り、次の敵に向かって攻撃を行う。
はたから見たらどっちが人間かわからない。どちらも人間ではあるが。
一度、人を殺してしまえば、そこからは罪悪感に押しつぶされることはなかった。
前世は民衆を脅かした殺人犯と言わんばかりに、狂気的に殺す。
最初は殺した数を数えていたが、途中で数えるのをやめた。やめたあたりから人を殺したという感覚はなくなり、ゲームのようにどれだけ殺せるか頑張った。
気分はとても良かった。
誰の気も使わなくよかったからだと思う。
こんな時に使う言葉としてふさわしいものは何か探す。
誰にも止められることはなく、やりたいことをして、知りたいことを知る。
自由だ。
すがすがしい笑みが自然と浮かび上がった。こっちのほうが自分に合っていた。
それに気づいたときだった。殺したはずの死体がうまく殺せておらず、死角から攻撃された。よけることはできずに右腕が噛まれた。振り放し、傷がない確認しようとしたが全身が血で塗られていたので目で確認することはできなかった。
しかし、腕に違和感があった。
噛まれた部分を体が妙に反応し、空気に触れると少し気持ち悪かった。何かが流れ出ていく感覚もした。体が新しいものを知り、震えあがった。
お礼をするために、中身の物体を出だすために頭を集中的に破壊した。
堅いものが折れる音、濁った赤色とは違う液体が流れてきた。
一部でも知れたことに満足した。
空気を読んだように退化種が現れた。
違う殺し方をしたらどんな死体になるか知りたかったため、階段から突き落としてみた。空中で半回転してしまったせいで、頭から落ちてしまい、上から死体をうまく観察できなかった。
もう一体、階段から突き落としてみた。地面に対して平行に落ちたため、全体が眺めることができて満足できた。
喜びに感化されたのか、踏みつけられていた退化種や階段を上がってきた退化種が束となって威嚇してきた。大事な人が殺されたかのような叫びだった。
「お前たちは何人の人を殺した、退化させた。それに比べればかわいいほうだろ」
言葉もわからない相手に訴えかけた。
それに返答するように叫び、いっせいに襲ってきた。
せっかく自由になれたのに死ぬのはごめんだ。
退化種になるまでの余生は生きたいように生きる。
順番に殺していった。途中で捌き切れなくなったから押して階段から落としたりした。手当たり次第に傷を作ったり、作られたりした。
襲いかかってきた退化種を一掃した頃、体が命令を聞いてくれなくなった。骨の節々が痛み、筋肉が張っている。出血が多かったせいか、貧血気味で呼吸が荒くなる。
立っているので精一杯になった。
深く呼吸をして、できる限りの酸素を取り込む。近くのフェンスに寄りかかりながら、重りとなった足を引きずりながら前へ進む。
ドアに体重を乗せて押し開ける。建物に入ると役目を終えたかのようにその場で横たわる。呼吸がしにくかった。だから、体を仰向けにした。
天井がぼやけたりくっきりしたり、大きくなったり小さくなったり。
首から下はもう動かすことができなかった。少しずつ血の気が引いてくる。
最後に、生きる喜びを得られてよかった。
身を引きちぎり、骨を折る。障害物競走で障害物を無視して突っ走った感覚だった。
お前らがいなければ、普通の日常を過ごせただろう。その頃の記憶はほぼないが。
いろんなことを学び、知ることができたかもしれない。そんな人生も楽しかったかもしれないが、この世界も嫌いではない。
人を殺しても罪に問われないからだ。おかげで化け物となった人間の最後を見ることができた。
奏斗カエデは法律や誰の手にも邪魔されたくないほどの自由を求める人間だと分かった。
ここで死ぬのは少し未練が残るがもう十分だと思い、目を閉じようとすると奇妙な音が聞こえる。最後の力を振り絞り音の聞こえる方へ顔を向ける。
退化種が人間を喰らっていた。
二人で必死に肉の取り合いをしながら喰らいついていた。
食べられている女性は誰かに助けを呼ぶように、手を僕のいる方へ伸ばしていた。
顔には涙が通った跡があったようにも見えた。
もう死んでいた。
その顔に見覚えがあるような気がしたが、思い出すことができなかった。
顔をもとに戻す。
あの女性に比べれば、最後に人生を全うして生きることができたと思った。
ここで死んだらどこに行くのか考えた。天国か地獄か。新たな命として生まれ変わるか。
生まれ変わるなら、太陽がいい。
縛られることなく、どこへでも行け、世界のすべてを知ることができる。
楽しい考えごとをしていると何かが来た。
二足歩行の動物であることしか認識することができなかった。二匹いる。
体制をかがめ、体の一部分を僕の体に密着した。
数秒を経つと場所を変え、それをずっと繰り返す。
気が付くと目の前が真っ暗になった。
最後に思い出したことは渚シヲリの笑顔だった。
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