5-05 父の手がかり
すべての展翅が終わった頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。今日はもう遅いから、あたしたちはオサム先輩の家でお泊まりすることになり、それぞれが親に連絡を入れた。今は、手分けして片付けをしている。
「アゲハ、使った皿とグラス洗うから、実験室まで持ってきてくれ」
「はーい」
あたしとカーくんでバーベキューの片付けをして、タテハ先輩とオサム先輩は実験室で展翅の片付けをしている。
あたしは使ったグラスを持てるだけ持って、実験室へ行く。扉のそばに流し台があって、カーくんが洗い物をしていた。シンクの中に持ってきた食器を入れて、再び外へと出る。
「あとは、これを持っていけば……、ん?」
残っていたお皿を取ろうとした時、視界の隅で動くものが見えた。
暗くなった林の中、月明かりに照らされて、なにかが木々の間を行ったり来たりしている。ホタルではない。二対の翅を揺らし、ときおり滑空しながら飛ぶやや大きめのチョウ。
「オオムラサキだ!」
村にいた時にその姿は何度も見ていたから、飛び方を見ただけですぐにわかった。
あたしは実験室へと引き返し、テーブルに立てかけていた虫採り網をつかんだ。食器を洗っていたカーくんが「どうした?」と声をかけてきたけど、返事もそこそこに外へ出る。
チョウは……。まだいた。木々の間を飛び回りながら坂道を降りていく。
「待ってよー!」
あたしはオオムラサキを追いかけていった。なんで追いかけるかって? だって、採りたいじゃない! 大会では見かけなかったし、出会うのは村にいた時以来。衝動に駆られるまま、チョウだけを見て走り続けた。
「待ってー! ……あれ?」
気づくとあたしは、暗闇に包まれた細い道路に出てしまった。来た時に通った道じゃない。チョウを追いかけているうちに、道を外れてしまったみたい。辺りを見回しても、さっきまで飛んでいたオオムラサキの姿はない。ただ、道の脇に、怪しい黒い車が一台停まっているだけ……。
ガチャ。
あっ、ドアが開いた!?
あたしはびっくりして肩を震わせた。逃げようときびすを返して、林の中に再び入ろうとした。
「二重らせん!」
って、この声は……!?
あたしは足を止めて、振り向いた。雲の間からのぞく月に照らされて、車のそばにいる人物の姿がはっきりと目に映る。
白衣を着て眼鏡を掛けた男性が、両手を上に伸ばしてからませ、身体と足をひねって、ポーズをとっている。見覚えのある姿に、あたしは思わず声をあげた。
「ゲノム教授!?」
ゲノム教授はあたしを見ると、どこか安心したように手を降ろして、やさしげな微笑を浮かべた。
「君が、
「は、はいっ! そうですけど、なんでゲノム教授がここに!?」
あたしは興奮が抑えきれず、意味もなく辺りをキョロキョロと見回した。周囲にはだれもいない。あたしとゲノム教授の二人だけ。
「実は君に、伝えたいことがあって来たんだ」
「伝えたいこと?」
首を傾げると、ゲノム教授はゆっくりとうなずく。
「そう。君の父親――火津鳥テントウさんのことだよ」
その言葉に、あたしは胸が高鳴って、言葉が出なくなった。
なんで、ゲノム教授がお父さんのことを知っているのかな。同じ昆虫学者だから、もしかして知り合いだったのかな。それよりも、「伝えたい」ことって? ゲノム教授はお父さんのなにを知っているんだろう。
「あ、あの……」
やっとのことで声が出たけど、疑問が次々と湧いてきて頭の中が整理できず、次の言葉が出てこなくなる。
その時、あたしたちの間を、冷たい夜の風が通り過ぎていった。
「場所を変えようか。私の車に乗りたまえ」
そう言って、ゲノム教授は後部座席のドアを開けて、あたしに入るよう促した。
お父さんのことで頭がいっぱいになっているあたしは、言われるままに足を踏み出し、後ろの座席に乗り込んだ。
ゲノム教授がドアを閉め、運転席に乗り込む。
「出発するよ。準備はいいかね?」
あたしはシートベルトをして、こくりとうなずいて返事をした。
車が動き出す。
「あ、あの、ゲノム教授は、なんでお父さんのこと、知ってるんですか?」
あたしはひざに置いた虫採り網をギュッとつかみながら質問した。
けど、あれ? ゲノム教授は運転に集中していて、言葉を返してこない。よく見ると、前の座席と後ろの座席の間には、透明なアクリル板が張られていた。なんでこんな物、取り付けてあるんだろう?
そんなことを思っていると、今日の疲れが出てきたのかな。大きなあくびがひとつ出てしまう。眠気に襲われて、まぶたが重くなっていく。
「おやすみ、火津鳥アゲハ。そして私の野望が叶うのも、もうすぐだ」
ルームミラーに映るゲノム教授の口が、かすかに動いた。けれどもなんて言っているのか聞こえず、あたしの意識は刈り取られるようにして、奪われていった。
* * *
時間は少しさかのぼり、後片付けをしていた頃。
「アゲハ、どうした?」
シンクに置かれた食器を洗っていると、アゲハが突然実験室の中に入ってきた。食器を持ってきたわけじゃない。テーブルに立てかけてあった虫採り網を引っつかんで、足早に出ていく。オレの問いかけにも、「あとで!」って返事をしてきただけ。
「おい、アゲハ。片付けが先だろ……」
もしかして、採りたい虫でも見つけたのか?
オレは蛇口の栓を止めて、アゲハの後を追って外へ出た。バーベキューをしていたところには、まだ使ったお皿が残っている。あきれてため息をこぼしながら、辺りを見回して、アゲハの姿を探した。
「待ってよー」
声が聞こえて、その方向へ視線を向ける。
いた。林の中、虫採り網片手に、なにかを追って走っていく後ろ姿が見えた。
「ったく、アゲハ! そんなとこ行ったら、迷子になっちまうぞ!」
アゲハはオレの声が聞こえないのか、道を外れて、林の中をどんどんと突き進んで行ってしまう。
「あれ~? カブトんどうしたの~?」
「アゲハが林の中を降りていったんす。ちょっと追いかけてきます」
実験室から顔をのぞかせたオサム先輩に言って、オレは走り出した。けれども、ちょっと目を離したすきに、アゲハの姿が見えなくなってしまう。
「あいつ、どこ行ったんだ?」
オレは辺りを見回しながら、とりあえず、アゲハのいた方向へまっすぐ降りていく。
すると林の先に、月明かりに照らされた道路が見えた。すみに怪しい黒い車が一台停まっている。
「なんだ、あの車……?」
オレは木の裏に隠れながら、その車をのぞき見た。車の向こう側に、だれかがいる。車に下半分が隠れてほとんど見えないが、その人物は両手をからませながら上にあげている。今朝も見た、忘れられないあの変なポーズは……。
「まさか、ゲノム教授?」
なんでゲノム教授が、こんな場所に?
そして、彼の見つめる先には、もう一人だれかいた。車にほとんど隠れているが、頭の後ろで結んだポニーテールが見えて、虫採り網の先が揺れている。
間違いない。アゲハだ。
「なんで、ゲノム教授とアゲハが?」
なんて、あっけにとられて見ていたら、二人の話し声が聞こえてきた。
「伝えたい――?」
「そう。――父親、――テントウ――だよ」
離れていて聞き取りづらいが、今、ゲノム教授は「テントウ」って言ったよな。アゲハの父さんの名前だ。
「なんで、ゲノム教授がアゲハの父さんの話をしてんだ?」
疑問に思っていると突然、ドアの開く音が聞こえた。アゲハが車の後部座席に言われるまま乗り込んで、ゲノム教授が運転席に乗り込む。
「えっ!? ちょっと待て! アゲハ!?」
あいつ、知らない人についていくなって学校で習っただろう!? いや、ゲノム教授は知っている人だけど、それでも安易に車に乗り込むなよ!?
オレは慌てて林の中から飛びだした。けれども車は走り出してしまう。オレは「止まれ!」とさけんで手を振りながら、その後を追いかけた。けれども、車はどんどんスピードを上げて、暗闇の中へと消えてしまう。
「なんか、ヤベェことになっちまったぞ……」
暗い道路に取り残されたオレは、胸に手を置きながらつぶやいた。
胸騒ぎに呼応するように、月が雲に隠れ、辺りが闇に染まっていった。
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