The box

東条 朔

第1話 The box

路傍に立つ桜たちがすっかり色を落して、もはや誰も見向きもしなくなった5月の ことだった。僕は予備校をサボって、ある場所に向かうことにした。そうと決めてい たそうしなくてはいけなかった。と、後付すればいかにも僕は止むに止まれぬ義憤に 駆られ断腸の思いでそう決断したように聞こえるものだから日本語は面白い。こうし て何か面白いことを考えていないと、今すぐに立ち止まり道の真ん中で叫びたくなる。 声を出して自分の弱さをかき消してやりたくなる。高3の春は選択の時期だ。だから 進路関係でいざこざが起きるわけで。僕は進路で教師と言い合いになり、言いようの ない不満が体を支配していた。僕は彼らのようなかっこ悪い大人にはなりたくない。 かっこ悪い大人は僕たち子供(僕は自分のことを大人だと信じているけれど)からし たら絶対的な悪であり唾棄すべき肖像であり人生の必要悪のようなものだから。加え て、僕はかっこ悪い大人たちが求める理想的な社会人像などに絶対になってやるもの かと心に誓っていた。彼らは口々に言う、「学生の本分は勉強だ」「いい会社に入る ために、いい大学に入るために勉強しろ」「不純異性交遊などせず早く進路調査書を だせ」と。僕は言葉についてそこに可笑しみを見出せるし、人並み以上に本に触れて きたから言葉が内包する無限的な美しさの一端を知っているつもりだけど、それと同 じくらい言葉に殺された人たちがいた事を言葉の残虐さを記録として 知っている。だから、言葉を使う僕たちは誰かを傷つける覚悟をしなくてはいけないと常々思うの だ。そして真の思想家や啓蒙を授ける人々は皆、自分が周りに与える影響について自 覚的でなくてはならない。なのに、なのにだよ。僕の周りの大人はどうだろうか。例 に担任の城島である。彼は僕が今まで出会った大人の中で最もつまらない大人だ。と いうのも、口を開けば「勉強しろ勉強しろ」「不純異性交遊はするな」とか、そんな 紋切り型の文句を垂れ流すのだ。どれくらいの頻度なのかと言うと、彼が僕達A組の 担任を3年間やってきて、僕らが思い返せる彼が話した日本語が前述した2つ以外な いんじゃないかって思える程。まあこれは、僕ら生徒が城島をバカにする時よく使う ジョークだけど本当のところ僕はその2つ以外覚えていない。閑話休題。つまり、な にが言いたいのかって言うと総じてかっこ悪いつまらない大人たちは型にハマったよ うに「勉強しろ」「不純異性交遊するな」「勉強していい大学、いい会社に入ること が幸福だ」と、僕たちに喧伝しているけれど、じゃあ信じたとして、勉強していい会 社入ってその結果、僕の人生を誰が責任とってくれるのだろうか。答えは決まりきっ ている。僕が僕だけがツケを払うことになるのだ。その結末についてお前達はどこま で自覚的なんだ。僕はカッとなって路傍の石を蹴り飛ばした。僕は自分がどうしよう もない天の邪鬼だと自覚している。いつか読んだ小説に世の中の問題で人間が解決できるのはほんの少しで多くは時間が解決するかあるいは時効となるという一節があっ た。僕はそれを初めて読んだ時悲しくなったことを覚えている。 僕はかっこ悪い大人にはなりたくない。かっこ悪い大人がどんなものか僕は知って いる。けれど、致命的なことにかっこいい大人が何なのか僕は知らなかった。このま までは、その絶対的すぎる時間の支配によってかっこいい大人への切符が時効にされ、 かっこ悪い大人あるいは何者でもないつまらない大人になるのではないか。だから僕 は向かわなければいけない、あの喫茶店に。彼女ならきっと答えを知っている。

喫茶店アルクは僕らの高校から少し離れた米田2丁目に店を構える老舗喫茶店だ。 年季を感じさせる木目調のドアを引くと、真夏であればさぞ涼やかに感じられたであ ろうドアチャイムの音が響く。ブランチタイムには少し早いからなのか店内の客入り は疎らだった。ゴシック調のテーブルやカウンター、深みのある木目の椅子によって 統一され立地的に日が差し込みずらく照明も淡く光を放っている程度なので、全体の 雰囲気として薄暗く何処か秘密基地めいた趣が演出されていた。控えめで程よい音量 でArt BlakeyのMoanin'が流れていた。僕は店内を軽く見回してからカウンター席に 座りこいこいと手招きしている女性を見つけた。

「やあ、相変わらず不健康で不景気な顔してるなぁ。そんなだからアスカにフラれた んじゃないの?」

少し青みがかった黒髪を後ろで束ね、束ねきれなかった髪が陶磁のようにきめ細かい 肌の横顔に掛かり色彩の対比と薄暗い店内とが彼女の肌の白さを際立たせていた。カ ウンターに頬杖をつき半身をこちらに向けているので、時折右目にかかる前髪を鬱陶 しそうに払っていて僕にはその所作が艶やかで完璧なもののように映った。暫く見惚

れているといつの間にか曲が変わりRobert Glasper のso beautifulが流れていた。Moanin'の トランペットとサックスが織りなす陽気な曲調とは対称的に、沈んでいくようなサウ

ンドから音が明るくなりまた暗くなり、その繰り返しが凪を迎えようとする海を想起 させる一方で、ランチタイムを迎えようとする喫茶店の嵐の前の静けさのようだった。 僕は現実に引き戻されたのと同時にカウンターへと向かっていた。

「営業中なのにカウンターでサボってる奴に言われたくねえわ。責任者はどこだ責任 者は。おやっさんにいいつけてやる。」

すると、彼女は「待ってました!その言葉を!」と、いったふうに眼を輝かせた。

「残念!父さんは買い出しに行ったので、今は私が喫茶店の神なのです!いやぁ神最 高!」

彼女はしてやったりと莞爾った。僕はしてやられたので大人しく隣に腰掛けておすす めコーヒーを注文した。このぐーたらな神様をコーヒーの注文によって働かせること がせめてもの抵抗だった。 それから暫く世間話に花を咲かせたりした。情けないことに事此処にいたっても本 題を切り出せずにいた。冷静になってみると果たしてかっこいい大人とは何なのか? それがあったとして、人に聞いたから自分もそうなれるものなのか?この2つが僕の 胸中で渦巻いていた。店内はランチタイムを過ぎ、客は僕しかいなかった。コーヒー 1杯で2時間も居座っていた僕も流石に恥ずかしくなり席を立とうとしたその時だっ た。

「それで...なにか相談があったんじゃないの?」

僕は基本的にオカルトをこれっぽっちも信じていなかったし、小学校に上がる頃には サンタの正体が風呂上がりの父親だと知っていた。けれどこの時は価値観というか自 分の認識の基礎のようなものが少し傾いたように感じた。こいつ、心が読めるのか? もしかしてニュータイ(re ?

「なんで...?」 無意識に言葉が出た。疑問形の応酬だった。

「夏紀はさ、悩み事とか考え事してるとき右手でメガネのテンプルを押さえつけるん だよ。アスカからの受け売りだけどね。」

知らなかった。癖を誰かに指摘されたのは初めてのことで少し恥ずかしい。でも、気 持ちは楽になった。そして僕は幸せだと実感できた。悩みというのは打ち明けにくい のが当たり前で話の口火を切るには自己を犠牲にして全てを明け渡すようなそんな勇 気とか決断力が必要となるものだから。

「さ、話してみなよ。夏紀のことだから私なんかじゃ解決できない問題かもだけど、 言葉にすれば、形にしてしまえば後は時間が解決してくれるんだからさ」

やはり、幸福だ。そして僕は間違っちゃいなくて、やはり凛はかっこいい大人だった。 真の贅沢というものはただ一つしかなく、それは人間関係の贅沢である。僕はサン・ テグジュペリのこの言葉の意味を忘れることはないだろう。 それからの会話は心地よいものだった。かっこいい大人の秘訣とか、そんなものはな いってのが凛の回答だった。そして、もっと悩めとアドバイスしてくれた。これから もずっと、苦しみながら生きていこうと思う。 僕はかっこ悪い大人にはなりたくない。人間社会が長い時間をかけて最適化してき た白い箱は、大人になりかけの僕たちに型通りの人間になることを強要する。きっと殆どの人間が、その巨大すぎる時間と先達に同調しようとする生存本能に調教され、 最期には白い箱に収められるのだ。そのときには僕の悩みとか年相応のむにゃむにゃ は、彼岸へと至るための船賃として霧散して白い箱は幼年期の終りを収める棺桶へと 早変わりするのだ。これを大人になるというのだろう。いずれそうなるとしても、僕 は凛のように誰かの悩みを親身になって聞いてあげたり、誰かの痛みを自分のことの ように忸怩するそんなかっこいい大人になりたいと心の底からそう思った。


もうすぐ梅雨がくる。

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The box 東条 朔 @shuyanatsuki

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