悲しい保険金 岬龍三郎

ノエル

そのホームレスは殺されたのか、それとも、不慮の死なのか……。

この小説は次のように始まる。 

 あれは、京の南には珍しく雪の降り積もった夜のことだった――。

   *

 里中が読み始めた、あるホームレスの書いた遺稿ともいうべき小説は、そんな書き出しで始まっていた。長い間に亘って綴られたのであろう、手垢にまみれたこの原稿を持参したのは、そのホームレスの友人を名乗る土肥という人物であった。


 里中は元新聞記者で、いまは黎文堂出版のノンフィクション部門の編集長である。その里中を彼の見も知らぬ土肥という老人が訪ねてきたのである。

 紳士然として静かなもの言いをする土肥によると、ホームレスは、その名を吉田栄一といい、まさかのときにはこの遺稿が自分のもとに届けられるよう原稿の一番上の紙に彼の住所と名前が書き付けられていたのだという。そして、

川の中に半身を浸すようにして動かない男性がいるとの通報を受けた警察が付近を調査した。その結果、現場から少し離れたところにホームレスの住処があり、彼の所有物と思われる鞄があった。中を調べてみると、宛て先と電話番号の書かれた原稿があった。


 その原稿が警察の手を経て、土肥の手に渡ったというわけであった。

 原稿を読んだ土肥は、ほぼ吉田の自叙伝となるであろう、そのあまりにやるせないストーリィに胸を打たれ、知り合いの知り合いを通じて、ドキュメンタリー系の図書や月刊誌を刊行している里中のところまでやってきたというのである。


 里中は、手渡された原稿の出だし部分をしばらく読んでから、原稿から眼を離した。

 結局は、この奥さんの言うとおりの事態が現実化してしまったというのか――。

 土肥の話によると、吉田は、川の中に半身を浸すようにして冷たくなっていたという。

 明日はわが身とはいうものの、幸せなときは誰しもホームレスにまで落ちるとは思っていない。おそらくこの奥さんも、そこまで実感していなかったに違いない……。

 ここ数年、ホームレスの老人たちが少年や青年に襲撃され、ねぐらどころか命までも奪われる事件が後を絶っていない。ひょっとして、この吉田という男もそのような目に遭ったことがあるのだろうか……。


 里中は、これを部下の三田に読ませてみようと思った。

 里中は、斜め前にいる女性に吉田の原稿をコピーさせたあと、三田を自分のデスクに呼んで言った。

「これは、さっきわたしを訪ねてきた人物が置いていった原稿だ。ずいぶん汚れた手書きの原稿だが、先入観をもってもらわないためにも、なにもコメントしない。期限は四日間。ただし、無理はしなくていい。なにも言わず、虚心坦懐に読んでみてほしい」

「わかりました。四日間ですね」

 三田は、最近の若者にはない謙虚さと律儀さがあり、そのわりに穿ったもの言いをする男であった。

 どちらかといえば勇猛さに欠けるところのある里中には、それが頼りになった。任せるものは任せる。無理強いはしない。だが、最終責任は長としての自分が取る。

 どこかの政治家のような責任転嫁は間違ってもしない――。そんな矜持が、編集長としての里中にはあった。

「ちょっと出かけてくる」

 里中は、斜め前の女性に言い、行きつけの図書館に向かった。土肥が言っていた十二月十七日の夕刊か翌日の朝刊で、吉田の死の状況を確かめてみようと思ったのである。

 

 果たせるかな、吉田の死は報じられていた。

 地方紙の三面記事、京都新聞朝刊の雑記事のほんのわずかなスペースに「ホームレス 川の中で凍死」との見出しがあった。

     *

 十七日午前七時半ごろ、京都市伏見区横大路三栖大黒町大信寺橋上ルの新高瀬川左岸の河川敷下で男性が腰まで水に浸かり、じっとしているのをたまたま通りかかった自称村上真治さん(住所不定)が発見し、伏見署に届け出た。

 男性の遺体を発見した村上さんによると、この男性は「ヨシダ」と名乗るホームレスで、約半年ほど前から大信寺橋の下流にある新大手橋下の河川敷に仮設住居を作り、一緒に住んでいたことがあるという。

 伏見署では、男性の着衣に乱れもなく、河川敷周辺の法面にも争った形跡がないところから、入水自殺を試みたものの、なんらかの不具合が生じて果たせず、そのまま水中で凍死したものとみている。

 昨夜の最低気温は、今冬一番の冷え込みでマイナス八度。現場付近は道路が凍てつき、新油小路や京滋バイパスなど主要幹線道路では車が渋滞し、一時、通行止めとなった。

     *


 里中は、京都に行ってみようと思った。もはや新聞記者でもない自分がこのようなことに首を突っ込むのはどうか、との思いが脳裏を掠めたが、土肥の、あの透明な眼差しが里中の眼の奥のなにかを射た。

 あの眼で見つめられてなんともない男は、どうかしている。おそらくは吉田もあの眼の奥底にあるはずのものに救いを求めたかったに違いない。だが、それこそは新聞にもあったように「なんらかの不具合」で満たすことが叶わなかったのだ。


出典 https://www.honzuki.jp/book/295624/review/257379/

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