ブラウンラットの巣窟
汚物の臭いが完膚なきまでに嗅覚をいじめ抜いてくる。それでも人は慣れてしまうのだから環境適応能力を馬鹿には出来ない。
「ここを出たらシャワーを浴びたいね」
まだ鼻が慣れきっていないハジメはそう漏らした。下水道を行くと予め知らされていたのでポロシャツにジーンズ、足元はスニーカーと随分とラフな格好だ。
対してノックは相変わらずのスーツだ。役職がついて回る立場だと大変である。
ゾンビ擬きを造り出す薬をばら蒔く売人のルートはやはり人外の通り道らしい。薬を購入した者達の情報から割り出したルートは下水道であった。
都市部の地下に張り巡らされた下水道は確かに裏のものを移動させるのに丁度いい。警察も恐らく調べただろうが売人がネズミとなれば気付かずに見逃してしまうだろう。今一度調べる必要があった。
教会USA本部から借りてきた魔力探知の端末は確かに人ならざる者の気配を察知している。
道をライトで照らしながら進む。時折普通のネズミが通り過ぎたり、住み処を得られなかったホームレスと出会したりしたが、依然として売人である者にはぶつからない。
端末を見る限りいるにはいるのだが絶えず移動しているのだ。運んでいる最中なのか、それとも。
「ノック。一応戦闘の準備はしておいてくれ」
「わかった」
本部から支給された一時的に一般人でも悪魔を目視出来るようになるタブレットだ。一時間程の間悪魔を認識出来る。対悪魔用の弾丸は常に携帯しているようで、FBIの特異事件担当の実態が垣間見える。
端末に映るターゲットを追ううちに開けた場所に出た。下水の合流地点だろう。一層濃くなった臭いにハジメが「勘弁してくれ」と嘆いた。
ターゲットが動いた。端末に映っているターゲットは今までのスピードとは比べ物にならない速さでこちらに近付いてくる。
白銀に輝く銃を呼び出す。
「来る」
流れてくる汚水に乗り、悪魔がやって来る。ライトに照らされた濁流から黒い何かが飛び出した。
刺激臭を撒き散らすそれに顔をしかめながら散弾をぶちこむ。白い礫が黒い塊を捉えると、それは無数の小さな赤い目を見開き、弾けるように拡散した。
ネズミの集団だ。それらは群れをなして飛び出してきていた。だが攻撃を受けた今、ネズミ達は個々の意思を持ちこちらに襲い掛かった。
散弾で迎え撃つも、飛び掛かるネズミもいれば足元から攻めてくるネズミもあり、這い上がってスニーカーをかじられ慌てて振り払う。
ノックも退魔弾で応戦するが、似たような状況だ。警棒で戦うハジメに至っては大分ネズミに這い上がられている。
「顔を庇え!」
人間には大した効力がないのを見越して散弾を撃つと、ネズミがボトボトと落ちた。ハジメは腕や胴に衝撃を受け僅か呻いたがネズミから解放された事に多少安堵したようだ。
「キリがないぞ!」
ノックの声に歯噛みする。倒しても何処からか仲間を呼んでくる。誘い込まれたのは明白だった。
「恐らく操る者がいる。そいつを見付け出すしかない!」
魔力探知の端末には無数の赤の光が浮かんでいる。探索範囲を広めて見つけ出そうとするも、端末をネズミに奪われた。
ノックがネズミを撃ち抜く。だが端末は床に落ちる前に違うネズミに掠め取られた。
「野郎!」
ノックが思わず汚く罵った。
『鬱陶しいんだよテメェらッ!!』
その時ハジメが吼えた。彼の声はまるで衝撃波のように空気を震わせ、ハジメにしがみついていたネズミを吹き飛ばす。コンクリートの道に跳ねるように転がったネズミは仰向けのまま動かなくなる。
『死に損ない共が! 冥界に送り還してやる!』
ハジメは釣り上げた目を赤く輝かせた。彼に力を貸す冥界の番犬がハジメの体を借りているらしい。
まだ動けるネズミ達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。番犬の力には敵わないと踏んだのか、あっという間に姿が見えなくなった。
「冥府の番人には敵わないらしい」
ノックはジャケットについた汚物を落とすように叩いた。
ひっくり返ったままのネズミの一匹が動き出した。その目は獣本来の色に輝いて人間の姿に驚いて逃げて行った。
転がったネズミを一望する。
「取引の品を持ってる奴は見当たらないな」
「こちらが来るのを予測していたんだろう。端末はあるか?」
先程ネズミに奪われてしまったがもしかしたら近くに落ちているかもしれない。探すと少し先を行った所に落ちていた。ディスプレイにひびが入っているものの使うのに支障はなさそうだ。
「先程から黙り混んでいるが大丈夫か?」
ノックがハジメを気遣う。ハジメは鼻を摘まんで喘いでいる。
「流石番犬、鼻が利く」
泣き声に同情するも進まなければならない。ハジメは心配そうなノックに大丈夫だと手を振って先を行かせた。
端末には逃げていくネズミ達が示されている。それに紛れて動かない印が表れた。捕捉範囲に表れたそれは距離を縮めても微動だにしない。進んでいくと一際腐臭を撒き散らす何かが見えてきた。
それが死体だと気付くのにさして時間は掛からなかった。大分腐敗しており、蛆の這う体は殆ど骨が見えている。ハジメが死体に小さく呻いた。
慎重に近寄ると突如死体が動いた。ショットガンを構えるのと死体が飛び掛かるのは同時だった。
ノックのリボルバーが鳴くと死体の頭に風穴が空いた。退魔の力が込められた弾は死体を本来の骨と肉の塊に戻し、屍は倒れた。
「売人か?」
「かもしれない」
死体を一瞥する。売り捌かれる薬でこれの仲間入り。とてもじゃないが自分はドラッグを買う気にはならない。
再び端末を見る。魔力反応。
上を見上げると赤い目と視線が合った。
「上だ!」
散弾を撃ち込みながら下がるとドン、と大きな音を立ててそれは落ちてきた。
人間程の大きさをしたネズミだ。散弾を食らって黒い血を流しながらも巨大な歯を見せて威嚇している。
どんなに巨大でもネズミには変わりないのか見た目に合わぬ俊敏さで一気に距離を縮めて襲い掛かってくる。
高く跳んでネズミの背に手をついて飛び越し、散弾をぶち込む。
ノックもハジメの前に出ると退魔の銃弾を複数撃ち込み、滑りのある体を黒い血で染め上げる。
ネズミは長い尾を鞭のように扱うとノックのリボルバーを弾いた。
ノックは舌打ちし、スーツの上着に手を差し込んだ。握られたオートマチックの銃が火を噴いた。
お返しとばかりに振り上げられたネズミの尻尾を撃ち抜き、ホースのような長い尾が下水に飛沫を上げて落ちる。
ネズミは怒ったように鳴いて突進してきた。見守っていたハジメに逃げるように言って走る。逃げ様に散弾を撒くと、巨大な前歯で持ってかじりつかれた。
寸前で避け、剥き出しの歯に銃弾を撃ち込む。巨大な前歯は散弾によって粉々になる。
間の抜けた面になった所にノックが狙い撃つ。ノックの放った鉛弾は折れた前歯の隙間から口内に吸い込まれた。
ネズミの赤い目が見開かれる。悶えるような鳴き声を上げるのを見て、銃口を口に捩じ込む。
ドン、と大きな発泡音と共にネズミの後頭部から血が飛んだ。
どう、と巨大な体が横たわり動かなくなる。発光する銃口でつついてみるが動く気配はない。
「こちらが来るのを待っていたのか?」
ノックが巨大なネズミを見下ろしながら言った。その意見には大方賛成だ。ネズミが一度に襲い掛かってきた事も含め、やはり向こうにこちらの動きが読まれているのだろう。
「しかしこうなると手掛かりは望み薄か」
「そうだろうな」
「まだわからないかも」
希望の声を放ったのはハジメだ。
「ついてきて」
ハジメはその目を赤く光らせて走り出す。ノックと顔を見合わせて彼の後を追った。彼に宿った番犬の力が何かを捉えたのだろう。
ハジメは暗い道を迷いなく走る。まるで何かを追うように迷いのない足取りだ。暫く進むとハジメは天井を見上げたまま足を止めた。上にはマンホールに繋がっているであろう梯子が並んでいる。
「大きなネズミから出てきた霊体が此処を上っていった」
ハジメの言葉にノックがスマートフォンを取り出す。幸い電波は届いているらしく、GPSを起動させた。画面が地図を表示する迄に頭上からベルの音が聞こえた。
「この音は?」
聞き覚えがある。二週間程世話になったジーキンスの大学の始業ベルだ。どうやら頭上は今もダニーが潜入している大学らしい。それを裏付けるようにノックのスマートフォンが現在地が大学であると示してくれた。
「どうやら関係者が校内にいるようだな」
「オレの顔が割れたのは痛いな。ダニー一人で校内を探させるのは骨が折れる」
「裏付けが取れただけいい。それに奴もなんだかんだで楽しんでいる節があるしな」
ノックはそう言ってスマートフォンで番号を呼び出し、電話を掛けた。相手はダニーだろう。ノックは話をかいつまんで伝えた。
「犯人が校内にいる可能性が高い。今、調度真下にいる。怪しい奴がいないかだけ注意をしておいてくれ。詳しい事は晩話す」
少しの間耳を傾け、ノックは通話を切った。
「学校関係者の死霊術師か」
余りぴんとこないワード同士である。もしかしたら今たまたま校内にいるだけで職員や生徒でない可能性もあるが、取り敢えずは校内に絞り、当てが外れたら調べ直すでも構わないだろう。
なんせ情報が少ないのだ。それに薬は学生内での売買が多い。学校関係者である可能性の方が高いだろう。
「取り敢えず、やる事ないなら外出ない?」
ハジメの声は疲労に満ちていた。
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