06 野宿

 窓から洩れる昼の明かりにも関らずつけられた青白い蛍光灯の下、緑色のつば付き帽をかぶった短髪の人物がボールペンで書類にサインをする。手に持っていたペンのふたを閉め、ボールペンとサイン済みの書類をカウンターの向こうの女に手渡した。

「はい。それでは少々お待ちください」

 書類を持って女はカウンターの向こうに歩いて行く。緑の制服の人物は壁に沿っておかれた長椅子で寝ている乳児に目を留め、抱え上げた。

 乳児はぱちりと黒目がちな目を開き、きゃっきゃと笑って頬に手を触れる。


「お待たせいたしました」

 カウンター横の扉から先ほどの女が出てくる。

「それではご案内いたします」

「はい」

 反り返った乳児を抱え直して、歩き出した女の後を緑の制服を着た人物はついて行く。重たそうな金属製の扉を開錠し、中に入ってから再び鍵をかける。コンクリート製の無機質な窓の無い廊下を女と緑の制服の人物は進んでいく。

 その横を二人の書類を抱えた男女が通り過ぎた。

 離れてから、男の方が後ろをちらりと振り向く。

「可哀そうに、父親がここにいるのか」

「あれ。今のって女の人だったの」

 女の方も振り向いた。先頭を歩く案内の女は透明な扉の前で立ち止まった。

 横に取り付けられたパネルに指を押し当てると、扉が横にスライドして開く。

「こちらです。では……十一時まで。どうぞごゆっくり」

 腕時計を確認し、女は丁寧に頭を下げた。

「ありがとうございます」

 緑の制服の人物は乳児に気を付けつつ、帽子のつばを押さえて軽く頭を下げ返した。

 コンクリート壁の薄暗い部屋の中に入っていく。


 窓の無いその部屋の中央を仕切る、透明な板の向こうに制服の人物は笑いかけた。

「久しぶり」

 透明な板の向こうには職員が二人、中央には拘束衣を着せられた女が椅子に固定されていた。袖口の無い両袖をベルトできつく締められ、口には固定器具をはめられている。長いくせっ毛の黒髪を肩に下ろして、口元と鼻立ちは人形の様に整っている。

 その目には丈夫そうな目隠しがかけられていた。

「昨日この子の誕生日でね、一歳になったんだ」

 抱えられた乳児は頬を膨らませてガラス板に触れようとするも届かない。緑の制服の人物は置かれていたパイプ椅子を引き、腰を下ろした。

「それでね、アルバム見てたら懐かしい写真が出てきて……」

 前のめりになる乳児を手でなだめる。

「……楽しかったよね、この頃。まぁ初めはちょっとあれだったけど」

 えへへと目線をそらして、緑の制服の人物は拘束衣の女に目を向ける。目隠しのかけられた女の目線は前で固定されている。

「覚えてる? 初めて野宿した時……」





 細かい星のちりばめられた空が木の葉の重なる隙間から見える。

 暗い森の中で、携帯ライトの白い明かりが血の付いたナイフを光らせた。ナイフを握った手をぐっと引き、太陽はナイフを引き抜く。

「……食うか」

 血を滴らせている、ピンク色の鮮やかな魚の切り身を指先で掴んでキヨラと尹の方に差し出した。切り身の魚に視線を下ろし、反対の手でそれを取って口に入れようとした太陽の手を尹が掴んだ。

「生で食うな」

 真剣な表情の尹を、太陽は訳が分からないと言う風な表情で見返す。

「私がこれをどう食おうと構わないだろ」

「そうなんだが生だけはやめとけ」

 なおも説得する尹に、太陽は横目でキヨラを見た。キヨラは差し出されたピンクに艶めく骨のついた魚の切り身に目を向ける。

「えっと……私も、流石に生はちょっと……」

 キヨラは若干引き気味だった。その反応に明らかに困惑を見せる太陽に、手を離して尹が解説する。

「確かに昔は海産物を生で食うこともあったらしいが……歴史で習わなかったのか? 戦争で水が汚染されたから、現在は最低限火を通すように、って……」

 へぇ、とキヨラが声を漏らす。太陽は無言で、手に持った魚の切り身を見つめた。

「てことは、今までずっと生だったのか」

 不安そうな目で尹は太陽を見た。

「……平気だった」

「待て」

 切り身を口に入れようとする太陽の手を止める。



 ぱちぱちと明かりを散らす火の周りから枝に刺した魚を引き抜き、尹は遠くの木の下で縮こまっている太陽へと歩み寄った。

「ほら」

 差し出された焼き魚を受け取り、少し眺めてから太陽は小さく噛り付いた。たき火の横で魚を口にくわえているキヨラが口を離して太陽の方を向いた。

「それにしても、火が苦手だったなんて意外……」

 火の弾ける音のみが聞こえるライトの明かりの傍で、太陽はやや眉をひそめる。

「俺的には今まで食生活の方が意外だったけどな」

 自身も魚を取って、尹は噛り付きながら太陽を眺める。

「でも、尹が料理得意ってのも意外だったかも」

「これ料理って言うか……まぁ、昔は家事やってたからな」

 口の中から骨を引き抜きながら尹は言葉を続ける。

「母さんが働きに出てる間、家のことと妹の世話は俺がやってたんだ」

「妹がいるんだ。いいなぁ」

「多分、あいつは俺のこと恨んでると思うけどな」

 言って、魚の最後の一口をかじり取った尹にキヨラはえ、と声を漏らす。

「どうして?」

「仕送りするって約束したんだが、その契約がどうも嘘だったらしいからな」

 食べかけの魚を持った手を空中で止めて、キヨラは尹の顔を見た。魚の身をこそげ落とした木の枝を放り投げて尹はキヨラを上目に見る。

「そういやお前は家族はどうしたんだ? 見たところ十七くらいだが」

 突然聞かれてぼんやりとしていたキヨラは、慌てて手放しかけた魚を持ち直す。

「私の家族は、えっと……分からないや」

「えっ」

 あっさりと笑っているキヨラに尹は声を上げた。

「じゃ、じゃあ太陽に会うまでどうしてたんだ?」

「踊り子をやってた……というか、やらされてた、かな」

 キヨラの身にまとっているきらびやかな衣装を見て、尹は納得したような、しかし戸惑いを含んだ表情になる。最後の一口をかじってキヨラは太陽の方を向いた。

「太陽は……あれ」

 いつの間にか携帯ライトの明かりは消されて、太陽はうずくまったまま木の幹に寄りかかって眠っていた。サングラスは外されて丁寧に地面に置かれている。

「……話過ぎたな。寝るか」

 尹は小さくなった火に手ですくった川の水をかけて、火を消した。

 残された煙の匂いが夜風に流される。


 雲が流れ、月明かりが揺れる木の葉の隙間から僅かに漏れ込む。白くほのかに照らされた太陽の寝顔を、キヨラはふと見つめた。

 額に刻まれた深い二本のしわを挟んで、閉じられた両瞼と長いまつ毛。強く結ばれた唇は僅かに下唇を噛みしめている。

 小さく寝息を立てている太陽の跳ねた髪に風がそよいだ。

「……太陽って、綺麗……」

 ぼんやりと太陽の顔を眺めたまま立ち尽くしていた。だがはっと我に返る。

「そうだ、寝るんだった」

 いそいそとキヨラは目を離して、隣の木陰に横になった。

 フクロウの鳴き声が静寂の中に響く。

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