第四話 大国邸の鬼退治

「ひでぇよマリリン……おいらの尻尾どうしてくれるんだよ」

 その夜のことである。食後の温泉で疲れを癒し、後は部屋でのんびりするかと戻ってみると、またしてもゴンさんがブチブチと文句を垂れていた。今はようやく妖力も回復したのか人の姿にもどっているゴンさんだが、その尻からはチンマリとした尻尾が生えていた。その毛玉を悔しげに撫でながら恨みがましい目をマリリンに向けていた。さすがに女将さんや仲居さんの前ではそんな姿は見せないものの、部外者がいなくなると途端に落ちこみ、その玉葱みたいな尻尾を撫でては嗚咽をもらす。見ていて気が滅入ることこの上ない。

 よほどショックだったのだろう、宿に帰ってからはずっとこの有様である。   

「しつこいですよ。オスのくせに。だいたい陰陽師なんぞに捕まるバカ狐が悪いのです」

 返す言葉は身もふたもない。そりゃぁゴンさんを助けるには、あの場合、尻尾をちょん切るしかなかったとは思うけど、そこは、お互いにモンスターと妖怪同士なんだから、もう少し労りの言葉ってものもあるんじゃないの。

「ううっ、尻尾がなくなりゃ妖力も半減するんだぞ、ぐすん……」

「へぇ、それはちょっと気の毒なんとちゃうやろか?」

「いーえ、もともと大した妖力もないくせに当てつけがましぃんですよ」

「でも、車の運転はすごくうまいよ」

「そうだぞ。それに狐火だって出せるんだぞ」

 えっと、確か、煙草の火をつけるのに便利なんだよね。

「ふん、ポットのお湯も沸かせないチョロ火のくせに」

 いやはや、これではもはや子供の言い争いだ。

 こんなのが俺の部下だと思うと、なんだか少し泣けてくる。

「なぁ、もうケンカなんかやめて、二人とも風呂にでも入ってさっぱりしたら?」

「もう風呂はごめんでやんす」

 む、これは失言だったか。ゴンさん、すっかりいじけて布団の中にもぐり込んでしまった。まぁ気持ちは分かる。のんびり風呂に入っていたところ偶然居合わせた裏陰陽師たちに正体がばれてしまい、逃げる暇もなく呪符の攻撃を受け、妖力を奪われてしまい、捕獲されてしまったんだものな。ここ数日は風呂嫌いになっても仕方がない。

「ところで、ご主人様、そんなことより地獄から小包が届いているのですが……」

「ん、小包だって?」俺はなにげに嫌な予感がした。

 見れば黒猫がトレードマークの宅配の包みが座卓の上に置かれていた。

 ガサゴソとマリリンが包みをほどくと中から箱が三つ出てきた。

「もしかしてスマホか!」

 俺は期待に胸を膨らませながらさっそく箱を開けてみた。

 そして、がっくりと肩を落とす。「赤にピンクにオレンジときたか……」

 にわかに頭痛も覚える。「やはり、かなり乙女チックな好みを押しつけやがるな」

 だが、心ならずも納得せざるをえない。なにしろ地獄の盟主にしてありがちなゴスロリをつらぬく勇者様だ。その趣味からして、この結末はある程度は予想していたことだ。

「まぁ、しょうがない。あまり趣味じゃないけど、ここは無難に赤色の機種を――」

「いえ、駄目です。地獄のほうでも、それぞれの電話番号を登録しておりますので勝手に機種は選べません。私はオレンジ。ゴンは赤。すでに決められております」

 そして、さっさと自分の機種を手に取るマリリンである。

「――ってことは、よりによってピンクかよ!」

「ま、それはさておき。あの陰陽師ども、迎えにまいると申しておりましたのに」

「あぁん、そんなもん律儀に待ってたのかよ?」

「もちろんです。あのような連中を野放しにするなど……ひ、ひああああっ!」

 そこで突然悲鳴をあげるや、なぜかマリリンは携帯電話を片手に小刻みに震えだした。

 ははぁん、どうやらマナーモードになっていたようだな。

 やがて、その携帯電話から甲高い声が聞こえてきた。

「どう、スマホ、気に入ってくれたぁ!」

「これはこれは、大王様。さっそくのお電話、かたじけなく…」

 そしてスマホに向かって平伏するマリリンである。

「さても、おおむね大王様の心遣いには感謝しておりますが、もう少し落ち着いた色のほうが心理的にも負担が軽いという意見もなきにしもあらずでございまして……」

「いやいや、そこは苦しゅうないぞ。わらわが直々に人界へと赴き、選んでやった機種じゃ。遠慮などいたすな」

「ははぁ、これはもったいなきお言葉で……」

「ならば電話を代わるぞ。今、三朗が地獄に来ておるのでな」

「あぁ、もしもし三朗でございますが、そちらに、おぼっちゃまはおられますか?」

「あぁ、はい、いますけど……」

 そして俺はマリリンからスマホを受け取った。

「では、お伝えします。やはり、おぼっちゃまの憶測どおりです。開発を行っていた事業団は抱える赤字に焦るあまり偽装工作を行っておりました。ですが、やくざ者や裏陰陽師を雇っていたのは、あくまで鳴金市の市長と、その裏で繋がる不動産会社ということにしておいてください」

「ま、それでええんやったら別にかまへんけどな。こっちもそのほうが助かるしな。でも、ほんまに、それでええのん?」

「仰せのとおり。非合法な営業妨害は別にしても資源開発の偽装は大事件です。ですが、それが世間に知れると社会は大混乱となりましょう。地獄としても人界への必要以上の干渉はなるべく控えたいところですし……」

「でも、このまま放置しておくのもまずくね?」

「心配はご無用です。それにつきましては政財界を通じて苦言を呈しておきましたから、今後は健全化がはかられ、強引な再開発も中止になるかと思われます」

「なら安心やけど。となれば残りの問題は、あの裏陰陽師とかいう連中だけやな?」

「でございますな。まだ確証にまでは至っておりませんが、例の術者どもが社長の殺害にも関与していたことは明白でしょう。さればダイコクグループの経営する巨大ショッピングモールに人生を狂わされた人々はおぼっちゃまの他にも多々おりましょう。会社を大きくすることで恨みを買うこともございますとも。その恨みを利用し、社長の奥様に呪いをかけたのでありましょうな。これは社長が招いた因果応報とも言えなくもありませんが」

「まったく今回の経験でつくづく理解したよ。一見、平和そうに見える人の世が、いかに深い闇に包まれているのかってことがね。その闇に捕らわれて人を恨むこともある。心ならずも世間を疎ましく思うこともある。まぁ、つい最近まで俺もそんな感じだったんだけどね。……でもまぁ、それはともかくとして。あの謎の裏陰陽師たちが私利私欲の力を用いて不必要に不幸をまき散らしているのだとすれば、やっぱり、そんな行為は許せへんな」

 そこへ大王様の声が響いた。

「さて的場貴史改め大黒摩耶よ。天の理を無視し、我欲のままに他者をもてあそぶ。もし、そのような行為が行われているとするならば地獄へ堕とすにふさわしい。地獄の盟主として命じる。仏の威光に逆らうその者どもにはそれ相応の罰をもって報いてやるがよいぞ!」

「――仰せのままに」

 俺の口から思わず畏敬の念が言葉となって飛び出していた。


 ところが夜の十一時を回っても、結局、裏陰陽師たちは現れなかった。俺たちは部屋の布団の上に横になり、ダラダラとしながら暇を潰すしかなかった。ふと時計を見ると、もう日付が変わっていた。トランプで睡魔に抵抗するのもそろそろ限界である。

「おのれぇ、ジョーカーめ。なにゆえ私のところにばかりに残る」

 ババ抜きでマリリンが二十敗目を喫したところで、ついにゴンさんが鼾をかきだした。

 きっと昼間の疲れが出たのだろう。そのまま寝かせてあげようと思い、俺は二人でもできるゲームに切りかえることにした。そこで提案したのはポーカーである。

「ふむ、なるほど。相手を凌駕する組み合わせを作ればいいだけでございますね」

 さては何百年も生きているくせにポーカーも知らないとは驚きだが、そんな彼女に簡単なルールの説明だけを行った。ただし、あくまでも教えたのはルールだけである。

「さぁ、早くカードをお渡しくだされ」

 なぜか自信満々な態度でポーカーに挑むマリリンである。ババ抜きで連敗したのをもう忘れたのだろうか。俺はカードをシェイクしてから五枚のカードを彼女に手渡した。

「キターッ、きましたよ! ふふふ、ツーペアでございます。もはや勝利は確実です」

 あらま自分からバラしちゃったよ。これが作戦なら油断ならないがババ抜きで連敗した彼女にそんな駆け引きは無理だろう。

「じゃぁ、いっせいのうで、はい、フルハウス」

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 よほど悔しかったのかマリリンは布団の上で手足をジタバタさせた。今度、ポーカーフェイスという言葉を教えてあげよう。……んん? そこでふと異臭が鼻をついた。

「あれ、なんか臭わない?」

「はて、そういえば、どうも焦げ臭いような?」

「うわ、こいつは灯油が燃える臭いですぜ!」

 ゴンさんがいきなりはね起きた。俺も眠気がふっとんだ。そして言いしれぬ恐怖に支配された。一度、火事を体験したからか意識が深いよどみに墜ちていくような感覚に捕らわれ、ただ聴覚だけが鋭敏になっていく。その耳に廊下をバタバタと走る音が聞こえた。

「きゃぁぁ、あんたら何をするのよ、放してよ!」

 それは紛れもなく女将さんの悲鳴だった。俺は恐怖にかられながらも部屋の外へ飛びだした。薄く煙が充満していた。たったそれだけのことで家族を奪った炎の記憶がよみがえり、震えが止まらなくなる。後に続いてマリリンとゴンさんも廊下に出てきたが、様子がおかしいと気づいたのかマリリンが俺の手を握り、そっと抱きよせてくれた。

「大丈夫です。落ちついて避難すればいいのです。ゴン、ご主人様の着がえを――」

「合点承知。すでに閻魔帳も着がえもトランクに入れてある」

 と言って、トランクケースを手に持つゴンさんは、すでに運転手の服装だ。

 妖怪は変化の術が使えるから楽チンだなぁ、と感心していると玄関のほうから仲居のおばちゃんが走ってきて、慌てた様子でフロントに飛びつくや電話で警察に通報した。

「もしもし、大変なんです。うちの女将さんが誘拐されました!」


 火事の被害は大したものではなかった。宿の玄関を少し焦がしただけである。

 いわゆるボヤというやつだ。消防車がかけつける前に騒ぎに驚いて外に出てきたご近所さんが消火器を用いて火を消してくれたので、今は警察による現場検証が行われている。

 俺たちの事情徴収も先ほど終わったばかりだ。といっても、俺たちはただの宿泊客である。部屋でトランプをしていたので事件の全容は目撃していない。

 なので、ものの数分で解放されたのだが、事件の一部始終を見ていた仲居のおばちゃんは警告灯を灯すパトカーの中で、今もまだ警察官の質問を受けている。

 その、おばちゃんが言うには、夜中に不審な物音がしたので、女将と一緒に様子を見に出ると、どこぞのチンピラが玄関に灯油をまき散らしていたんだそうな。

 それを見咎めて詰めよると、男たちは火を放ち、用意していた屋根ないベンツに女将さんを担ぎ込むや、そのまま逃走したとのことである。

「きっと、この事件にも連中が関わっているにちがいありません。やつらは人の心を操るる邪悪な術を用います。やくざどもは彼らの術中に墜ちていたのでありましょう」

 マリリンが神妙な顔つきで、そんな憶測を語る。

「まったく、なんてことするんだ。ゴンさん。政恵さんを攫った連中の後を追えるかい?」

「任せておくんなせい。おいらは鼻がきくんで、女将の匂いを辿るくらいは朝飯前ですぜ。といっても連中の行き先なんざ、とうに知れてるでしょうがね」

「だよね。やっぱり行くしかないんだよなぁ……」

と忌々しく吐き捨てながら俺は東の夜空を見上げた。

 低く垂れこめる不気味な雲に覆われて漆黒の闇に溶け込む弁天山。その不気味なシルエットに俺は言いしれぬ戦慄を覚えるのだった。

 

 町役場の隣にある有料駐車場から白い車が走り出る。ずっと昨夜から止めっぱなしだったので、やはり請求された金額はすごいことになっていた。とはいえ今や世界有数の資産家である俺にとって、それしきの金額は別に大したものではないのだろう。

 ただし一般の利用客からすれば、そのような出費は馬鹿にならないはずだ。ここはせめて宿泊客には便宜をはかるサービスがあってもいいのではないかと思ってしまう。

 なにしろ宿泊代の他に駐車場代まで請求されてはたまらない。

 というのに、この町には宿泊者専用の無料駐車場がない。訪れた客は否応なくこの有料スペースを利用するしかない。その不親切さが客の減少に追い打ちをかけているのではと、そんな疑問を抱きながら俺は車の後部座席に収まった。

 まもなくロールスロイスが再発進する。車は静かに町を出て、一路、弁天山の頂上をめざしてひた走る。マリリンの話では町を抜けた辺りからすでに大黒邸の私有地になるそうだが、そのせいか山の中には街灯はなく、ただ濃い闇が支配していた。といっても山の私道はちゃんと舗装されているので、車の乗り心地に不満を感じることはない。

 その後もゴンさんの運転する車は曲がりくねった坂道をスムーズに上っていった。

 時折、森の開けた場所があり、そこから星空の下に広がる海が見渡せた。夜の海にチラホラ浮かんでいるのは漁船の漁り火だろうか。きっと、こんな事件に巻き込まれさえしなければ、ここはただの静かな別荘地だったにちがいない。

「なんか拍子抜けするね」

「おかげで今夜は楽勝で運転できるでやんすがね」

 と、こうして、あっけなく目的地に到着してしまった。

 車から降りると、またもや昨晩と同じく屋敷の明かりが勝手に灯り、黒い煙幕のような呪いの気配が立ちのぼった。

「まぁ、屋敷をとりまく怪奇現象は、あいかわらず絶好調のようやけど……」

 やせ我慢をふりしぼり、恐怖をおし殺す。そこかしこから噴出している怨念の瘴気はもはや竜巻のようだ。そんななか、ギィィッと不気味な音を立てて屋敷の門が開くのだ。

「おっ、自動ドアとは気がきいてるね」

「そんな機能は付いておりませんが」とマリリン。

 だったら、なんで勝手に開くんだよ!

「……つまり入って来いってことだよね」

 うぅ、こんな時なんだから、もう少しボケとツッコミを楽しんだっていいじゃないか。

 そんな精いっぱいの覚悟を決めて、俺は敷地内へと足を踏み入れた。

 ところが、そこで回れ右。その襟首をマリリンがガシッと掴んで放さない。

 俺は、このごにおよんで無駄な抵抗を試みた。

「もう、勘弁して。やっぱ無理やは……」

 なにしろ、たった一歩を踏み出しただけなのに、「おぉぉぉぉぉ!」って雄叫びみたいな声が聞こえてくるんだもの。そりゃ逃げ出したくもなる。怖ぇったらありゃしない。

「いい加減に慣れてください。たかが怨念の威嚇にビビってる場合ですか!」

「でも、あの壁見なよ。人の顔がびっしりと浮かび上がっとるやないか……」

 さながら屋敷の外壁は人面壁とでも言えばいいのか、まさに前衛芸術も真っ青の有様だ。あまりの不気味さに足が竦んで動かない。そんな俺を容赦なくマリリンが引きずっていく。なんて馬鹿力だ。俺は薄目を閉じ、周囲をなるべく見ないよう心がけた。やがて肌に感じる空気の質が変わった。どうやら建物の中に入ったようだ。閉じた目にも分かる煌々とした照明の気配に恐る恐る目を開けた。と同時にバタンと音がして思わず戦慄した。ふり返ると、すでに閉じた大きな扉があり、そこには骸骨だらけの不気味な彫刻が施されていた。

「なるほど。屋敷内に立ち込める怨念の力が現実の姿を歪め、恐怖を目に焼きつけてくるというわけですね。つまり一種の幻惑術です。実に分かりやすい脅しですよ」

 そんなマリリンの解説はどうでもいいが、とにかく、ここは狂気に満ちた場所だった。

 大黒家の別荘――通称、大黒邸(だいこくてい)。明治創業の小さな雑貨店から三代をえて、今や世界屈指の大企業にまで成長したダイコクグループ。その社長を務める大黒家の当主が代々その家主であったことから、いつしかそんな名で呼ばれるようになった洋館である。

 その広大な屋敷の玄関広間(エントランス)の中央には、なぜか噴水付きの小さな池があり、そこから勢いよく水飛沫が上がっていた。なにゆえ屋敷内にわざわざ噴水なんぞ作る必要があったのかはさておき、その玄関広間(エントランス)の真上にあるステンドグラスから燦々とした陽の光が差し込めば、さぞや美しい光景を目にするにちがいない。だが、それもステンドグラスのデザインが黒い馬に跨る死神をモチーフにしたものではなく、ましてや噴水池の水が血の色に染まっていなければの話である。

 とはいえ、全てが贅を凝らした造りであるのは言うまでもない。

 噴水の向こうは豪華なホールになっており、左右には手摺のついた大きな階段がある。 囲む回廊も吹き抜けになっていて、その上を見あげれば壮大な天井画が描かれていた。

 ただし、その絵の様子がこれまたどうにもいただけない。

 なにしろ、そこに描かれているのは、いかにも怖ろしげな百鬼夜行図だからだ。

「むむっ、あそこには有名な画家の手によるお釈迦様の絵が描かれていたはずなのですが」

「まぁ、そこは、ずっと上を向いてんのも辛いから無理に見なくてもいいんだけどね。でも、ま、このお化け屋敷も悪くはないね。でかい暖炉があって、まるでヨーロッパのお城みたいやもん。ただ、ちょっと獰猛な牙があって気の荒そうなところが玉にきずかな?」

 もう焼けくそだ。玄関から入ってすぐの大広間には大理石で作られたと思しき大きな暖炉が左右に二つあり、それらが俺たちに向かって、さっきからずっと吠えまくっている。

 何が気に入らないのかは知らないが、とにかく怖ぇったらありゃしない。

 俺たちはその怪獣みたいな暖炉の装飾棚(マントルピース)を無視し、とりあえずホールの右側にある階段へと歩を進めた。

 ――と、その刹那である。

「誰か助けてぇぇ!」という悲鳴が聞こえてきた。

 すぐ上の階からである。俺たちは階段を駆け上がり、ぐるりと半周して辺りをキョロキョロ見渡した。回廊に沿って無数の扉が並んでいる。さらに、その対角線の向こう側にもまっすぐに伸びる廊下がある。そこに敷かれた絨毯はまさに血の色だ。壁には奇っ怪な絵画が飾られ、おどろおどろしい燭台が並び、不気味な炎が揺らめいていた。はっきり言って先へ進む勇気をことごとく萎えさせてくれるが、もはや四の五の言ってる場合じゃない。

 急いで廊下を渡り、ゴンさんの鼻を頼りに部屋の扉を開けてみた。

 その向こうは豪華な広間だった。金色に輝く浮き彫り(レリーフ)。壁を埋めつくす無数の鏡。貴族趣味にも程があるが、そこもまた怨念の力が影響しているのか、やはりどこかが歪められていた。そう鏡である。――壁にある無数の鏡、その全てに人の姿が映り込んでいるのだ。

 部屋は広いが、そこまで大勢の人がいるわけじゃない。

 おまけに広間の奥にある大きな鏡に見覚えのある顔を発見した。その面差しは例の雑誌に掲載されていた大黒社長の夫人、幸恵さんの写真と瓜二つだった。

「お待ちしておりましたよ」

 その鏡の中に蠢く影――その視線が集まる中心に黒い狩衣姿の男たちが立っていた。

 はたして彼らの頭上に輝くシャンデリア。どのようにして結んだのかは知らないが、そこから一本のロープが垂れ下がり、人の背丈より少し高いところに輪っかが作られている。そこに身体をがんじ搦めにされた女将の政恵さんが爪先立ちにぶら下がっていた。かろうじて息ができるくらいにはなってるようだが、少しでも力を抜けば首が締まって窒息してしまうだろう。しかも、そのすぐそばには数名のチンピラたちも転がっていた。

 どいつもこいつも気を失っているのかピクリとも動かない。

「いやはやどうです。豪華でしょ。この広間はベルサイユ宮殿の鏡の間を真似して造られたそうです。それが今から悲惨な現場になるかと思うと、少し残念でなりませんな」

「おまえら、いったい、どういうつもりだ? ここで何をしている?」

「ご主人様。きっとこの広間の鏡を使って、集めた怨念を封じ込めていたにちがいありません。鏡を用いて怨念を封じ、その力で悪鬼を生みだす邪悪な術――さては大黒社長の奥様に呪いをかけるのにも、その術を用いたのでしょう」

「そのとおり。あなたもなかなか優秀な霊能力者のようですね」

「言っておきますが、私たちは、ただ優秀なだけの霊能力者とはわけがちがいますよ」

「知っております。大黒社長の息子と、それに付き従う謎の霊能力者でしょう。両親の仇討ちでもしようというのですか? しかしながら、その念願が果たされる事はまずありえません。ここには我らの施した術が存在しております。ここへ誘き出された時点で、あなた方の敗北は決したも同然。いかに政財界に影響力があろうとも我らには無関係ですから」

「ほう……それで、この期に及んで悪鬼を生みだし、何をするおつもりですか?」

「結局、あなたたちのせいで仕事は中途半端に終わりそうです。ですが、このまま引き下がっては裏陰陽師の名折れです。評判にも傷がつきます。裏の社会で生きていくのも大変なんですよ。それに、せめて我らの正体を秘匿する工夫をせねばなりません。ですから全ての罪をやくざどもに被ってもらい、我らに捜査の手が及ばぬよう細工をせねばなりません。つまりチンピラともども宿の女将には、ここで謎の死を遂げてもらう予定なのです。それによって、さらに強力な鬼を生みだすといたしましょうか」

「やはり真相の裏にはお前らがからんでたんやな。大黒社長の妻、幸恵さんに呪いをかけ、心を病ませて錯乱させ、一家もろとも殺害させたのも、おまえたちの仕業やろ。そもそも裏でやくざ者たちを操って、さまざまな旅館に嫌がらせをしていたのも、おまえたちの仕業やないんか?」

「なにやら他人事のような言い方をしますね。まぁ、でも、おおむね、そのとおりですよ」

 そこへマリリンの声が挟まれた。いかにも落ち着いた声音だったが、その表情には、すさまじい怒気が宿っているような気がした。

「一つ質問よろしいか。大黒社長の殺害も依頼されてのことですか?」

「いえ、町の復興事業から手を引かせろと命じられただけですが、もとより我ら裏陰陽師に大黒社長を相手にビジネスで対抗できる術などありません。ですから得意分野で対処したまでのことですよ」

「だからって、なにも殺さなくてもええやないか!」

「ふふふ、せっかく集めた怨念の力。余すことなく利用しなければもったいないでしょう」

「くっ、この人面を被った鬼どもめ。やけど、どんな悪事かて仏様は見逃さへんもんなんやで。こういうのを天丼買いそびれた――やない。えっと、なんて言うんやったっけ?」

「ご主人様、天網恢々疎にして漏らさず。でございます」

「そうそれや! さても、お前らみたいな悪どい輩には必ずその報いが訪れるんやで」

「ですが、かといって誰が我らを裁くのです。警察に訴えますか? 闇に巣くう裏陰陽師が大黒社長の妻に呪いをかけ、温泉街を巡る利権の裏で暗躍していたと? そんな馬鹿な話を他の誰が信じます? だいたい我らの邪魔をし、我らの正体を知り得たあなたたちも、ここで鬼の餌食となる運命です。まぁ、命乞いをするなら今のうちですよ」

 そして不敵に嗤うや印を結び、裏陰陽師たちは口々に呪文を唱えだすのだった。

 すると、なんたることか鏡という鏡から、どす黒い瘴気が噴出しだしたのだ。

 やがて黒く澱んだ怨念が個々に塊を作り、そこに異形の怪物を生みだした。それはまさに鬼としか表現しようのない怪物だった。爛々と血走しった目。体の色は腐った海藻のような緑色。腹部が異様に膨れ、大きく裂けた口にはびっしりと牙が生えている。

 そんな怪物が恨みの言葉を吐きながら周りを取り囲んでいく。

「俺の店を返しやがれぇ~」

「俺の人生を返しやがれぇ~」

「俺の財産を返しやがれぇ~」

「うへぇ~」と俺は顔をしかめた。

「はてさて何が出てくるのかと思えばただの餓鬼ですか。醜い怨念の成れの果てにございます。かりに調伏して『妖怪変化』に昇格させても、さして役には立ちますまい」

「そんなこと言ってる場合かよ! ざっと見ただけでも三十匹くらいはおるやんか!」

「それだけ闇に墜ちた怨念を貯め込んでいたのでしょな。ですが、こんな小鬼など恐るるに足りませんぞ。ただし、さっさと片付けませんと人質の命が危うくなりましょう。早く助けませんと首が締まって、あの世逝きでございます」

「あぁ、それもあった。くそぅ他人事みたいに言いやがって!」

 裏陰陽師たちは依然と呪文を唱えている。きっと鬼を操る術でも会得しているのだろう。「なんでも式神にして操るのが彼らの十八番。自分の手を汚さないのも常套手段。ま、餓鬼どもは私にお任せを。ご主人様は最後に出てきた、あの大きい人をお願いします」  

 え、大きい人? 見れば広間の奥から途轍もなくでかい怪物が現れようとしていた。

「おい、こら! なんで俺だけ、あんなモンスターを相手にしなきゃいけないんだよ!」

 まさにラスボス級じゃないか。その姿といったら身の毛もよだつどころの話ではない。

「おい、無茶を言うな! あんなのと、どうやって戦えって――んん?」

 あれ、なんか様子がおかしくないか? 俺にはその恐ろしげな姿が悲しみに沈み、泣いているようにしか見えなかった。おそらくここで瀕死の重傷を負い、すでに亡くなっている娘さんが着ていたのだろう純白のドレスをかき抱きながら、悶え苦しんでいるようにしか見えなかった。それはなんたる残酷さだ。あの怪物は大黒社長の妻、幸恵さんの魂が姿を変えた怨霊なのだ。さても家族を殺めた悲しみから鬼と化した哀れな母。

 その娘である摩耶さんの願いはただ一つ。その魂が救われることだ。

「なぁ俺の最初の任務はあの魂を救済することだよね。つまり、この体の持ち主だった摩耶さんの母を呪縛から解放しろってことやけど、そんなん、ほんまにできるんやろか?」

「ご安心を。いくらご主人様がへたれでも閻魔帳が与えられておりますから」

 と、そんな返事をしながらマリリンは群がる餓鬼どもを黒い毛皮のコートから取りだした巨大な蠅たたきでビシバシと追い払っていた。

「――っていうか、さっきから、おまえ、何やってんの?」

「害虫駆除ですが」

 あぁ、そう。なんか楽しそうに見えるんやけどな。

「なぁ、そんなザコはほっといて、こっちを手伝ってくれてもええんとちゃう?」

「ギッタギタに切り刻んでもよいのなら?」

「いえ、けっこうです。すんません……」

 スペックが極端すぎる部下は扱いに苦労する。

 ともあれ、やはりここは俺がなんとかしなければならないようだ。

 雑誌に記してあった内容によると、本来の彼女はとても優しい母親だったそうだ。地域のボランティア活動などにも参加し、夫との仲もたいへんよく、かなり評判の妻女だったという。それがなんの因果か呪いに操られて家族を殺め、その悲しみの果てに恐ろしい鬼と化している。このままその怒りにまかせて人に害をなす存在となれば、いかに呪いのせいとはいえ地獄での裁きもやむを得ない。無慈悲なことのように思えるが、ただの怨念とはちがい、『妖怪変化』にはなれない人の魂が鬼と化せば、それはもう手の付けられない危険な存在になるんだそうだ。そんな汚れたままの魂を天界へ送ることなど許されない。

 なので大王様は言ったものである。

「裏陰陽師に捕らわれている幸恵夫人の魂はなにをおいても最優先せよ。まだ怨霊と化して間もない頃なら浄化するのも容易いはずだ。人を喰らい完全に悪鬼と化す前に保護すべし。ま、よろしく頼むぞ」

 と、まぁ簡単に言ってくれるものだが――……

「まったく厄介な仕事を与えやがって。俺はまだ見習いやぞ」

 思わず愚痴がこぼれた。だが、しかし、こんな残酷な仕打ちを目のあたりにして、ほうっておけるものではない。本当の鬼は、あの裏陰陽師どもである。やつらを退治しないことには、この怒りも収まらない。ならば、すべきことはただ一つ。

 三朗さんは言ったものである。地獄には表と裏の顔がある。すでに悪行を悔い、人界においてもそれなりの裁きを受けた者がその傷ついた魂を癒し、良心を取りもどすための地獄と、悪行三昧の人生を送りながらも裁かれず、あまつさえ罪の意識さえ持ちえぬ者に対し現世になりかわって罰を与える裏地獄。ぜひともあの連中にはきついお灸を据えてやりたいものだ。俺は強い憤りを秘めたまま閻魔帳を開き、今回で二度目になる真言を唱えた。

「なうまくさんまんだ~ばさらだんかんっ!」

 その怒りがいつしか正義を貫く意志に変じ、たちまち火焔(ほのお)となって舞い上がる。やがて、その炎の中から憤怒の形相が顕れた。唱えた真言によって導かれたのは不動明王の『霊験』だ。大日如来の化身にして恐ろしき姿をしたこの仏様は、その身にまとう炎によってあらゆる不浄煩悩を焼き尽くす。裏陰陽師たちが、この世に生みだした餓鬼どもは人の心に宿る負の部分が根元となっている。つまり巨大ショッピングモールの進出で商売が立ちゆかなくなった人々の怒りや悲しみが形をなして現れた鬼なのだ。だが、そこに宿る憎悪がいかに深くとも大いなる慈悲の心をもってすれば癒せぬものなどありはしない。

 そんな希望の光が一瞬にして脳裏を駆けめぐる。その予感どおり餓鬼どもに宿っていた怨念の力はあっという間に霧散した。あまりにも簡単すぎて拍子抜けしたほどである。

 次に俺は餓鬼よりさらに巨大な怨霊と向きあった。

 もはや、そこに優しき母親であった頃の面影はない。怨念に取り憑かれて完全に我を忘れている。だが、その強大な怨霊とて不動明王の前ではもはやむなしき存在でしかない。 みるみるうちに闇が祓われていく。

 やがて辺りに眩い光が充満するや、その光が残るわずかな呪いさえも流しつくし、彼女にほんらいの姿を取りもどさせた。

 しかも、そこはもう現世ではなかった。

 そう、頭上に輝く天の川。

 生と死の境目である天空の岸辺がはるか彼方に見えている。

 そして、次の瞬間――

「ありがとうございます。やっと、これで娘や夫と逝けます……」

 そんな嗚咽にかすれた言葉が天空に飲み込まれるや、あとは何事もなかったかのように現実の世界が取りもどされた。

 そして、そこは再び、あの大広間である。

 俺は閻魔帳を閉じ、呆然とする裏陰陽師どもを睨みつけた。

「これで一件落着やな。怨念はすべて浄化してやったぞ。これで、おまえらの企みももはや完全にご破算やな。さぁ観念しろよ――って、あれ?」

 最後にビシッと決めたかったのに肝心の裏陰陽師どもはもはやそれどころではない様子だった。三人とも腰を抜かし、床を這いつくばるように我先にと逃げ出そうとしている。

「あっ、こら、待ちやがれ!」

 だが、そこで、ふと気の迷いが生じた。いや、だって、どうすりゃいいんだ。相手は人間だぞ。怨霊ならいざしらず生きてる人間を閻魔帳の力で祓うわけにもいかないだろう。

 マリリンとゴンさんは危うく死ぬところだった政恵さんや、まだ意識を失ったままのチンピラどもを介抱するので手が一杯のようだ。

 この場で活躍できそうなのは……あ、いた。うん、ここは試しに使ってみるか。

「おい、おまえら、あいつらを捕まえろ!」

 ところが全ての怨念から解放された餓鬼どもは、やはり、その見た目どおりのへたれっぷりを披露するばかりだった。なにしろ浮きでたあばらに骨と皮だけの手足である。

「勘弁してくださいよぉ。俺たちの姿を見てくださいよぉ。この貧弱な体を――」

「うん、そうだね……」

「でも、優秀な残飯処理係にはなりますよ。みな食い意地がはっておりますからね」

 とマリリン。

 えぇい頼りにならない連中ばかりだ。

 他に助っ人はいないのか。そうだ。いいことを思いついたぞ。幸いにも、ここには裏陰陽師が施した術がまだ残っているはずだ。広間の奥にある鏡がそれにちがいない。あれを利用すれば、なんとかなるんじゃないだろうか? 

 俺は咄嗟にそう判断し、そのとおりに実行した。後にして思えばなぜそんな事をしたのかと後悔するばかりだが、その時はそうするより他に思いつかなかったのだから仕方がない。はたして心が捕らえた異界の扉。それを開くイメージが脳裏に閃くや、その意識に応じて閻魔帳から無数の白い手が出現した。それらが複雑な梵字を描きながら鏡と同化する。それは感覚的に言い表すと途切れた糸を結び直し、より太くするような作業に近かった。

「絶対に逃がすもんか。さぁ地獄の極卒たちよ、冥府より来たりて我に従え!」

 やがて鏡の中から妖怪たちが続々と現れた。

 まず最初に現れたのは塗り壁という名の大きな妖怪だった。その妖怪が扉の前に立ち塞がるや、たちまち周囲と同化し、そこに新たな壁をつくりだした。

「なにっ、扉が消えた!」

 慌てて印を結ぼうとする裏陰陽師。だが、そこへ小鼠のような妖怪――ええっと、確かスネコスリとか言ったっけ――が群がり、その足にまとわりついて転倒させる。次に白い布のような妖怪、一反木綿が殺到し、その呪文を唱えようとする口を塞ぎ、手足を縛る。 さすがの裏陰陽師たちも手足を縛られ、口を塞がれてもはやなす術がない。

 そして最後に大きな声が響きわたった。

「よくやったぞ。的場貴史改め大黒摩耶よ!」

 見れば、あの一際大きな鏡の中に少女の姿がある。

「もう、面倒くさいから摩耶でいいっすよ」

「ならば今日から、まややと呼ぶといたすか、よっこらせ……」

 と鏡の中から漆黒の髪に黒いドレス姿の少女がはい出してくる。

 あ、こら、パンツがまる見えだぞ――とは口が裂けても言えない。

 なにしろ相手は地獄の盟主、閻魔大王様だ。慌てて妖怪たちが跪く。

「でも、どうやって大王様まで、ここへ来ることができたんやろ?」

「ふむ、わらわが予想していた以上に、そなたには強い霊力が備わっていたようじゃな。おぬしがここに巨大な霊道を造ってくれたおかげで、わらわも来ることができたのじゃ」

「えっ、それって地獄への道が通じたってこと? まいったな。塞ぐことはできないの?」

「無理じゃな。一度、通じてしまった霊道は、そう簡単に塞ぐことなどできぬぞ」

「うわ、なんのこっちゃ。そんな大袈裟なことになるなんて、実に嫌な予感しかしない」

「はて、なにゆえ嫌な予感がするのか? ちと気になる発言ではあるが。まぁ、よかろう。それよりもじゃ。まずはこれにて一件落着じゃな。よくぞ最初の任務を乗り超えたの」

「でもさ……」

「……なんじゃ、まだあるのか?」

「――つうか、大黒社長の家族はどうなったんやろかと?」

「それなら心配いらぬ。彼らの魂は無事に天界へと送り届けられたはずじゃ。そなたの働き、まことにみごとであったぞ。あとで褒美を取らせるゆえ、楽しみにしておるがよい。さて、こやつらは、わらわが直々に地獄へ連行しようぞ。ものども引ったてーい!」

 やがて大王様の声が響き、それに従う妖怪たちが裏陰陽師たちを担ぎ上げる。

「は、放せ、何しやがる。ひぃぃ!」

 そんな叫び声も虚しく鏡の中へと消えてしまう。

「あいつら、どうなるんやろ?」

「生きながらに地獄へ墜とされちゃぁ死んだも同然でやんすな。ですが、おぼちゃまが気に病む事じゃぁござんせん。これも自業自得でございます」

「そうでございますとも。彼らの悪行によって犠牲になった魂は相当な数に及びましょう。どれほどの被害があったかは今後の審議で明らかにせねばなりませんが、その罪状がつまびらかになれば裏地獄への投獄も免れません。彼らが不幸にした数々の人生。それに相当する年月を闇の世界で過ごし、それこそ地獄の責め苦を味わうことになりましょうな……」

 そう言いながらもマリリンはどこか冥福を祈るように両眼を閉じていた。

「ま、やれやれでやんす。ようやく邪魔者も追い出せたし、これで安心して引っ越せるでやんすな」

「後はまぁ気の毒やけど、このチンピラどもを警察に引き渡して……」

「あのう、これはいったいどういうことです? 夢でも見ているのでしょうか?」

「あっ、まだ問題が残っていたよ!」

 すっかり青ざめた顔の政恵さんが、この大広間の片隅でガタガタと震えていた。


 あっというまに一週間がすぎ、ようやく秋らしくなった十月も終わりの午後である。

 俺は大黒邸の二階にある自分の部屋で、ぼんやりと料理雑誌を眺めていた。

 ふと、その耳に玄関の呼び鈴の音が響いてきた。

 俺は読んでいた雑誌をそのままにして部屋を後にする。

 燦々と日が差しこむ玄関ホールはさまざまな色に満ちていた。裏陰陽師に占領されていた時の禍々しさはすっかりなくなり、今は美しい風情に満ちている。

 そう、お釈迦様の姿を描いた天井画に西方浄土を描くステンドグラス。清廉とした水をたたえる噴水に金魚が泳ぐ小さな池。もちろん、あの凶暴だった暖炉もすっかりおとなしくなり、今ではどっしりとした大理石のたたずまいを見せている。

 やがて俺が到着すると、ちょうどマリリンが玄関の扉を開けようとしているところだった。あの夜、骸骨だらけだった不気味なデザインも今は天女をモチーフにした豪華なものへと復活をとげ、ほんらいの美しさを回復している。その玄関から、最寄りの駅まで出迎えに行っていたゴンさんが文句を口にしながら入ってきた。

「まったく大層な玄関だぜ。専用のドアマンでも雇ったほうがいいんじゃねぇの?」

 今日もゴンさんは紺のスーツに帽子といった出で立ちである。

 その背後には、まるまると太った初老の紳士と和服の美人が立っていた。

 そう、今日は、この屋敷で引越祝いの宴会が催されることになっているのだ。


 さて夕暮れ時である。大黒邸一階の座敷には、たくさんの料理が並んでいた。

 車エビと山芋の真薯に、里芋の煮っころがし。鯛や平目のお作りに、皿にもられた天麩羅など、そのほかにも手のこんだ御馳走が所狭しと並んでいる。

 それらの料理は俺と政恵さんで用意したものだ。

「いやぁ、びっくりです。おぼっちゃまは料理がお得意なんですね。これは将来が楽しみです。きっと天才料理人になりますよ」

「うん、親父にいろいろと教えてもらってたからね」

「いいえ、ご主人様は料理人になどなりません」

 ぶすっとしながらマリリンが里芋を頬ばり、その粘り気にムニムニと顔を歪める。

「まぁ、いいじゃありませんか」

 と、ニコニコしながら政恵さんがビールの酌をする。

「そうだよ。可能性は無限なんやから、いろいろ挑戦したってええやんか。なにしろ一度死んで、せっかく生まれ変わった人生やで。めいっぱい楽しまなきゃ、もったいないやろ」

「まぁ何度聞いても一度死んでよみがえったという話は、なかなか信じられませんけどね」

 実を言うと、すでに政恵さんには俺たちのことは話してある。

 というのも彼女の記憶を消そうかと地獄では散々議論がなされたが、それをするのに、またもや阿弥陀如来様にお願いするのはいかがなものかと、そんな意見もなきにしもあらず。ならば逆に協力者として、こちらの事情を理解してもらったほうがよいのではないかと大王様からの提案もあり、なぜか、このような事になってしまったのだ。

「でも、おぼっちゃまは命の恩人です。それに温泉街も、すっかりお世話になりっぱなしで、いくら感謝してもしきれませんよ」

「いや、別に俺は大したことはしてへんねんけどな」

 そう、俺はここ数日の間に、いくつかのことを決意した。

 一つは新たな人生を死んだ両親の分まで楽しく生きること。二つめは地獄の捜査官としての職務にさらに邁進すること。そして三つめは大黒社長の意志を受け継ぐことだ。

 俺の両親は地獄でのんびり魂のリハビリに専念しているとかで、ひとまず安心してもよさそうだが、そうは言っても両親が揃って地獄に堕ちたままでは寝ざめも悪い。やはり、できるだけ早く地獄から解放し、晴れて天界への転生を成し遂げたいものだが、しかし、それには、やはりまだまだ長い年月がかかるだろう。そこで、もう一つ気がかりなのが、この山の麓に点在している温泉旅館の行く末だ。大黒社長は生前、この寂れた温泉街の町興しに協力しようとしていたが、それをよしとしない連中に雇われた裏陰陽師どもに呪われ、その本人のみならず、その妻子までが命を落とす結果となってしまったのだ。そして、この俺は、その娘の体を借りてこの世によみがえり、彼の残した遺産を相続した。なので、せめてもの恩がえしに社長のやり残した仕事を受け継ぎたいと思っている。

「まぁ、この屋敷に住まわせてもらうんやもん。せめて、そのくらいのことはせんとな」

「きっと、そのお気持ちは亡くなられた社長にも伝わっていると思いますよ」

 そう言ってくれたのは、化け狸にしてダイコクグループの代表を務める三郎さんだ。

「おそらく天界から、ことの成り行きを見ておられましょう。裏陰陽師の件についても感謝しておいでのはずです。その想いはきっとこの地に宿り、町を見守ってくれることでしょう。あくどい市長の問題も明るみになり、いよいよ捜査の手も入るようですしね」

 温泉街を舞台にした数々の陰謀の黒幕として鳴金市の市長と不動産会社の社長には警察の手が及び、事件はそれにて幕引きへと向かおうとしている。

 結局、資源開発の裏に潜む闇までが明るみになる事はなかったが、その代わりとして市長や不動産会社の問題ある行いが次々と暴かれ、ニュースや新聞をにぎわせていた。

 もちろん強引な再開発も中止となり、どの宿も今では通常に営業を再開している。

 おかげで一度は退職した従業員たちも、皆それぞれが元の宿に復帰したらしく、宝珠荘の女将である政恵さんも、今日の宴会に参加できる運びとなったという次第である。

 とはいえ長年の経営難に旅館を手放すことを決めた人も少なからずおり、俺はその人たちの今後のことも考えて土地の売買をめぐる交渉を始めたのだった。

「まずは温泉街のあちこちにある空き店舗をなんとかせんとあかんな。それを利用して地元の特産品をもっとアピールする取り組みとか、個性的な店をオープンさせるとか……」

「なるほど。他の温泉街との差別化をはかろうというわけでございますね」

 やたらと感心した表情で相槌を打ち、なにくわぬ顔で箸をのばす三朗さん。

 あのぅ、それ、盛りつけに使っていた長くて太っとい菜箸だよね。

「まぁ、そのへんは町の人たちとも話しあわんとな。一度、会議を開いて、いろいろなアイデアを募集する必要もある。考えが定まれば三朗さんにも相談にのってもらうけど」

「そこはなんなりと、ご相談を……ん?」

 さも満足げに目尻を下げ、刺身を一気に平らげた三朗さんであったが、その手にする箸の動きがぴたりと止まった。そして眉間に皺を寄せる。俺も肌が粟立つのを感じた。すっかり地獄の捜査官として強い霊力に目覚めてしまった俺の鋭い感性がこれは只事ではないと告げていた。と、その直後だった。屋敷がビリビリと振動し、ものすごい霊気に包まれたのである。まちがいなく震源は、あの二階にある鏡の広間だ。まもなく上階からドスドスと不機嫌そうな音が聞こえ、それから数分と待たずに座敷の襖が勢いよく開かれた。

「おい、わらわの到着も待たずに宴会を始めるとは、いったいどういう了見じゃ!」

「こ、これは、なにとぞ、お許しを!」

「でも、忙しくて参加できるかどうか分からへんて言うてたやん」

「そこを無理して、そなたのために仕事を片づけて来たのであろうが!」

 もちろん不機嫌もあらわに部屋に入ってきたのは地獄の盟主、閻魔大王様である。その頬を膨らませ、恐ろしい形相で睨みつけるものだから俺の部下どもは震えあがっている。

 ただし、この展開はある程度、予想していたので、とくに慌てたりはしない。

 ここは予定どおり、前もって用意しておいた作戦を実行するのみだ。

 俺は素早く立ちあがり、庭に面した障子を開け放った。

 そこには幽玄なる美の世界が広がっていたのである。

 さても枝ぶりのよい木々に峻厳たる奇岩。そして月明かりの浮かぶ池。それらが、あちこちに配置された竹筒の中に潜む蝋燭の炎によって演出されている。

「ほ~ら綺麗でしょ。これ、大王様のために用意しておいたんやで」

「おぉ、なんとも美しい風情に満ちておるな。まややは気がきくの!」

 これで当分は庭の景観に見とれて、おとなくしているにちがいない。

 俺はほくそ笑み、自分の席に戻る。そして三朗さんにそっと話しかけた。

「ちゃんと屋敷の手入れをしてくれてたんやね?」

 大黒社長に不幸があったのは半月ほど前のことだ。それから後、この屋敷に主はいない。

「はい、それについては地獄から極卒を呼びよせ、屋敷の手入れをさせておりました。ただ、そのことで裏陰陽師どもにいらざる警戒心を与え、おぼっちゃまの身を危険にさらしてしまったのは、この三朗めの油断でございました。もう少し慎重に行動すべきでした」

「いや、それは別に三朗さんのせいやないと思うけどな」

「そう言っていただけると嬉しいのですが。はてさて困りましたな……」

「うむ、気に入ったぞ。この屋敷に、わらわの寝室を用意せよ!」

「どうやら、そのおかげで厄介ごとが一つ……」

「うん、なんとなく覚悟はしてたよ。ま、それより廊下に立ってる二人の大男やけど……」

「あぁ、あれか。あれはわらわのボディーガードで、地獄でも有名な牛頭馬頭コンビじゃ」

「これまた、すごいのを連れて来ちゃったね」

 牛頭と馬頭といえば地獄の大門を守る最強の鬼ではないか。その筋骨隆々たる肉体の上には、それぞれ馬と牛の顔がついている。見るからに怖ろしげな怪物だ。

「仕方なかろ。他の王どもが連れていけとうるさいのじゃ。えーい、ぼさっとしとらず、さっさと入ってこい。それからちゃんと人間に化けろと言ったのに、なんじゃその顔は!」

「ちゃんと化けておりますが、ヒヒン!」

「そのとおりでございますが、モウ……」

「こ、このバカもん。顔が馬と牛のまんまじゃ!」

「あ、これは失礼しました、ヒヒン!」

「しばしお持ちを、モウ……」

 二人は手でゴキゴキと顔をいじくり人面を作りあげる。ところが一人は馬面のやくざ顔。もう片方もアメリカバイソンのような荒々しい面構え。人に化けてもその厳めしさはいささかも衰えない。おかげで政恵さんがついに白目をむいてひっくり返ってしまった。

 その有様に大王様も申しわけなさそうな顔である。

「やれやれ騒がせてすまん。じゃが許せ。今日はな。おぬしにご褒美を持ってきたのだぞ」

「ご褒美……?」うーん、なんだか嫌な予感がするぞ。

「むぅ、そんな顔をするな。おぬしの両親から手紙を預かってきただけじゃ」

 そう言って大王様はピンク色のバッグから封筒を取りだし、俺の前に差し出した。

 俺はそれを受け取り、おずおずと大王様の顔色をうかがう。

「うむ、遠慮せずに読むがよい」

 大王様の慈愛に満ちた顔が頷く。

 はたして、『拝啓、親愛なる、わが子へ――』で始める手紙は二通あった。

 短い文章だが親父とお袋の筆跡にまちがいない。

『元気にしてますか。ご飯はきっちり食べてますか。病気はしてませんか。そろそろ寒くなる頃だと思いますが、風邪などひいていませんか――』

 なんでもない素朴な文書である。でも心から気づかってくれる母の気持ちが心にしみて、瞼が熱くなるのを感じた。俺は嗚咽を噛みしめ、母の言葉に答える。

「うん、元気にしてる。みんなよくしてくれてるよ」

『貴史の活躍を父さんと一緒に喜んでいます。摩耶さんのご家族が、この前、面会にお越しくださり、感謝の気持ちを伝えてくれました。よくがんばりましたね。母は誇りに思います。でも、きっと危険な事もあるでしょうから気をつけてください。父さんも母さんも地獄ではいい人に囲まれて幸せに暮らしております。きっと、いつか貴史にも会えると信じてますから、貴史もあまり無理をせずに人生を楽しんでくださいね』

「うん、そうする……」

『貴史、父さんは嬉しいぞ。よくやったな。正義のヒーローだな。俺も誇りに思うぞ。地獄からずっと応援しているぞ。おまえという子を持てて、俺たちは本当に幸せだ』

 とうとう涙があふれた。

 ひとしきり泣いてから俺は照れくさそうに笑った。そこにあるのは、じっと見守る仲間の頼もしい笑顔だ。そう、俺は決して一人じゃない。だから涙を拭って笑顔を見せる。

「うむ、これで万事めでたし。もう少しすれば親に面会ができるよう取り計らうつもりでおるから安心いたせ。おぬしは地獄の捜査官。たまには地獄へ行くこともあるだろう。そのついでに親に会って行くことなど朝飯前じゃ。じゃからの、これからも、がんばれよ」

 大王様の優しげな視線。その先には明るい満月が浮かんでいた。

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