大黒邸閻魔帳日記
大谷歩
第一話 地獄からの使者
それは、あの世と、この世の狭間で耳にしたような、とても不吉な会話だった。
『商店街はまる焼けやってなぁ』
『ほんに。これで、とうとう、お盆に帰る場所も、のうなってしまいましたなぁ』
ひとりは爺さんの声だった。もうひとりは婆さんの声だった。
いくら意識がぼんやりしていたとはいえ、近くに人の気配はなかったし、それが、いかに奇妙なことなのか、そのくらいのことは理解していたつもりだ。
おまけに、そこはまったく見知らぬ場所だった。窓からは暮れなずむ茜色の空が見えており、その夕日にそまる部屋の中は、かすかな消毒液のにおいで満たされていた。
俺は体を起こし、ぼんやりと窓の外をながめていた。
ながめていたのは、俺の通っている中学校だ。その味もそっけもない建物は病院の窓から見おろしても見まちがうことはなかった。ただ、もうすでに下校の時刻をすぎていたのだろう、校内にはまばらな人影しかなく、とてもさびしげな光景だけが残されていた。
おかげで、ものすごく心ぼそい気持ちになってしまった。
というのも、最近の俺は一ヶ月近くも学校に通っていなかったからだ。母のむせび泣く声と、すっかり人が変わってしまった父のことが心配で、学校どころじゃなかったんだ。
そして、そんな、つらい日々がずっとつづくんだと、すっかり、あきらめていたのだった。
だけど、その日は何かがちがった。目が覚めたら、なぜか病院の個室にいて、そんな心ぼそい俺の耳に、どこからともなく不気味なささやき声が聞こえてくるのだ。
『商店街はこれでもう終わりやな。すでにシャッター街やったのが不幸中のさいわいやで』
『そやな。的場さんとこ以外は助かったようやし、それだけが救いやと思うしかない』 どうして、そんな声が聞こえてくるのかは、まったくわからなかった。
でも、その不気味な会話のおかげで、なんとなく理解することができた。
そう、父さんと母さんは、もう生きてはいないんだ――ってことを。
そうやって、ボーッと考え事をしていると、だんだん意識がはっきりしてきた。
俺の名は的場貴史。
地元の中学校に通う、ごく普通の十三歳。
ともあれ、俺は、ごく普通の少年だ。学校の成績はまぁそこそこ。とりあえずは地元の高校に進学するつもりではいたけれど、卒業したら、すぐに料理の修行に出て、いつかは父のあとをつぎ、実家の洋食屋をもっと大きくしてやるんだと、そんな小さな夢をいだきながら平凡な日々を送る、ごくありふれたの中学生だ。
だけど、そんな日常は、ある日とつぜんなくなり、家が火事になって、気がついたら病院の個室にいて、おまけに人生最大の絶望のなかに、ひとり置きざりにされていた。
それから、さっきの不気味な会話に出てきた商店街についても俺は想いをはせた。
そう、その古びた時代おくれの商店街は、とある町の郊外にあった。
小さな私鉄駅から神社へぬけるアーケードの下には、それはもう、さまざまな店がたちならび、かつては、おおぜいの買いもの客でにぎわっていた。
そんな商店街の中ほどに、俺の生まれ育った家があった。
それは終戦まもないころからつづく古い洋食屋で、親父はそこの三代目。
若いころには有名なホテルで修行したこともある腕のいい料理人だった。
それが二年ほど前から駅前の開発がすすみ、やがて、そこに大きな商業施設が誕生した。いわゆるショッピング・モールってやつだ。おかげで、それまでパッとしなかった駅前は、見ちがえるように、たくさんの人でにぎわい、そのいっぽうで昔ながらの商店街はどんどんさびれていった。だって小さな店の集まりでしかない商店街だぜ。最初から勝てるわけがなかったんだ。でも父さんはがんばった。家族を守ろうと必死に戦った。でも、だめだった。店の経営は日を追うごとに苦しくなり、そんななか、お客さんの中から食中毒の患者が出てしまったのだ。きっと父さんも母さんも疲れきっていたのだろう。ふだんならやらないミスをおかしてしまったのだ。おかげで店は完全にシャッターをおろすしかなくなり、すべてに絶望した父さんは、それからたくさんお酒を飲むようになった。そして母さんもだんだんおかしくなって家が火事になり、なぜか俺は病院の個室で寝ていたというわけである。はたして、その時の火事の記憶は、いま思いだしただけでもゾッとする。そりゃ夜中に目が覚めたら、あたり一面が火の海だったんだ。その時の恐怖といったら、もはや言葉では語りつくせない。よく生きのこれたものだと思う。
と、そこで、また不気味な声が聞こえてきた。
『でもよ、貴史くんはまだ中学生じゃ。ほんにやりきれんわい。無理心中とはのぅ……』
え、無理心中? それってなに? 意味はよくわからなかったけど、嫌な予感しかしなかった。俺はなんだか怖くなり、とにかく病室から逃げだした。
でも、その声は、どこまでも追いかけてきたんだ。
『ぎゃくに幸運だったのかもしれんませんよ。ひとり生きのこったって悲しいだけじゃない』
そして、ようやく気づいたんだ。うん、この声、どこかで聞いたことがある。
そう、二年前まで商店街に店をだしていた煙草屋の看板娘――といっても齢八十をこえた婆さんなんだけど。その声にそっくりだった。それに、もうひとりも聞きまちがえるはずがない。同じく二年前まで商店街で商売をしていた豆腐屋の爺さんの声だ。
でも、ありえない。二人とも二年前に他界し、もうこの世にはいないはずだから。
だから、すごく怖かった。
すごく気分も悪かった。いろんな疑問に立ちくらみ、ヨロヨロと廊下の手摺にもたれて体をささえ、思わずギョッとしてしまう。
そう、それは、ほんとに小さな手だった。女の子のように細くしなやかな指先が目にとまり、大きく目をみはる。だって、それは、ぜったいに俺の手なんかじゃなかったからだ。
そこへキュッキュとスリッパの足音がした。
「あら摩耶君。今日は元気そうね。でも、まだ万全じゃないんだから無理しちゃだめよ」
「え? あ、はい……」ええっと、まやくん? それって誰のことですか?
遠ざかっていく看護士さんの姿をただ見送ることしかできなかった。ますます気分が悪かった。なかなか自由のきかない体を引きずり、近くのトイレにかけこんだ。何度もよみがえる火事の記憶もあって、すごい吐き気におそわれる。勢いよくひねる蛇口で顔を洗い、ハァハァと息をはきながら前を向く。そして盛大な叫び声をあげてしまった。
「うわぁぁぁぁぁっ、誰やこいつ? なんや、この顔っ!」
なにしろ目の前の鏡には、まったく見知らぬ顔が映りこんでいたからである。
しかも、それは、とびっきりの美少女だった。肩までのびる亜麻色の髪。長い睫毛に、お餅のような白い肌。瞳は大きく黒目がち。サクランボのような唇がとても愛らしい。
「ああ、もしかして、俺、まだ夢でも見てるんやろか……」
とにかく目を覚まそうと頬をつねってみた。うん、めちゃくちゃ痛かった。
とにかく、もう気がくるいそうだった。あわてて体のあちこちを点検していた。
幸いなことに大事なものは股間にちゃんとついていた。
「あのぅ、なにをやっているのです?」
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」
今度こそまじでビビった。そして、ふりむくと、そこにひとりの女が立っていたのである。
ぱっと見は十代後半か、二十代前半くらいに見えた。
セクシーな黒いワンピースに、マントのように黒くて長い毛皮のロングコート。
白いドレスシャツにはカメオのブローチ。まっ赤なバラのデザインが、なぜか毒々しい。
いや、それにしても、なんてきれいな瞳だろう。まるで透明度百パーセントの湖を凍らせたような色あいだ。とにかく青い。その腰まである髪も金色にかがやいていて、おまけにすごい美人である。だから、すっかり驚いた俺は、しばらくボーッと見とれてしまった。
やがて、女は髑髏の彫刻がほどこされた不気味なステッキで床をカツンと鳴らした。
「どうして部屋にいらっしゃらないのです? おかげで、さがしましたよ。ご主人様。まさか一人トイレで股間をモゾモゾしてらっしゃるとは思いませんでした」
うーむ、プロの歌手だろうか? すきとおるようなソプラノ。
その美しい声にますます緊張が高まる。――いや、いま、なんて言った。ご主人様?
「かってに出歩かれてはこまりますぞ。さっさと部屋にもどりましょう。ご主人様」
また言ったぞ。ご主人様って。
「もう自力で歩けるようですね。よかった。すでに、すべての手つづきはすんでおります。このあとのスケジュールが立てこんでおりますので、急ぎませんと――」
「あのぅ、誰かと人ちがいしてない?」
「あれ? 死後の体験入力がまだなのでしょうか? これは、こまりましたねぇ……」
「なに言ってんだか、意味不明だし」
「あっ、もうしおくれました。私、地獄からの使者で、あなた様の、お世話をするように、おおせつかりましたマリリンともうします。生まれは十八世紀のイギリスで……」
「あのさ、ここ病院やから、いっぺん医者に診てもろたほうがええんとちゃう?」
「いやはや、なんとも、ぶれいな口のききよう。ほんらいなら全身がスッカラカンになるまで血を吸ってやるところではございますが」
「あ、なにすんねん。はなせ!」
いきなり俺の手をひき、トイレから連れだそうとする謎の美女。あらがおうにも体に力が入らない。しかも、なんて怪力だ。そこへ先ほどの看護士さんが通りかかった。
「あら、マリリンさん。今日もきれいですね。摩耶君のおむかえですか?」
「はい、ずいぶんと、お世話になりました」
「いえいえ、とんでもない。それより摩耶君がすっかり元気になられてよかったですね」
いったいどうなってんだ? やがて連れもどされたのは、あの病室だった。
さっぱりわけがわからず、立ちつくしていると、そんな俺を横目に女は毛皮のコートから大きなカバンを取りだした。……さては手品師だろうか?
それはシックなデザインの洒落たトランクケースだった。女がそれを開けると、中には着がえの服がまるで新品のように、きちんと折りたたまれて、つめこまれていた。
「さ、はやく着がえてください。すでに任務の命令がくだされてますので急ぎませんと」
「いやでも、なんで、あの看護士さんと知りあいなん? さっぱり、この状況がわからないんやけど。ううっ、なんか頭痛がしてきたぞ……」
「そろそろ死後の記憶がよみがえってきてもいいころですね。とにかく落ちついて聞いてください。驚かれるかもしれませんが、的場貴史という人間はすでにこの世に存在しません。いまのあなたは大黒摩耶という別人です。これから新たな人生がはじまるのですよ」
「あのさぁ、おまえ、なに言ってんだよ……」
俺はもうこの世に存在しない? いまは別人だって? それって、どういうこと?
俺は立てつづけに質問を口にしようとしたが、それはできなかった。
いきなり頭をなぐられたような痛みにおそわれたからだ。
「ぎゃぁ痛いっ!」あまりのことに悲鳴をあげ、さらなる疑問に心がみだれた。
ここって、ほんとに病院なの? 患者が悲鳴をあげているのに誰もかけつけてこない。
やがて、頭がボーッとし、意識がじょじょにうすれてきた。
すると気分がぐるりと回転し、空を飛ぶような感覚におそわれるや、つぎの瞬間、まるで別世界の中に立っていたのだ。そこはうす暗い闇に閉ざされた山の中腹のようだった。うっそうとした深い森が見わたすかぎりを支配し、こい霧につつまれている。
ふと恐怖を感じて横を向くと、なんと、その山の岩肌をえぐるようにして巨大な門がそそり立っていたのだ。いかめしくそびえ立つ門は大きく黒光りする金属製である。
「この門をくぐりたる者、これより、いっさいの希望をすてよ?」
鬼の姿を描いた彫刻。見たこともない文字。
なぜか、その文字を俺は読むことができた。
「はい、ここは地獄の入り口。そして、あれなる巨門こそ地獄の大門でございます」
「地獄の門って、いや、そんなまさか……」
でも、なぜか納得してしまう。見れば、すぐそばに、さっきの美女が立っていた。
「俺って、やっぱり、すでに死んじゃってるってこと? それで地獄に墜ちたってこと?」
「そうです。これはあなたが死後に体験した記憶を、いま脳内で再現しているところです」
そんな、まったく信じられないような告白が終わるや、その地獄の門が開いた。
俺はマリリンに導かれて門をくぐり、その先へとすすんでいった。やがて恐ろしい光景が目の前にひろがった。同じように地獄に堕ちた亡者らしき人々が炎をふきあげる護送車からつぎつぎに下ろされ、見るからに恐ろしい姿をした化けものに連れさられていく。
「亡者を導いているのは地獄の極卒たちで、『鬼』と呼ばれるかたがたでございます」
「鬼? いやでも、あれって、どちらかっていうと、妖怪とかじゃないの?」
「まぁ、鬼族の妖怪が、もっとも多いので、そう呼ばれていますが、この地獄では、ほかにもさまざまな妖怪たちが、いろいろな仕事にたずさわっております」
「へぇぇ……」そんなマリリンの説明に、どう言いかえしていいのかわからず、俺はただひたすら戸惑いをうかべ、その恐ろしい光景をながめていた。
「さても妖怪とは人の心が生みだす怪奇現象。長い年月をえて妖力を宿し、人に害をなす存在となった悲しきもの。それゆえ放置すれば人界をみだし、いろんな悪さをします。ですからこれを退治し、浄化せねばなりません。そのようにして怨念から解放された物の怪を『妖怪変化』と呼び、その後、彼らは仏のしもべとして働くことが許されるのです」
そんな説明を耳にしながら俺は目をゴシゴシとこすり、それから再び、先ほどの鬼たちへと視線を向けなおした。まさに、それは本で見たことのある百鬼夜行図のありさまだ。
やっぱり、ここは地獄なんだ。すごくわかりやすい地獄だけど。
でも、そんなイメージは、その直後にぶちこわされた。
またもや見えていた景色がとつぜん変わり、再び意識がまたべつの場所に飛ばされてしまったのだ。そこは先ほど遠くに見えていた王宮の中だというのはわかるが、どうも、その造りが現代的すぎて少し驚かされてしまった。そう、まるで会議室のような場所だった。
そんな一室に机や椅子が配置され、これまた見るからに高級そうなスーツや、お洒落なドレスを着た男女が、すごく事務的な椅子に腰をおろして静かに座っている。
「さて時間がもったいないので、少しばかり記憶を早送りします。妖怪については、また後日、くわしい説明をおこないますので、それについては、どうか、ご納得ください」
「それは、べつにかまへんけど。それより、ここどこなん?」
「冥府大帝殿の中にある裁判所です。そこに、座っておられるのは地獄の十王様と呼ばれるかたがたで、正面の奥に座っておられる御方こそ、なにをかくそう地獄の盟主たる閻魔大王様でございます。そして、さらに、そのとなりに立っておられる御方は、その名を五道転輪王様ともうしまして、閻魔様の世話役をつとめておいでです」
「んんっ、地獄の十王様だって?」
はて、どこかで聞いたことがあるぞ。ええっと、なんだっけ?
あ、そうだ。商店街の先にある神社の近くに十王寺って名の寺がある。
その寺にまつられているのが、たしかそんな名前のかたがただったはずだ。
「でも、俺が知ってる十王様って冠に道服姿だったよ。それに、もっとこうなんていうか、いかめしいというか、怖そうっていうか、あんなスラっとした感じの兄ちゃんや姉ちゃんやなくて、服装もあんなにお洒落じゃなかったけどな」
「ご主人様、いつの時代の話をしているのですか? 地獄も日々、進歩しているのですよ」
「――進歩?」そんな場ちがいな言葉に、さらなる戸惑いをうかべてしまう。
「いやまぁ、そう言われたら、ここは地獄の裁判所とやらだし、彼らも小粋な裁判官と思えば納得できなくもないけど、でも、一番奥にいるあの子が閻魔様って言われてもな」
なにしろ、そこにいるのは、どう見ても小学校六年生くらいの女の子だ。しかも、彼女一人だけがフリルやレースのついた黒いドレスを着ているので、やけに目立っている。
「あれって、見まちがいでなきゃ、ロリータファッションってやつだよね?」
「はい、とてもよくお似合いですわ。なんて可愛らしいのでしょう」
うん、すごく似合ってるっていうのは、そのとおりだ。その、なめらかな肌はフォアグラのような色白で、その瞳のかがやきは高級キャビアにもおとらない。
すると、そこへ、いきなり怒なり声が飛んできた。
「おいコラ、わらわのような美女をつかまえて、まだ見とれるのならよいものを、それを食材にたとえて、あまつさえヨダレをたらすとは、いったいどんな性格をしておるのじゃ!」
先ほど紹介にあがった閻魔様とやらが不機嫌そうにわめきちらしていた。
はて、こりゃいったい、どうなってんだ。いま心の中を読まれたぞ。
「あのさ、これって死後の体験を、もう一度再生してるだけって言わなかった?」
「はい、私のナレーション以外はまったく同じ体験を再生していますが、その時に感じた気持ちも再生されますので、まるで、いま体験しているかのように感じるだけでございます」
「ふーん、そうなの。でも、あのさぁ。俺の思い描いていた閻魔様のイメージとは、かなりギャップがあるんやけど」
「そう言われましても、彼女が三百六十代目の大王様にちがいありません」
「えっ、三百六十代目? ってことは、もしかして閻魔様って世代交代するってこと?」
「そりゃしますよ。日本の首相ほどではありませんが」
「いや、そうやなくて。死後の世界がほんまにあるとしても、そこにいる十王様とやらは神様やろ。神様は不老不死やろ。だから、その役職も永遠不滅やと思ったんやけど…」
「正確にもうせば神様ではありません。かつて古代の神々であったかたがたが、仏につかえるようになり、『天部』という名の仏様に加えられ、使命をさずかったのです。それいらい、その役職は天界に住む者たちによって受けつがれてきたのです。そのような者たちを『天籍者』といいます。ですが、その者たち、天界に住む人々にも、もちろん寿命はあります。さて現在の平均寿命はおよそ千年くらいでしょうか……」
「へぇぇ、長生きなんだねぇ……。ところで、いまから何がおこなわれんの?」
「もちろん裁判です」
「えっ、裁判だって! あぁ、もしかして俺、なにか悪いことしたか?」
「いえ、ちがいます。裁判を受けるのは、あなたではありません」
そんな会話をしているうちに、二人の男女が鬼に引きつれられて姿を現した。
「あっ! 親父、お袋っ!」
「――た、貴史っ!」
死後の世界だというのに全身か凍るような感覚を味わった。
「さて的場信二、的場孝子。おぬしらの罪はあきらかだ。ひとりは酒におぼれて家族に暴力をふるい、ひとりは絶望にたえきれず、ついに家に火をはなち、無理心中をはかった」
そう言ったのは、先ほどマリリンの紹介にあがった閻魔大王様だ。
「ですが、その罪は、不運につぐ不運が原因だともいえます」
十王様のひとりが言った。その優しげな顔は観音様のような慈愛に満ちていたが、さりとて、その身にまとうドレスはとてもゴージャスだ。最近の地獄はどうなってんだと困惑せずにはいられない。――が、いまは、それどころではない。これって、やっぱり裁判なんだ。
「なんだよ。ひどいじゃないか! 親父もお袋も、ちゃんとまじめに生きてたし、悪いことなんてしてねぇよ。最近ちょっと酒に酔ってただけで、お袋は寝ぼけて火の後始末をおこたっただけじゃないか。それに巻きこまれて死んだのは、しょうがないよ!」
「ふむ、親をかばう子の気持ち。わからなくもない。が、なぜじゃ、そなたはこの両親のせいで、まだ生きられたのに若くして死んだたのじゃぞ。少しも腹が立たんのか?」
「べつに腹は立たへん。俺には、どっちも立派な親だった。最後にちょっと人生に失敗しただけや。なぁ、たのむよ。許してあげてよ。それに、そんなこと言うなら俺にも罪はある。けっきょく俺は父さんや母さんの支えにはなれへんかった。父さんや母さんが苦しい時にオロオロしてばかりで、その心がつぶれていくのを、ただ見てることしかできへんかった…」
「そんなこと言うたらあかん。罪をおかしたのは俺たちや。すまん、俺たちがだらしないばかりに、おまえまでこないな目にあわせてしもて。なんて情けない親や。許してくれ!」
「貴ちゃん、ごめんよ。母さん、やっと目が覚めたよ。どうかお願いします。私たちはどうなってもかまいません。この子だけは、どうかこの子だけは生かしてあげてください」
泣き叫ぶ母の声が胸につきささった。どの十王様たちも、やり切れない悲痛のようなものを顔にうかべていた。そこに、閻魔大王様の声がおごそかに響くのだった。
「さて、さまざまな不幸に苦しんでいたとはいえ、二人の罪は重い。……しかし、その両名は、それほどの極悪人ではない。そこでだ、貴史よ」
閻魔大王様が目筋を俺へと向けなおし、少しだけその表情をやわらげた。
「そなたの親を想う気持ちには感じ入ったぞ。そこで、そなたが親の罪をともにつぐなうのであれば父母の願いをかなえてやってもよい」
「な、何をもうされるのですか、大王様? すでに死んだ者をよみがえらせることなどできませぬぞ。彼はこのあとすみやかに天界へ行くことが決まっております」
「だが、そうなれば父母は地獄。子は天界。その魂は引きはなされてしまう。それは、少し気の毒じゃ。よって親の罪をあがなう機会を与え、その働きしだいによっては罪が減るよう取りはからおうと思う」
「とは、もうされましても、貴史殿の肉体はすでに炎に焼かれて消滅しておりますが」
「そこは、またべつの肉体を用意する。まったくの別人になるがしかたあるまい」
なんか、かってに話がすすんでいく。それをただ聞いていることしかできなかった。
「して、そうまでして貴史殿に何をさせたいと?」
「うむ、みなの者よく聞くがよい。わらわは貴史を地獄の捜査官に任命し、人界へ派遣しようと思う。すでに彼には天籍が与えられておるゆえ、その資格はあろう」
「貴史殿、お断りなさい。そなたにはすでに天界へいく資格が与えられている。天界は人界とはくらべものにならぬ極楽。なにも苦労の多い人界にもどる必用などあるまいて」
「…あのぅ、その仕事をがんばれば父さんや母さんの罪を減らしてもらえるんですか?」
「だめよ、断って貴史。あなたには天国へいく権利があるのよ」
「そうだぞ。父さんと母さんは罪をおかしたんだ。これが、とうぜんの罰なんだ」
「とうぜんなんかじゃない! 生きているあいだもあんなに苦しんで、なのに死んでからまた苦しむなんてあんまりだ。わかりました。大王様。俺、その仕事、がんばります」
「よくぞ、もうした!」
「貴史、あんたって子は……」
「貴史、貴史、たかしぃぃぃっ!」
両親の泣き叫ぶ声を耳にしながら俺は意識をとりもどした。再びそこは病室だった。
「俺って、やっぱりすでに死んでたんやな。そのあげくに、まったくの別人に生まれ変わってたやなんて、もう驚きをとおりこして、夢うつつの気分やわぁ……」
「まぁ、正確にいえば『反魂の術』ですね。しかも、この人界において天籍者は不死身です」
「うわぁぁ、いきおいで、がんばりますって言っちゃったけど、俺、大丈夫かなぁ?」
「心配いりません。私どもがついておりますから」
「……私ども?」
「はい、この病院の駐車場に、もう一匹おります。ともあれ、すでに、さまざまな手つづきなどは終えておりますから、急ぎましょうか、大黒摩耶様――」
「ああ、それが、いまの俺の名前なんだね」
「そうです。まぁ、いろいろ突然ですが、ご納得いただけましたなら、まずはお着がえを」
納得もなにも姿までかわり、不思議な体験までさせられては覚悟をきめるしかない。
俺はゆっくりとうなずき、あらためてトランクの中を確認してみた。
見るからに高級そうなお洒落なシャツやズボンが、そこには用意されていた。
その中から、マリリンがいまの季節がらにあった手頃なものを選んでくれた。
「ええっと、ポール・スミスのTシャツに、フード・パーカー。パンツにはリーバイスのブラック・デニムなどいかがでしょう? まさに、完璧なコーディネイトとしかもうせません」
「あのさ、なに言ってんのか、さっぱりだけど。ちょっと後ろ向いててくれるかな?」
そう言ってから、俺は服を着がえ、その完璧なコーディネイトとやらに変身。
「――それで、これからどこへ行くのん?」
似合ってるかどうかはべつにして着心地は悪くない。
「大王様の言葉を思いだしてください」
「あぁ、俺、地獄の捜査官とやらに任命されたんだっけ……」
「そうでございますとも。すでに最初の任務が与えられておりますので急ぎましょうか」
そんな返答もそっけなく、マリリンの白い指先が病室の引き戸にかかる。
そしてガラガラと音をたてて、俺の新たなる人生が幕を開けたのだ。
と、思いきや、そこへ数名の看護士さんが通りかかる。
「きゃーっ、摩耶くん。今日、退院なんだって、おめでとう!」
「やーん、超かわいぃっ。超おしゃれっ!」
「ふふ、通信講座でさまざまな資格を取った、この有能秘書にかかればチョロイものです」
見れば廊下の先に立つその有能秘書とやらが、こちらをふり向き、なぜか自信まんまんの顔である。俺は看護士さんらにもみくちゃされながら、これからはじまる人生そのものに、はじめて大きな不安を感じたのだった。
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