その男、ダイソン

乙島紅

第1話


 迂闊だった。


 男は鮮血が滲む白スーツの右肩を押さえながら、月明かりが照らす狭い路地を駆ける。追っ手の足音は近い。こぼれ落ちる血の痕がこちらの位置を知らせてしまっているのだ。


 ……それにしても、まさか自分が始末される側に回るとは。


 男は胸の中で舌打ちした。

 彼は凄腕の「掃除屋」である。標的は着実に仕留め、その上で現場には証拠を一切残さないため足がつくことはない。ゆえに裏社会の中では「抹殺力の変わらない、ただ一人の掃除屋――〈ダイソン〉」として名が通っていた。


 その彼が今こうして窮地に陥っているのにはわけがある。……裏切りだ。組織に命じられて育成していた後輩に、任務直後の一瞬の隙を突かれてしまったのである。


 後悔が頭をよぎるが、今は過ぎたことを考える時間も体力も惜しい。ダイソンは周囲を見渡した。このままではいずれ追いつかれる。活路があるとすれば――


 見えたのは月が反射した水面だった。路地の先、フェンスの向こう側。淀んだ黒い水が溜まった用水路がそこにあった。


 いちか、ばちか。


 ダイソンは残る力を振り絞りフェンスを飛び越えた。無節操に廃棄されたゴミの臭気が鼻腔を突くも、もはや躊躇う余地はない。どぷんと響く水音。男の身体は黒い水の中へと飲み込まれ、闇に溶けるようにして消えていった……。




 ***




 数ヶ月後――


大村おおむらさーん! 三卓さんお帰りになったので片付けお願いします!」


「承知」


 かつて裏社会の掃除屋として名を馳せた男は、素性を隠して街中のカフェで働いていた。


 ミカド珈琲店。父と高校生の娘、人の良い親子二人で切り盛りする個人経営店である。


 傷はすでに癒えた。だが、それでもダイソンがこのカフェで働いているのはひとえに恩義があるからだ。


 数ヶ月前、ここの親子は用水路の汚泥にまみれて気を失っていた彼を、何の躊躇いもなく介抱してくれた。カフェの売上は毎月赤字ギリギリで余裕のない生活であるにも関わらず、だ。彼らは礼などいらないと言ってくれたが、ダイソンは義に報いる男であった。せめて世話になったぶんはと、カフェの清掃員としてタダ働きをすることにしたのである。


 ダイソンは似合わないフリルの白エプロン姿で三番テーブルの側に立ち、じっと標的を見定める。


「ふむ。このテーブル……油汚れが染み付き始めているな。おまけに乾燥でひび割れも入り始めている」


 ダイソンは腰を低く構え、丹田に力を込めた。


「ふんっっ!!」


 まずは素早い手さばきで食器をトレーの上に積み上げる。コーヒーカップ、ソーサー、ティーポット、パフェグラス。大小様々な形状の食器たちを無駄なくトレーの上に並べると、彼はそれを片手で軽々と抱えたまま今度はふきんでテーブルの上をさっとひと拭き。ゴミを華麗な仕草で絡め取り、ここまでコンマ数秒。


 すでに次の客を案内できる準備が整ったかに見えたが、ここで満足しては掃除屋ダイソンの名折れである。


 おもむろにエプロンの右ポケットから取り出したるは白いキューブ。……そう、激落ちくんである。水分を含ませたそれで、油汚れにダイレクトアタック! 目にも留まらぬこすりの速さに「キュッキュ」という特有の音を立てることもなく油染みの排除完了。


 そして次はひび割れの補修だ。左ポケットからはマスキングテープを取り出し、トレーを片手で支えたまま器用にひび割れに沿って貼ってみせる。そこに溶かしたみつろうクリームを塗り込み、他の客に悟られないスピードでヤスリをかけて仕上げ完了。マスキングテープを外せば元通り――いや、新品とも見紛うほどの美しいテーブルへと生まれ変わっていた。


「すごいよ大村さん! またピカピカになってる!」


 興奮気味に寄ってきたのはここのカフェの娘である星羅せいらだ。彼女もまた、学校が終わるとここのホールスタッフとして働いている。


「皿洗いもやっておいたぞ」


 ダイソンはくいと顎で厨房を指した。食洗機のないこの店では食器はすべて手洗いだが、彼の手にかかれば昼のピーク時に積み上がっていた食器の山もものの十秒で洗い上がる。もちろんコーヒーのシミがつきやすいマグカップはすでに漂白済みだ。


「ほんと、大助かりだよー。大村さんのおかげで評判も上がってるみたいだし」


 星羅はほくほくとした様子で店の外にできている行列を見ていた。元は閑散としていたミカド珈琲だが、ダイソンが働き始めてからというもの清潔感によって個人経営のカフェ特有の入りづらさが緩和され、客数はうなぎのぼりになっていた。


 なお、クチコミサイトに投稿されていた悪質なイタズラレビューもすでに「お掃除」されていることは言うまでもない。


「星羅、そろそろ注文を取りに行ったほうが良い。客が待っているようだ」


「あ、ほんとだ! 行ってくる! 大村さんはそろそろ休憩とってね。パパがまかない用意してるから」


 そう言って彼女はにこやかに客のところへと駆けて行った。こちらは恩返しで働いている身なのだから、まかないも休憩も気にしなくて良いと言っているのだが、彼らはちっとも聞き入れてはくれない。いつもまかないというには豪華すぎるサンドイッチとコーヒーを用意してくれる。


 彼らの人の良さに思わずふっと笑みがこぼれ、慌てて緩んだ口元を隠す。


 裏社会に身を投じてからというもの、久しく人の優しさというものに触れていなかった。疑心、駆け引き、裏切り……そんなものばかりが横行する世界だ。だから砂糖たっぷりに入れたミルクコーヒーのように甘くて温かい彼らといると、ついふやけてしまいそうになる。


(いっそこのまま掃除屋稼業から足を洗うのも悪くはないが……)


 そんな一瞬の気の緩みすら許してはもらえないのだろうか。抱えた食器を厨房に下げに行く途中、とある客たちの会話が耳に入ってきた。


「なぁ、これで三人目だろう。さすがに手がかりくらい出てきてもいいんじゃないか」

「それがさっぱりなんですよ。しかも三人とも、周囲の人から言わせてみれば突然失踪するような人物ではなかったそうで」

「だとすると……事件か」


 声をひそめ、神妙な顔つきで話し込む男二人。どうやら彼らは刑事のようだ。

 ダイソンは仕事に専念するふりをして聞き耳を立てる。


「どうもな、綺麗すぎるんだよ」


 年上の方の刑事が言った。


「似ている気がするんだ。隣町で暗躍していた掃除屋とな」

「ああ、聞いたことありますよ。確かコードネーム:ダイソンでしたっけ」

「ああ。奴が担当した現場には塵一つ残らねぇ……。その不自然すぎるくらいの綺麗さと、今回の雲を掴むような失踪三件はなんとなく手口が似ているような気がするんだ」

「つまり、そのダイソンが今回の事件に関わっていると?」

「まだ、勘に過ぎないけどな。それに、奴が一般人を狙う理由がいまいちわからん」


 二人の刑事はうなだれてソファーにもたれかかる。


 連続失踪事件。当然、ここにいるダイソン当人は関与していない。刑事たちに助言するわけにはいかないが、残念ながら勘は外れだ。そもそも、裏社会の人間以外に手を出すのは彼の矜持に反している。おそらくは偶然の連続か、あるいは別の何者かによる仕業だろう。


(いずれにせよ、今の俺には関係のない話だ)


 ダイソンはそう断じ、厨房の方へと足を進めた。その背中にじっとりとした視線が向けられていることにも気付かずに――




 ***




 それから一週間もしないある日のことだった。


「大村さん、星羅を見なかったかい!?」


 出勤したダイソンを青ざめた店長――星羅の父親が出迎える。


「どうしたんだ、そんなに慌てて」

「それが……星羅が買い出しに行ったっきり、全然帰ってこないんだ。スマホも繋がらないし……」


 星羅はしっかり者の少女だ。買い出しの途中で寄り道したり、父からの連絡で応答しないような子ではない。


 嫌な予感が、頭をよぎった。


「……星羅が買い出しに行った後、この店を出て行った客はいるか?」

「え? ああ、確かあの窓際のテーブルに座っていたお客さんがそうだった気がする。コーヒーをほとんど残していて妙だとは思ったんだが」


 ダイソンは店長が指したテーブルに近づく。すでに食器は片付けられており、一見何の違和感もないが……掃除屋ダイソンの目は床に落ちた白い液の痕を見逃すことはなかった。


「そこか……!」


 長身を屈めてテーブルの裏を覗き込む。天板の裏に修正液らしきもので書かれた白い文字。




『御門星羅は預かった。返してほしくば、お前の墓場に戻ってこい。生きた屍に居場所などない』




 それ以上の情報はない。だが、ダイソンにはこれを書いたのが誰なのかはすぐに見当がついた。


「大村さん……?」


 しゃがんだまま静止するダイソンに心配そうに店長が声をかけてくる。


「すまない、俺のせいだ」


 発せられた低音に店長は思わず肩をびくつかせた。

 ダイソン――彼は、怒っていた。

 犯人が無関係な星羅を巻き込んだこと、そしてこのためだけにわざわざ机を汚したことに。木目に入り込んだ修正液は簡単には落とせないのだ。犯人はおそらくそれを知っていて敢えてやった。なぜなら彼に掃除の極意を教えたのはダイソン自身なのだから。


 ダイソンはすっと立ち上がり、店長に向かってこうべを垂れた。


「少し出かける。星羅は必ず連れ戻すから、店長はここで待っていてくれ」

「それは、どういう……?」

「――世話になった」

「大村さん!?」


 深々と頭を下げた後、ダイソンは駆け出した。何か言いたげな店長を振り切り、後方を顧みることなく店を飛び出す。


 外は橙色に染まっていた。もうすぐ日が落ちる頃合だろう。その日差しの温かさに胸が灼かれるような思いをぐっとこらえ、ダイソンは足を早めた。目的地は隣町、数ヶ月前に後輩に裏切られ命を落としかけた、あの忌々しい現場である。




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