第2話


 その光景のあまりの惨さに、御門星羅は膝から崩れ落ちた。


 河川敷の橋の下。山積みになったゴミ、ゴミ、ゴミ。悪臭が立ち込め、破れたゴミ袋の下からは何の汁だかわからない黄色の液体が染み出している。橋の柱には極彩色の下品な落書きが施され、その中にある男の似顔絵があった。星羅もよく知る男の顔だ。そしてその横には「死ね」「ブサイク」「うんこ」などと小学生レベルの悪口が書き連ねられていた。


「なんですか、これ……」


 すると隣に立っている黒服の男がくっくと喉を鳴らした。彼女をここへ連れてきた男だ。


「餞別だよ。にっくき先輩へ贈る、な」


 その目に光はない。

 ぞくりと背筋が震える。

 この男は危険だ。早く、逃げなければ――そう思うのだが、腰が抜けてしまって足に上手く力が入らなかった。


 この場所には星羅と黒服の他にも三人いた。スーツ姿のサラリーマン、大学生らしき青年、それからスーパーのエプロンをつけた中年の女性。三人とも格好は薄汚れていて、ぐったりしていた。それもそのはず、河川敷じゅうのゴミをこの場所へ運んだのは彼らだからだ。皆無理矢理ここへ連れてこられ、黒服の男の命令で仕方なくゴミを集めているらしい。


「も、もう限界……身体中がゴミ臭くて鼻が曲がりそうだ……頼む、もうやめさせてくれぇ」


 サラリーマンが黒服の男に縋るように言った。

 だが、男は彼を虫を払うかのように退けると、地面に手をついた彼を冷たい眼差しで見下す。


「だめだ、まだ足りんな」

「で、でも……! もうこの辺りのゴミは一通り集めきって……!」

「だったらお前自身がここを汚せばいいだろう」


 男はしゃがみ、サラリーマンに向かって何かを差し出した。黒いスプレー缶だ。


「さあ、汚せ汚せ汚せ汚せ! その手できたなく塗りつぶしてみせろ! そうすればお前がしでかした横領のことは俺様が消し去ってやる。愛する妻と子どもに自分のきたない部分を知られたくないんだろう?」


 悪魔のような囁きだった。

 男に唆されたサラリーマンは「うわぁぁぁぁぁっ」と叫び声をあげ、自棄になったように黒いスプレーをあたり一帯に撒き散らし出す。


「ひどい……どうしてこんなことを……っ」


 唖然とする星羅を見て、黒服の男は嘲笑う。


「俺様は綺麗ぶっている人間が大嫌いなのさ。人間誰しも腹の中にどす黒いものを持っている。だが、あたかもそうじゃねえって顔している奴はどうにもいけすかん。……先輩はまさにそういう人だった」


 黒革の手袋をした拳に力がこもる。


「あの人は汚れ仕事をしている癖にいつだってお高くとまっていた。死んだ奴の金をくすねるなとか、カタギの目に留まる場所は元の状態以上に綺麗に戻せとか……うるさいったらありゃしない!」


 男の脚が貧乏ゆすりを始めた。話しながら苛立ってきたのか、激しく舌打ちをして星羅の服をむんずと掴んで立ち上がらせる。


「お嬢ちゃん。どうもあんたからも同じニオイがするが……本当のところどうなんだ? え? さらけ出して見せろよ。その腹ん中にあるどす黒いもんを!」


 男の手にはいつの間にかクリームパイがあった。パイ投げに使われるアレである。星羅に向かって投げつける気らしい。


 だが、星羅は退かなかった。


 眼を見開き、男をじっと見据える。

 その濁りのない瞳に優勢であるはずの男の方がわずかに狼狽えるのが映った。


「可哀想な人。そうやって他人を無理やり汚したって得られるものなんて何もないのに」

「……ッ!」

「いいよ。好きなだけ汚せばいい。汚れたって掃除すればいいだけだもん。私、怖くないよ。どんな頑固汚れも綺麗にしてしまえる人を知っているから」

「このっ……黙れ黙れ黙れぇーーーーッ!」


 激昂した男が星羅に向かってパイ皿を振り上げる。


 だが、次の瞬間には消えた。

 星羅に投げつけたのではない。

 何者かに奪われた。


 黒服の男はハッとして後ろを振り返った。

 そこにはパイ皿を抱える白スーツの長身の男――ダイソンが立っていた。


「食べ物を粗末にするのは感心しないな、よ」


 そう呼ばれた黒服の男の顔が、みるみるうちに歪んでいく。


「いつまで先輩でいるつもりだ? 俺様はもう、あんたにつけられた名前など捨てた」

「そうか。ならばどうして捨てた相手に執着する?」


 ダイソンの問いに、ルンバの額にはぴきりと青筋が浮いた。


「どうして? 決まっているだろう……あんたを始末して俺様が新しいダイソンに成り代わるためだ!!」


 ルンバが地面を強く蹴り、ダイソンへと向かっていく。ダイソンから見たら死角になっているが、その手には墨汁が握られていた。


「大村さん!」


 星羅が危機を伝えようとする。

 ダイソンは大丈夫だ、と頷くと体勢を低くして銃を構えた。水鉄砲である。


「なめるな! その程度の武器で俺様の攻撃を防げると思ったか!」


 キャップを外した墨汁が死角からぬっと現れる。その注ぎ口がダイソンの白スーツに狙いを定めるが――


「ふんっ!」


 ダイソンが水鉄砲の引き金を引いた。正確な射撃。墨汁の注ぎ口の先端に見事ヒットし、軌道をそらす。無意味に宙に飛び散る黒い墨。


「チッ!」


 ならば、とルンバは次の手に出た。懐から取り出す万能ナイフ。以前、ダイソンを裏切った時に使った得物である。

 だが、ダイソンもプロである。初めから敵意があるとわかっている相手に二度も遅れを取ることはしない。彼もまた懐に手を忍ばせる。


「遅いッ!」


 一瞬のうちに詰められた間合い。

 ルンバのナイフの先端が迷わずダイソンの急所目がけて突き進んでくる。

 ダイソンはそれを避けるわけでもなく、落ち着き払った様子で瞼を閉じて告げた。


「君には素質があると思っていたのだが……残念だよ」


 グサッ!


 ナイフの刃先に確かな歯ごたえがあった。だが、彼の白いスーツは汚れない。凶刃が貫いたのは彼の身体ではなく、彼が懐から取り出した最終兵器。


 ルンバは愕然とした。


「へちまたわし、だと……!?」


 それは先人の知恵の結集。

 へちまが三十センチを超えるほどになるまで気長に育ててから収穫し、身を腐らせてじっくりと乾燥させることによって出来上がる。その作るまでの手間と、たわしとして使うには硬すぎて融通が利かないことから、玄人向きの掃除道具として界隈では有名だ。

 それを、ダイソンは盾として使ったのである。


「ぐっ、抜けない……!」


 天然繊維が複雑に絡み合い、ルンバのナイフをがっちりと捕らえて離さない。ナイフを捨ててダイソンと距離をとろうとするルンバであったが、そうするより先に長い腕がぬっと伸びてきて彼の襟首をつかんだ。


「ルンバ。心が汚れきったお前は掃除屋失格だ。ボランティア活動でもして出直してこい!」


 黒服の身体が大きく円を描き、地面に叩きつけられる。


「が、はっ……!」


 華麗に決まった背負い投げ。ルンバはその衝撃に白目をむいて気絶してしまった。


 しんと静かになる河原。

 ルンバが戦闘不能になったのを見て、ここに無理やり連れてこられていた人々はそそくさと逃げ出した。ただ一人、星羅を除いて。


「大村さん……」


 何から話せば良いのだろう。

 聞きたいことは山ほどあるのに、怖くて言葉が出てこない。

 俯く星羅の肩を、ダイソンはぽんと軽く叩いた。


「巻き込んでしまってすまない。君が無事で良かった」


 星羅はふるふると首を横に振って顔を上げる。

 そこにあるのは真面目で仕事熱心で誰よりも綺麗好きないつもの「大村」の顔だった。

 でも、きっとこうして顔を合わせられるのは最後なのだろう。そんな予感が、胸をよぎる。


「しかしルンバめ。ずいぶんと汚してくれたな。これはなかなか手間がかかりそうだ」


 嫌がらせのため、だったのだろう。河原に積まれたゴミの数々や落書きを見てダイソンはげんなりとした様子で呟く。


「……手伝いますよ」


 星羅は言った。


「大村さん一人じゃ大変だもん。今までうちの店たくさん綺麗にしてくれたし、今度は私の番です」

「だが……」

「それに、私、好きになっちゃいました」

「え?」


 目を丸くする大男。普段見ない狼狽えた表情に、星羅は思わずくすりと笑った。


「掃除、ですよ。どんな汚れもピカピカにできるんだって、大村さんのおかげで知ったから。汚れが綺麗になると、自分まで綺麗になった気がしません?」


 星羅の言葉に、「あ、ああ。そうだな」と未だ動揺しつつも少し安堵したような表情を浮かべるダイソンがいた。

 日は落ち始め、周囲は薄暗くなり始めている。

 だから、きっと彼は気づいていないだろう。

 星羅の目の端に涙が浮かんでいたことに。


「さ、ちゃちゃっと片付けちゃいましょ! 早く帰らないとパパが心配しちゃうし」


 星羅はくるりと背を向け、気合いを入れるようにぐぐっと伸びをした。

 どうか、気づかないで。

 足かせになんてなりたくないから。

 そう願う少女の小さな背中にダイソンはふっと笑みを浮かべ、「そうだな」と小さく呟いた。




 ***




 ミカド珈琲は今日も盛況である。

 親子二人ではさすがに回しきれなくなって、従業員の数も増やすことになった。

 新人に対してとやかくうるさく言うつもりはないが、星羅は掃除のやり方だけは最初にしっかり研修をすることにしている。

 もう彼は二度とここへは戻ってこないだろうけれど、彼から受け継いだものを残し続けることはできるから。


「星羅。そう言えば店の裏に置いていたゴミっていつの間に持って行ってくれたんだい?」


 父が尋ねてきて、星羅はさぁと肩をすくめた。


 たぶん、彼だろう。


 今日もどこかで掃除に精を出しているだろう男のことを思い浮かべ、二人は顔を見合わせて笑った。




〈おわり〉


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その男、ダイソン 乙島紅 @himawa_ri_e

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